イントロ
一言お断り致します。生意気なことを申すかもしれませんが、この講演は、私自身へ突きつけた提言でもあることをご理解下さい。
過去や未来について語るのも難しいですが、「今」を語るのは最も難しいかもしれません。なぜなら、「今」は常に現在進行形であり、その瞬間「今」であったものは次の瞬間には「過去」として過ぎ去るからです。英国の歴史家、E. H. カーはこのような言葉を書き残しました。「歴史の本質とは、変化であり、運動であり・・・進歩である」(『歴史とは何か』)。最後の「進歩」には疑問符をつけるにしても、カーはこの立ち止まらない歴史を「過去と現在との対話であり、過去の事件と次第に姿を現そうとしている未来の結果との対話である」とも言います。「今」は常に前進しつつ、歴史の只中を生きる私たちに常に、「歴史の中における現在」を突き付ける、とでも言いたげです。
けれども、この運動する「今」を、人は、あたかも静止した時間であるかのように捉え、そのように振舞いがちでしょう。ドイツの神学者、パウル・ティリッヒは、「『今』とか『今日』とかいう時、私どもはいつでも、自分自身のために、時間の流れをせき止めている」(著作集別巻一『永遠の今』)と語りました。彼はそれを「直前の将来のことしか見[ず]…目前にあることだけを考え、そのために働き、そこに望みを抱くだけで、遠くにある将来を意識することは切り捨て」ているからだと(同書)。
講演IIのテーマは「今日」(現在)――いつまでも変わらないイエス・キリストとそのお方がもたらした福音を、「今」との関係で考えます。冒頭からややこしい言葉を引用しましたのは、過去、未来との関係における「現在」が何であるのか(それは運動し続ける「今」)を始めに確認しておきたかったからです。
いつの時代も、「今」は前進し、変化し、運動し続けてきました。けれども、21世紀の現代社会が経験している「今」の変化のスピートは過去とは比べ物になりません。少なくとも工業化された先進社会では、人間が変化を必死に追いかけねばならないほどそのスピードは速いのです。過去との対話や変化との共存を、遠くにある将来を意識しながら考える、などと悠長なことを言っていては置いてかれてしまう社会――それが「現在」です。しかしながら、逆説的ですが、科学技術が発達し、グローバ化が進み、ボタン操作ひとつで瞬時に世界のどこにでも飛んで行ける今日の「今」を、ティリッヒならば「時間の流れのせき止めだ」と言うでしょう。スピードは違えども変化はいつの時代にもありましたが、過去には目もくれず、遠くにある未来をも無視して、歴史的現在ならぬ、「断片化した現在」(運動のない現在)だけを必死に追いかけるあり様は、現代人の大きな特徴だからです。地球温暖化対策の遅れ、人類の危機に対する問題意識の希薄さは偶然ではありません。「今」をどう捉えるか、その眼差しの副産物と言っても過言ではないでしょう。
現代社会の病巣はどこにあるのか…。「永遠の世界」「永遠の今」を失ってしまったところです。神であろうが、仏であろうが、世紀を貫く、そして歴史を突き破る「おたいせつ」との縦の関係をとことん失ってしまった事件にです。当然のことながら、縦の関係の喪失は横の関係にも影響を及ぼしました。地域共同体は溶解し、宗教は益々私事化してしまったのです。その影響をキリスト教会も無視することはできません。エキュメニカル運動や聖書によるキリスト者の一致が叫ばれ、促進される一方で、信仰の先達たちが使徒信条やニケヤ信条などで表現した「聖なる公同の教会」「聖にして普遍的使徒的教会」とう教会理解が教会の中で減退しているのです。教派内教派や教会内教会やキリスト者内キリスト者、教会外キリスト者やインターネット内のヴァーチャルキリスト者の数は増す一方です。制度宗教や既成の教会にプロテストする良心的教会や良心的キリスト者ほど、その傾向が強いのは何とも皮肉です。彼らはアンチテーゼとしてのセクトとして存在するのみで、テーゼとアンチテーゼを向こう側にある「教会の公同性」への思いは極めて希薄なのです。批判はしてもその批判を自ら克服できていません。米国聖公会総裁主教(The Presiding Bishop of the Episcopal Church of the United States)、キャサリン・ジェファーツ・ショーリは今年7月に「福音派的個人主義に基づく信仰理解は、教会と今日の社会が直面する多くの問題の背後に横たわる西洋の大いなる異端的思想である」とコメントして物議を醸しましたが、彼女が念頭に置いて発言した「社会正義」と「人類共生」の次元を超えて、その主張は「教会の公同性の欠如」「宗教の私事化」「セクト主義」という問題に一石投じています。[1] 逆説的ですが、自らの主張に固着し他との差別化を図り、他から自分を区別しそれを絶対化する、と言う意味で、これも「時間の流れのせき止め」のひとつの現れと言えるでしょう。
我々が抱えている問題の背後に、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という、信仰者共同体の屋台骨である「コミュニティーの神」概念の弱化と、それに代って台頭してきた「私だけの神」という個人主義的信仰の強化という現象を、私個人は見るのです。これはティリッヒが警告した「時間の流れのせき止め」と教会共同体のレベルで表裏一体の関係にあるのは言うまでもありません。[2]
