:1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。:2 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ書60:1-2)
クリスマス・イヴです。救い主の到来を待つ期間は終わりました。クリスマスは今から始まります。救い主の降誕を喜び祝うクリスマスが始まったのです[1]。
先ほどお読みした聖書のイザヤ書の言葉をもう少し延長して聞いてみましょう。
:1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。:2 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。:3 国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝 きに向かって歩む。:4 目を上げて、見渡すがよ
い。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。:5b そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののき つつも心は晴れやかになる。
一般的に580年代にイザヤに臨んだ神からの言葉と考えられています。一読してどのような感想をお持ちでしょうか。輝かしく希望に満ちたメッセージでしょうか。善き告知を告げるクリスマス・イヴ礼拝で朗読するのにふさわしい聖書の言葉でしょうか。文字だけを追えばそのような印象をお持ちになるかもしれません。
けれども、イザヤが神から託されたこの言葉の受け取り手がどのような状況下に置かれていたかを考えますならば、そう手放しで牧歌的思いにふけることはできません。キーワードは二節にあります。「見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。」 この時イスラエルの南ユダ王国は亡国の危機にありました。事実、紀元前587年に南ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされます。大地は文字通り暗黒で覆われていたのです。
では、なぜ私たちはクリスマスの始まるこの夜に悲しげな亡国の物語に耳を傾けるでしょうか。二節の前半を飛ばして「喜びだけ」のメッセージを読み上げても善かったのです。けれどもそうはしなかった。なぜなら闇を知らなければ光を識る(認識)することができないからです。光は光の中では輝かないのです。南ユダ王国が暗黒に包まれているからこそイザヤは光を語ったのでした。民は闇を知っているからこそイザヤは光を指さし続けたのでした。
この時イスラエルの民たちは神を見失っていました。自ら、神から離れてしまっていたのです。神は彼らを「我が宝」とおっしゃいましたが、自ら神の宝であることをやめてしまっていた。そこで起こったことはアイデンティティの喪失です。本来神の民として生きることがイスラエルのアイデンティティでしたが、神からの独立を試み、自分たちの能力だけで生きることを選び、己が力をアイデンティティの拠り所としたイスラエルの民は自己を喪失してしまいました。拠り所としていた力が音を立てて崩れてしまったからです。
そのような絶望のただなかに光が差し込む! 神の栄光が他ならぬお前たちのど真ん中で輝く。イザヤの驚くべき宣言です。神がそれをなすと言うのです。
:1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。:2 見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ60:1-2)
太陽が昇ってすべてを照らすように、自明の光として神の栄光が輝くのではありません。神が「お前たちに!」と心を留められたイスラエルの民に光を輝かせるのです。お前たちの上に私の光を輝かせよう、と神が意志した人々の上に神の光が輝くのです。
イザヤは続けます。すると……
:3 国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。:4 目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くか ら/娘たちは抱かれて、進んで来る。:5b そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。(イザ
ヤ60:3-5b)
この言葉を聞いたイスラエルの民はその後どうなったか……。彼らはイザヤの言葉に耳を傾けませんでした。歴史的にはイスラエルは、バビロニア、ペルシア、サンドロス大王のマケドニア、プトレマイオス朝のエジプト、セレウコス朝のシリアと次から次へとやってくる支配者たちに翻弄され、ハスモニア家による一時の独立回復はありましたが、すぐにローマ帝国の支配下に組み入れられる、というように、王国としては歴史から姿を消します。では、神のあの約束はどうなってしまったのか。神が輝かせた光は消えてしまったのか……。
