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2012/01/08  「不思議な訪問者」――新しいファラオと新しいモーセ
―― マタイによる福音書2:1-12

イントロ

 今年度は12月25日がクリスマスでしたので、先週の木曜日で12日間のクリスマスが終了し、一昨日の金曜日から顕現節に入りました。西方の教会暦ではこの日曜日に主イエスのバプテスマに思いを馳せることが多いのですが、ユリウス暦を採用する東方正教会では昨日からクリスマスシーズンが始まったことを尊重して、本日は降誕節第二主日と顕現日に読まれる東方の占星術師来訪のエピソードに聴きましょう。


I.                  東方の星

:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方 は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

 有名な物語です。主イエスがお生まれになった時、どこだか場所は分かりませんが、ユダヤのはるか東――日の昇ところから――で、救い主の誕生を星の観察で知った者たちがいたと福音書は言うのです。新共同訳は「東方でその方の星を見た」と訳していますが、ejn th/' ajnatolh/' はフランシスコ会訳や岩波訳(佐藤研)のように「その方 の星が
昇るのを見た」とも採ることができます。ともかく、星を発見したのはイスラエルの宗教とは縁もゆかりもない東方の占星術師たちでした。 
  7世紀頃にできあがった伝説では彼らは王或いは賢者で、メルキオール、バルタザール、カスパールという名まで付されています。占星術師たちが幼子イエスに携えた捧げものが黄金、乳香、没薬の三つであったことから三人と言うイメージが出来上がったのでしょう。ちなみに、メルキオールは王権の象徴、黄金を捧げた青年の姿の賢者、バルタザールは神性の象徴である乳香を捧げた壮年の姿の賢者、カスパールは将来の受難である死の象徴、没薬を捧げた老人の姿の賢者でした。もっとも三人などとは聖書のどこにも書いていませんし、王、賢者ともありません。後代の教会はイザヤ書60章を東方からの来訪者を導いた光と王のイメージに投影させたのでしょうか。

起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。…そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる(イザヤ書60:2,3,5)。

 東方の占星術師たちはいわゆる「まぶね」(Nativity)のシーンには必ず登場し、私も米国留学中“Christmas in Chapel”というイベントのワンシーンで王らしき人物の一人を演じ させられました。極東の人間というだけの理由で、です。
  それはご愛嬌として、今一度思い起こして下さい。彼らはイスラエル宗教とは縁もゆかりもないどころか、ペルシアかバビロン地方のゾロアスター教の司祭たちであったと思われます。そもそも占星術師と訳されている言葉「マゴス」(複数形では「マギ」)は「マジック」(magic)の語源なのです[1]。このような、ユダヤ人からすれば異教のまがい物の宗教家たちがイエスのところに馳せ参じたのでした。「ユダヤ人の王」に出会うためです。後にヘロデ大王は「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺害した」(同16節)とのマタイ福音書の報告を額面通り受け取れば、イエスはおおよそ二歳になっていたと考えられます。ペルシアからラクダに乗って二年かけて旅をしてきたのでしょうか[2]。
  マタイは言うのです。彼らが誰なのか、どこから来たのか、どの星を見たのかjは知らないが、まだ誰も知らなかったし、誰も認めはしなかった幼子に救い主を見て、この幼子をユダヤの王と認めてひれ伏した。見よ、今や神の救い主はユダヤ人だけの救い主ではなく、全世界の救い主となった。神はすべての魂の救いとなって下さった、と。確かに、天使ガブリエルはヨセフにこう言いました。「マリアは男の子を産む。その子をイエス[「神は救い」の意]と名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:21)。


II.                  新しいファラオと新しいモーセ

:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

 さて、このエピソードは異教の占星術師登場など、冒頭から不思議さに満ちているのですが、ここでも読者には一見不可解なことが起こります。占星術師がわざわざヘロデ大王(紀元前37-起源4)の元を訪れ、現役のユダヤの王に、新たなユダヤ人の王の所在を尋ねるのです。細かなことには触れませんが、ヘロデ大王はローマ帝国元老院の権威に寄り添い、数々の政争、戦闘を制してハスモニア王朝に代わる王朝を打ち立て、ユダヤ人の王の座に収まった人でした。自分の地位を守るために苛酷な粛清も行っています。妻、義弟、義母も殺害しました。そのような人物に対して、占星術師たちは能天気にも「新しい王様はどこですか」などと訊いたのです。その問いに対してヘロデが不安な思いに駆られたのは当然ですが、ハスモ
ニア王朝からローマ支配、そしてローマの傀儡政権ヘロデ大王へと支配者が目まぐるしく変わり、社会の大混乱を経験したエルサレムの宗教指導者や住民たちが不安に思ったのもよく理解できます。為政者が分かると言うことは、社会の混乱と直結していましたから。
  けれども、ストーリーの不可思議さは続きます。ヘロデは冷静を装い、:4 「民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただし」(:4)、その場所を確認するや否や、「占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた」(:7)と言うのです。それだけではありません。ヘロデ自身も「私も行って敬意を表し礼拝しよう」(:9)と言うのです。後に明らかになるように、ヘロデは幼子イエスの殺害を意図していましたから下手な芝居を打ったものです。