I. ヘブライ人への手紙の福音宣言
冒頭からややこしい引用や産経新聞の「正論」のような語りになってしまいました。杉山世民先生からは「分かりやすく話してな」と釘を刺されていたのですが…。けれども、ひとえに次の聖書の言葉をかみしめたいが故の準備運動でした。ご海容ください。
「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ人への手紙13:8)
時代がどう変わろうとも、「イエス・キリストは昨日も今日も同じ方である。しかも、永遠に至るまで。」(私訳)。この個所は恐らく、詩編102:28の言葉が元になっています(口語訳、新改訳は27節)。「あなたが変わることはありません。あなたの歳月は終ることがありません。」 キリスト者であったヘブライ書の著者は、詩編からインスピレーションを受けてこのように言い換えたのでしょう。変化に富んだ今日、この言葉は私たちの人生の錨となる福音宣言です。「有難い」福音です。Amazing Graceです。
そんなことは分かり切っているよ、とどうかおっしゃらないでください。時代の変化は否応なしに私たちに襲いかかります。そしてその力は時として、私たちをキリストの教えからも引き離してしまうのです。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」であるとは分かっていても、闇の力は、「そうじゃない、刹那だよ」と私たちにささやき続けるのですから。無常の人生の中で、残酷な人生の中で。コヘレトもそのような人生の現実を思い、本音を漏らしています。
わたしは顧みた/この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく/風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。(コヘレト2:11)。人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来た時の姿で、行くのだ。労苦の結果を何ひとつ持って行くわけではない。(同5:14)。
また、時代の変化に抗するあまり、ヘブライ書の言葉を「停滞」と「セクト主義」の道具にもなさらないで下さい。イエスは運動し続けるお方です。教会史や教理史、組織神学の教科書を手に取るまでもありません。イエス・キリストの変わらぬ福音は、どの時代にもそれぞれの時代の文脈で普遍的メッセージを発してきました。コヘレトはこのようなことも言っています。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。(コヘレト3:11)。
II. 信仰の記憶
私たちが生きる複雑怪奇な世界の現実は今も昔も変わりないようです。そして、その世界を生きる生身の人間の現実も全時代を通じて同じようです。ヘブライ書を読みますと、常に変化する「無常の今」が、信仰者を「永遠の今」から「有限の刹那」(有限の今)へと今にでも弾き飛ばさんとする緊張感がひしひしと伝わってきます。永遠のキリストを、今に限定された人間イエスへと格下げせんとする人々の虚無感が伝わってくるのです。
ですから、ヘブライ書の著者はこのようにしたためたのでした。
あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい(ヘブライ13:7)。…いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません(同13:9a)。
指導者がどのような人たちであったか。この前の個所を見れば分かります。常なる兄弟愛を持ち、旅人をもてなし、他者の苦しみを自分のものとして共有し、結婚の聖なる関係を尊び、金銭に執着せず、「今」持っているもので満足し、主がいつも共にいて下さることを信じ、その主に信頼し続け、この世の生を全うした、そのような人たち。その終わりは、迫害による殉教の死であった可能性も大いにあります。
「彼らを思い出せ。」 ヘブライ書の著者は「永遠のキリストで(in Christ)生きた先達たち」の生きざま、死にざま、そして、その背中が証示していたお方に今一度目を向けよ、と情熱を込めて奨めるのです。指導者たちを天に送り不安でいるヘブライ教会の信徒たちに、彼らの信仰の記憶は時空を超えて君たちの中にも息づいているではないか、と。
近年私たちは立て続けに信仰の先輩たちを天に送りました。エセル・ベックマンさん、竹川洋三さん、岡幸男さん、織田昭さん、ドナルド・バーニーさん、ポーリン・マクセイさん。めじろ台キリストの教会でも先々週、青山千枝子さんという大先輩を天に送りました。キリスト者にとって「死」は「平和」です、「感謝」です。けれども、残された者たちの正直な気持ちは、不安でもあるのです。召された信仰の先輩はもうこの世にはいません。寂しいですね。
先輩たちが健在だった時は時にその存在を鬱陶しく感じることもありましたが、安心がありました。若い時の放言や右左にぶれる自由闊達な歩みも、どっしりと構えてくれていた先輩がいて出来たことです。私たちは知っていました。彼らが陰で祈り、慧眼をもって私たちの歩みを、時に補助し、時に矯正してくれたことを。神の言葉の世界に全身を投じ、全存在を賭けて神と格闘しながら歩むその歩みがどのようなものであるか身をもって示してくれた信仰の先輩、人生の恩師とは有りがたいものです。