実は…これで終わりではありませんでした。神の約束は人々が気付かないところで躍動し続けていたのです。福音書は宣言します。神が預言者たちを通して語り続けたあの約束はイエスと言う名のメシアの中に現れ、ついに成就したのだと。神の光は幼子イエス・キリストの中に輝いたのだと。神の栄光はナザレのイエスの中に顕現したのだと。福音書は言うのです。それがクリスマスの出来事であった!と。私たちの存在がピントを外していたとしても、私たちが生きたまま足元から腐らせていく何かにがんじがらめにされているとしても、神は光の中に私たちを招き入れてしまわれた、と。イエスの中に神の救いを見る者にはその光がわかると。
福音書が伝えるイエス降誕の善き告知に聴きましょう。時代はイザヤの時代から400年ほど下ります。
:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方 は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」……:9 彼らが王の言葉を聞
いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、 ついに幼子のいる場所の上に止まった。(マタイによる福音書2:1, 2, 9)
東方の占星術師たちは聖書の世界とは全く関係ないところで生きていたゾロアスター教(拝火教)の祭司たちでした。聖書の神信仰とは無縁の世界を生きていた人たちです。そんな彼らに突然星が輝いた! 彼らはどこから来たのでしょうか。旧約聖書学者の多くはイランあたりではと言います。
彼らは、聖書とは無縁の世界を生きる自分たちの上に輝いた星を凝視しました。そして、移動する星を追いかけました。その星の導きに自分たちの全存在を委ねて星を追いかけたのです。彼らにはこれが何のしるしだかわかりません。けれども星を追った。追って追って追い続けた。気が付けばその旅は二年以上に及んでいました。2000年前の中東です。楽な旅であろうはずはありません。
星は彼らにとっては地の果てともいえるベツレヘムに彼らを導きました。幼子イエスのお生まれになった場所――そこは家畜小屋(或いは家畜用洞窟)であった!――の上空で止まったのです。星はイエスの上でぴたりと止まりました。いつ迷子になって野たれ死んでもおかしくないような見知らぬ夜空のもとで星は時間を止めるかのように微動だせず静止したのです。星の光はイエスを指し示しました。イエスを照らしました。その閃光は東方の旅人たちの心をも照らしました。星のまばゆい光が彼らの心を満たしてしまったのです。
福音書のナレーションは余計な解説を加えずにイエスと出会った東方の博士たちの行動を記します。
:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイによる福音書2:10-11)
幼子イエスに出会った彼らは「大いなる喜びを喜んだ!」 そして、手に握りしめていたものをすべてイエスに捧げてしまった。使徒パウロとダブります。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピの信徒への手紙3:8a)[2]。
東方から旅人たちは不思議なことに見知らぬ土地で「ふるさと」にたどり着きました。光のふるさとです。私たちも時を超えて招かれているイエス・キリストという「ふるさと」です。命たぎる「存在の根源」です。あのイザヤの約束は確かにクリスマスの出来事として成就したのです。
ちまたのクリスマスソングのメッセージとは訳が違いますね。「去年のクリスマス、僕は君に愛をささげた。でも、まさにその次の日に君はそれをどこかへやっちゃったんだ」(ワム「ラスト・クリスマス」)[3]。私たちが頂いたクリスマスギフトは、「今いまし、かつていまし、やがて来られる方」そのものです。そのお方において現わされた愛と救いへの招きは不変です。今晩星空を見上げようではありませんか。神は星の輝きとイエスによる和解、解放を約束してくださいました。
起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。(イザヤ60:1-5b)
今晩から光の降誕祭が始まります。主の平和がありますように。アーメン
[1] 「降誕日前夜」を英語で「クリスマス・イヴ」(Christmas Eve)と呼ぶが、「イヴ(eve)」は「evening(夜、晩)」と同義の古英語「even」の語末音が消失したものである。もっとも、意味するところは25日の晩ではなく24日の晩。
教会暦の一日は日没から始まり日没に終わる。クリスマスも同様で、24日の日没から25日の日没までである。つまり、西方教会の伝統においては24日の日没以降がクリスマスであることから、その晩を「クリスマス・イヴ」と呼ぶのである。なお、ユリウス暦を使用する東方正教会では、クリスマス・イヴは1月6日の晩。
[2] 日本FEBC「2012年クリスマスレター」に込められた思いをこの箇所に語りに反映してみました。
[3] この部分は川端純四郎・関谷直人共著『クリスマス音楽ガイド』(キリスト新聞:2007)91頁からインスピレーションを頂きました。
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