イントロ
イエスの弟子たちは、イエスの十字架に躓き、自分たちのラビが殺されようとしているまさにその時に、師匠を捨てて、ちりぢりばらばらに逃げ
てしまいました。この時彼らが思い知らされた現実は自分たちの弱さです。愛する師匠を裏切ってしまう醜さです。弱さの故ではありましたが、これが弟子たちの現実でした。裏切ったのはイスカリオテのユダだけではありません。イエスの弟子たちは皆一様に自分の主を裏切ってしまったので
す。しかも、ユダがイスラエルの解放者としてのイエスに失望したように、彼らもまたイエスがどなたであるかを完全に見誤っていました。彼らもまたイエスの中に、偉大な教師以上の、力強い改革・解放者以上の「大事」(真理)を霊の眼で見ることができなかったのです。一言で言うならば、肉のイエスを知ってはいたが、霊のキリストを識らなかった。イエスの言行を見ていたが、イエスと言う出来事に開眼してはいなかった。命のたぎりの温もりは感じていたが、慧眼をもってその命のたぎりに身を浴すことはなかった、のです。彼らはユダと本質的にはまったく同じなのです。
挫折感、倦怠感、孤独感、虚無感が弟子たちを深く包み込んでいました。そこから抜け出すには、過去を忘れるしかありません。たとえそれが気休めであると分かってはいても、弟子たちは、もとの漁師の生活に戻っていきます。このままだったら、弟子たちは自分たちの「存在の根底」を完全に失っていたでしょう。
けれども、ある朝が彼らに、「存在への勇気」(Courage to Be)を与え、彼らの存在を回復したのです。
今朝は、その朝の出来事を皆で確認してみましょう。
I.
イエスはよみがえられた
安息日が終わって、週の始めの日の出来事をマタイはここで報告しています。この「安息日」 とは金曜日の夜から土曜日の夜までの一日を指しますから、時間的には土曜の夜中から日曜の明け方にかけて起こった出来事でしょう。マグダラのマリアと他のマリアたちは日曜日の明け方にイエスの納められていた墓に来ました。
マルコ伝とルカ伝の並行箇所では、この女性たちはイエスの亡骸に油を塗ろうとして墓にやってきました。それに対して、マタイの設定では、墓の警護に番兵が既に置かれているところから、ここで何かが起こる、ということをあらかじめ暗示しています。それは「復活の期待」といっても良いかもしれません。マタイ伝だけが「黙示文学」の手法を用いて、復活劇をドラマチックに報告していることから、それを感じることができるでしょう。マタイ伝では、墓の石がまだ閉じられているところの目撃から始まり、墓石の関かれる様子がリアルの描かれているのです。
この様子は一体どのようであったか、節を追って見てみましょう。
:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から下って近寄り、石をわきへ転がしの上に座ったからである。
この二節は、墓がまだ閉じられている状況から始まります。墓の石が閉じられていますから、油を塗ることができません。けれども、そこに大きな地震が起こりました。福音書は「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」からだ、と報告します。黙示文学では、このような表現では神の力強い御手がそこに臨んでいることを暗示しています。特に「石をわきへ転がして、天使がその上に座った」というのは、イエスを死の状態に閉じ込めていたもの――ここでは石に象徴されているわけですが――それが打ち砕かれたことの宣言と観ていいでしょう。人間の宿命となっていた「罪」から来る死の克服、また、神と人間の間にあった重苦しい壁が打ち砕かれたことの象徴です。死に勝利したイエスの姿との二重写しにされているのです。
続いて 3 節:その姿は稲妻のように輝き、その衣は雪のように白かった。
「雪のように白い」という表現はダニエル書7:9で「目の老いたる者」、つまりここでは神に対して用いられた形容です。「その姿は稲妻のように輝き」という表現も、ダニエル書10:6から来ているアイデアです。
さて、これらの表現は何を意味しているのでしょうか。 一言で言いますと、主は復活なさった、という神の確約です。より正確に言いますならば、イエスを復活させるという神の力強い意志が、ここに余すところなく宣言されている、ということです。神の国は、このようにして始まるのだと。
次に天使の言葉を見てみましょう。
:5「恐れるな、あなた方は十字架に付けられたあのイエスを探しているのだろう。:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていた通り、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
「前から言ってあったように、 イエスは死人の内より蘇られた!」。聖書的文脈において、イエスが正に神の子キリストであることがここに示されたのです。このとき、神の天使たちは立ち上がり、かん高い勝利のラッ パの音が全天に響き渡ったことでしょう。「キリストは蘇られた!」
次いで、天使より女性たちに、弟子達にイエスの復活を伝えるようにとの委託があります。
:7 急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にカリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』。確かに、あなた方に伝えました。
この女性たちはイエス復活の最初の証人です。
さて、次の区分に進む前に、全体の流れの中では挿入句のように入っている4節の 出来事を見てみましょう。それは、「大きな地震が起こって主の使いが現われたとき、恐ろしさの余り震え上がり、失神して死人のようになった番兵たち」についてです。
:4 番兵たちは、恐ろしさの余り震え上がり、死人のようになった。
死人を見張るために番をしていたはずの番兵たちが逆に、「真に活ける者の前で死人のようになった」という状況説明には、高ぶる者に対して非常に風刺の効いた皮肉が込められています。また、もし番兵たちが失神している聞に復活したイエスが墓から出て来たとするならば、彼らが一番初めに復活のイエスとまみえたことになり、これまた皮肉です。イエスがキリストであることを否定し、そのイエスを十字架につけた人々が最初の証人になってしまうのです。
II. 女たちとの出会い
:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていった。すると、:9 イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。:10 イエスは言われた。『恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこで私に会うことになる』。
「おはよう!」とイエスは言われました。ギリシア語では「ヘレテ」です。すがすがしいですね。アラム語ではシャロームと言われたのでしょう。イエスは「シャローム」(原型回復の平和)と声をかけることによって、人生に意味を与え、生きがいを生み出し、孤独な魂に「存在への勇気」を与えました。新しい一日が始まろうとしている時、しかも世界の歴史が一変して、新しい歴史が始まろうとしているその朝に、私たちの主が「おはよう、ヘレテ、シャローム」とやさしく語りかけたのです。女性たちはどれだけ喜んだことか。うれしさのあまり、彼女たちはイエスの足に鎚がり着きました。その中には遊女であったマゲダラのマリアもいるのです。(禁止の「すがりつくな」ではない)。
III. 弟子たちとの出会い ―主にルカ伝とヨハネ伝の記録より一
:10 イエスは言われた。『恐れることはない。行って、私の兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』。
イエスが十字架に架けられた時、弟子たちは誰ひとりとして残らず、皆散り散りばらばらに逃げてしまいました。人間的な目で見れば失格者というレッテルを貼られてしまうでしょう。弟子たち自身も「俺たちはラビを裏切ってしまったんだ…」という自責感に打ちひしがれ、その思いに苛まれていたことと思います。また、「この方こそイスラエルを贖って下さり、ローマ帝国の支配から解放してくれるであろう」と、あそこまで望みを賭けていたイエスが、いともあっさりと十字架刑で処刑され、死んでしまった、という変えがたい事実にとことん失望していたに違いありません。しかし、そのような状況の中に、あの挨拶が女性たちによって送られてきたのです。
「『おはよう!』 「主イエスは建って『おはよう』と挨拶されたの!」普通なら、「まさか・・・」です。
弟子たちは初め、女性たちのこの知らせを戯言のように思い、信じようとしませんでした。マタイ伝には、この知らせを聞いた弟子たちの反応について詳しく記録されていませんが、ルカ伝とヨハネ伝にはもっと細かな記載があります。疑い深いトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました(ヨハネ 20:25)。殆どの弟子たちもトマスと同様に、この報告を戯言のように思い、女たちを信用しなかった のです(ルカ24:11)。
そのトマスについてヨハネによる福音書にはこのような記述があります。
「心を騒がせるな(すでにしていることをするのをやめよ!)。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である(「私」という人称代名詞を使って強調)。わたしを(他の誰でもない「私」というニュアンス)通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
それに対してペテロの反応は興味深い。心からイエスを愛していたにも関わらず、三度イエスを否定し、裏切ってしまったペテロは、この知らせを聞いて「立ち上がり、一目散に墓へと走っていきました」(ルカ24:12a) 。そして、「身をかがめて中を除くと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰っていった」のです(ルカ 24:12b)。彼はこの後すぐに復活の主イエスにまみえることになります(ルカ24:34参照)。ここにペテロの善き告白は成就しました。「まことにあの方はメシヤ、『活ける神の子キリスト』であった」(マタイ16:13-20参照)。 ペトロは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」という言葉の意味をここで理解したのです。
主イエスは女たちに言われました。
:10 行って、私の兄弟たちにガリラヤへ行くように命じなさい。そこで私に会うことになる。
主イエスは言います。 『ガリラヤヘ帰れ ! 』
ガリラヤは弟子たち殆ど全員にとっての故郷であり、彼らにとっての原点です。すべてはそこから始まりました。
そのガリラヤは、旧約時代にはゼブルンとナフタリ族の嗣業の地だったが、アッシリヤによって滅ぼされた土地でした。イザヤ書では「暗黒の地」「死の陰の地」と形容されています。アッシリヤ人が入植してきて血統の純潔を失い、宗教的にも異端視され、いわゆる正統的ユダヤ人からは汚れていると見倣され、軽蔑と憎しみの目で見られていました。主イエスはそのようなガリラヤヘ初めに降って行き、「神の国は近づいた! 今こそ悔い改めて神のもとに帰ってこい。私は神からのシャローム!」と、宣言されたことを思い出して下さい。神の国はここから始まりました。弟子たちはこのガリラヤで主イエスと出会い、そして、呼び集められたのです(エクレシア)。
弟子たちは「主はもはや我々を信頼してはいまい… 」と思っていたにちがいありません。ペテロは特にでしょう。しかし、主イエスは言うのです。「もう一度帰って来い」。「私は弱いままであなたを用いる(マタイ28:19)。そのままのあなたを、復活の命で満たして内なる思い を燃え上がらせてしまうぞ! そのままで、です。
結び
弟子たちが復活のイエスを出会って体験した「存在の回復」そして「存在への勇気」、そしてそこに根付く「生きざま」の何たるかは、その後の彼らの生涯が語る通りです。
主イエスはあの新しい朝に発せられたあの「シャローム」を、今朝もまた、私たちの心に語りかけて下さっています。ニコニコしながら、わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない、との宣言と共にです。
そんな主の挨拶に支えられて歩む生涯を閉じるとき、私たちは「生まれてきた良かった。生きていて良かった」と心の底から神に感謝することができるでしょう。そして一本道を通り、「人生の深い河」を渡り、神のみもとに駆け上がるのです。 |