さて、世代交代が進む今、今度は私たちが先輩たちの役目を果たす時が来ました。果たしてこの私も先輩たちのようになれるのか。不安です。けれども、結構デコボコしていた先輩たちに対してもそうであったように、私たちの思いとは無関係に「風(プネヴマ)は思いのままに吹く」(ヨハネ3:8a)のでしょう。私は人々のお手本とは無関係であると思ってはいても、後の世代はきっと「あれも神のひとつの声であった」と霊のまなこで看取、察知してくれるでしょう。皆さんも思い出深いデコボコ恩師や先輩たちを指折り数えることができるのではないでしょうか。私の恩師の恩師たちも、若干名を除いて、かなりデコボコしていたようです。教会史の教科書をひも解けば、「エッ、これが私たちの信仰の先達? こんな人たちからキリスト信仰をバトンタッチされてきたの?」という驚きの人物が多数登場します。(その前に、聖書にも数えきれないほどの呆気者が登場しますが…。) けれども、それが「パウロからテモテへ」の世界です。そして、イエスの弟子たちから続く、世紀を貫く神の民の信仰の物語です。彼らもまた、永遠のキリストで(in Christ)生き、死に、信仰者の生の足跡を神の歴史の中に残したのでした。大丈夫です、永遠の大祭司、イエス・キリストがその要石なのですから。彼らの歩みの中に隠れている聖霊の足音(神のコト)に耳を澄ましましょう。同じ音が私たちの足元にも響いているはずです。その時、宗教は私事化を止め、セクト化を放棄し、信仰者共同体(the communion of faith)は必ず生起します。
III. でもね、今を生きるって大変だよ(本区分は全体の中では論理的整合性がありませんが、現実に即した話しをするため、敢えて組み込みました。)
ここで話を閉じても良いのですが、「今日」の関係で福音を論ぜよ、との宿題を与えられた以上、視点を変え、もう少し話を続けなければなりません。
私は主イエスと出会い、その福音の息吹に生かされ、人間の本来あるべき姿へと招き入れられました。私の全存在は神によって贖われた、と確信しております。けれども、正直に告白せねばならないのです。未来はともかくとしても、「今」という瞬間、瞬間をキリストで生ききれてはいない。復活の主に委ねきって、常に天を仰いで歩けているわけではない、ということを。そのように生きたいのですが、現実は必ずしもそうではありません。時間のせき止めです。
主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し
命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け
長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。
(詩編103:3-5)
イエス以前の詩編の詩人ですらこのように告白しているのですが……何が感謝か、何が恵みか、何が恩寵か、何が主の慈しみか、何が憐れみか、何が病の癒しか、何が罪の赦しか! そのようなものはすべて絵に描いた餅、戯言ではないか、と思うことが多々あるのです。キリスト者であっても、です。こうむった悲惨が旧約聖書のヨブとまではいかなくとも、その人が思う苦痛、痛み、人生の破れという意味では、ヨブと寸分も違わぬ現実が私たちの人生の中にはあります。あるのです。その時、私たちは「神様、ありがとうございます」と言えるのでしょうか。ヨブはそれでも「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ1:21)と叫びましたが、その後の彼の議論を見れば、そう簡単に神が与えた試練を消化できたようではなさそうです。人生はそう簡単なものでない、と信仰の先輩ヨブは呻いています。他ならぬ主イエスも十字架上で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。…わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と叫ばれました。神の子がこのような叫びをあげられたのです。
私たちは、私たちの正味の生活、一度しかない人生の中で経験する痛みをどうしたら良いのでしょうか。来世があるではないか、なとどいう甘い話が入り込む余地はないのです。自分の限界をどう主にお委ねしたらよいのでしょうか。答えは聖書に書いてあるのですが、書いてあるという事実が必ずしも私の実存、魂への真実にならない時があるのです。そのような時、私たちはどうしたらよいでしょうか! 「何事にも時がある」というコヘレトの言葉を反芻しながら、黙して座すしかないのでしょうか。そうです。黙して座すしかないのです。ヨブもそうでした。「ヨブは灰の中に座し、素焼きのかけらで体中をかきむしった」(ヨブ2:8)とあります。その苦痛はヨブ記の三章に余すところなく披瀝されています。
私たちはそれでも絵に描いた餅から始めるしかありません。実はここから何かが始まります。否、ここからしか何も始まらないのです。カトリック作家、遠藤周作さんはこのパラドックスをその作品群の中で余すところなく表現しました。キリスト者ではありませんが、哲学者、西田幾多郎もその真実(絶対無の真実)に開眼していたからこそ、子供や夫人を病気で失うごとに、坐禅に没頭したのでした。哀歌三章の歌人の言葉を思いだしますね。彼はバビロンの攻撃によって廃墟と化したエルサレム神殿の只中で座し灰を被り、このように呟やくのです。