 さて、この不思議な構図は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。マタイ福音書の受け取り手たちは何をイメージしたでしょうか。答えは三つのシンボルです。ヘロデの下手な芝居と後の二歳児以下の幼児虐殺は出エジプト記のファラオを想起させました。となれば、他の男の子たちと一緒に今にも殺害されんとする幼子イエスはモーセに他なりません。読者はヘロデの登場に、新しいモーセを確認したのです。民を救いへと導く新たなメシアを、です。マタイはユーモアに富んだ風刺も込めました。イエスの逃亡先はエジプト。かつてイスラエル人に破滅と死をもたらした地です。それが今は安息と命をもたらす地として神が用意された、と[3]。
  もうひとつのシンボルは光です。新たなファラオ、ヘロデ大王は幼子イエスを殺そうとしました。闇が光を消し去ろうとしたのです。けれども、闇は光に打ち勝たなかった! 東方で立ち昇った星の光は占星術師たちを照らし、彼らに先だって進み、遂に幼子イエスのところまで導いたのでした。未だ見ぬ土地を指示した「東方で見た星が…ついに幼子のいる場所の上に止まった。」(:9) 光輝いたのです。それまで「救いの外側」に置かれたいた者の上に命の光が降り注いだのです。父なる神は、主イエスを諸国の光、世の光としてくださいました。ルカ福音書では老シメオンが喜びの賛美を捧げます。「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:31-
32)。東方の占星術師たちも歓喜しました。不思議です。これから起こることをまだ何も知らないのに、この幼子が自分の運命や存在とどのような関係にあるのかをまだ理解していないのに、彼らは「その星を見て喜びにあふれた」(:10)のでした。その喜びがどれほどであったか。ギリシア語原文を直訳してみましょう。「彼らは激しく、大きな喜びを喜んだ」[4]。「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」(:11a)とは言え、貧相な両親、貧相な幼子だったでしょう。イコンにあるような黄金の輪っかなど頭にはなかった。そんな彼らを見て、東方からの来訪者たちは喜びに溢れかえったのでした。何と言う逆説でしょうか。ユダヤの政治的王は喜ぶどころか幼子の命を奪おうとしました。ユダヤ教の宗教指導者も喜?
?どころか不安を覚えるだけでした。けれども、聖書の啓示とは無縁のゾロアスター教の祭司たちは闇に勝利する光を喜んだのです。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げ」ました(:11b)。彼らの喜びの表明であると同時に、福音書記者のメッセージです。
  ただし、そのメッセージは「黄金は王のため」、芳香を放つ「乳香(アラビア及び東アフリカ産の乳香樹のゴム状の樹液を乾燥したもの)は神のため」、同じく芳香を放ち、ミイラを作る時などに防腐剤の役割を果たす「没薬(アラビア産ミルラ樹の樹脂)」はやがて磔刑死する救い主のため、といった象徴的なものではありません。先ほどお読みしたイザヤ書60章を更に読み進みますとこのような文言が登場します。「シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる」(イザヤ60:6b)。つまり、マタイは単純に、けれども読者に驚きを喚起しつつ、これらの献呈品はアラビア産の富と高価な香料を代表するもので、まさに王に対する献げものであった、と言うのです。聖書の啓示とは無縁の東方
の占星術師たちが、星の光が照射する貧相な幼児を万民の王として、ローマ皇帝をも遥かに凌ぐ世の光として、イエスの前に額ずいた、と言うのです。

結び

 降誕節を締めくくる福音、そして顕現節の開始を告げる福音に聴きました。マタイは私たちの主イエスを新しいモーセとして、ローマ皇帝など足元にも及ばない光の降誕祭の極みとして提示します。黄金を始め高価な献げものをヨセフ一家はその後現金化したのかなあ、などと福音書記者の意図とは無縁の想像は脇に置いて、マタイの福音を噛みしめましょう。日の本に住む私たち極東の住人たちにも星は昇りました。私たちにもその星が見えます。ここに集う者皆が、その星に導かれてキリストのもとにやってきたのです。年頭に当たって共に夢を見ましょう。共に祈りましょう。いつの日か私たちの家族が、親戚が、友人が、近隣の方々が、そしてすべての日本人が、初日の出の中にイエスの光を見いだす日を。
 新しいモーセが私たちに同伴して下さっています。東方で輝いたあの星の光のもとで。安んじて、希望を持って今年も一歩一歩あゆんで行こうではありませんか。


[1] 織田昭は「メディアの一部族マギ Mavgoi に属する人;ペルシア宗教に帰化して世襲的に神に仕えたが、彼ら特有の古い宗教習慣を持ち、占星術や夢占いその他の技術によって知られた」と解説している(織田昭『ギリシア語小辞典』[教文館:2000]mavgo" の項)。
[2] 東方正教会のイコンには三人の王たちが幼児イエスを礼拝するものが多数あり興味深い。
[3] J.D.クロッサン、M.J.ボーグ共著『最初のクリスマス:福音書が語るイエス誕生物語』(浅野淳博訳、教文館:2009)6章参照。(原著:Borg,
Marcus and Crossan, John Dominic. The First Christmas: What the Gospel Really Teach About Jesus’ Birth [New York: HarperCollins
Publishers], 2007)。
[4] 田川建三も「非常に大きな喜びを持って喜んだ」と直訳している(田川建三『マタイ福音書』:2008)。