わたしの魂は平和を失い/幸福を忘れた。
わたしは言う/「わたしの生きる力は絶えた/ただ主を待ち望もう」と。
苦汁と欠乏の中で/貧しくさすらったときのことを決して忘れず、覚えているからこそ/わたしの魂は沈み込ん でいても再び心を励まし、なお待ち望む。
主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。
主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。
主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。
主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
若いときに軛を負った人は、幸いを得る。
軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。
塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。
打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。
主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
(哀歌3:17-31)
1989年に製作された映画に “We are No Angels” (邦題:『俺たちは天使じゃない』)という作品があります。[3] 主演ショーン・ペン、ロバート・デ・ニーロが収監されていたカナダ国境近くのアメリカの刑務所で他の死刑囚が起こした脱走騒動に巻き込まれてしまい、一緒に脱獄してしまうところから物語は始まり、逃亡中森の中で突然出会った老婆にとっさに「僕たちは神父です」と言ったことからどんどん深みにはまり、挙句の果てに高名な神学者に扮して修道院に紛れ込み、神父の修行をすることになるというドタバタ劇。ちなみに、彼らが紛れ込んだ町は貧しいローマ・カトリックの村で、脱獄した刑務所は目と鼻の先にあります。刑務所署長は荒れ狂った狼のようにハウンドドッグを動員して脱獄囚を追いかけるのですが、彼らは修道院で生活するうちにだんだんと信仰に目覚めていくのです。
さて、修道士に扮したショーン・ペン(ブラウン神父)はひょんなことから、キリスト教のお祭りで村人など大勢の人々の前で説教をしなければならなくなります。フランスの巡礼聖地ルルドで期待されるような奇跡を祈り求めるお祭りですので、聴衆の中には、病気や身体に障害を負った者が大勢います。以下はその説教の内容:
危険に満ち、頼れる人が誰もいない世界の中でたった一人、完全に孤独だと感じたことはあるかい[山の中で熊に遭遇したらどうするか、と暗に問いかけていると思われる]…危険に満ちた世界の中に身を置かれた時、死の崖っぷちに立たされた時、僕はポケットの中をまさぐった。その中に何を見つけたか…。[ショーン・ペンは聖書に挟んであった小冊子を開いてそれを読んでいます。…ただ、次のページをめくった時、そこに登場するのは自動小銃のコマーシャル。](その時、ポケットの中にはコルトの拳銃があるのです…。) [困惑しながらも彼は自らの言葉で語り始めます。] 何を見つけたのか……。何もなかった…。そこには何もなかった! もし何かあったとしてもそれは全て空想の世界にしかない。奴らは[刑務所長や看守]俺たちから金を巻き上げることも、社会的地位を奪うこともできる。鞭打つことだってできる。…全ての不幸は全ての人に起こるんだ。ポケットの中に君たちを守ってくれるものど何もありゃしない。ありゃしないんだ。苦痛、苦悩、困難…それに対抗できるものはあるか。それを俺たちは「力」だと言うかもしれない。けれども「力」が俺たちを守ってくれるのか。いくら望んでも、十分な力を持つことなど決してできないじゃないか。富か。どうかね。十二分に金を持っている奴を知っているか。そんな奴はいるのか…。力を持とうが、富を握ろうが、それでも問題は降りかかってくるんだ。みんなこの悲しみを心の中に抱えているだろ…。俺たちは苦しみを味わうよう運命づけられているのかもしれない。…俺たちはどうあがいたところで艱難に遭遇するんだ。神は善い方か。さあどうかね。ただ俺が知っていることは、何かが君たちに慰めを与えるということだ。そして、たぶん、君たちは慰めを受けるにふさわしい。[彼は脱獄囚の身、聴衆は貧しい村の住民、多くの不具者たち、彼が説教するその場は癒しを求める巡礼聖地のお祭りです。ショーン・ペンは「神は善い方か」と投げやりな問いを発しながら、修道院の中で少しずつ信仰の真実に眼が開かれていたのでした。] もし神を信じることが君たちを慰めるのなら、そうすればいい。それは君たちの自由だ。でも…もし何かを信じたいのなら、そしてそれを信じることができるのなら……それ悪かぁないよ。
ショーン・ペンのセリフは注意深く聴きませんと、不確かなヒューマニズムだけのように響きます。けれども、静かに黙して、生まれてから今日までの私たちの歩みを霊の眼で振り返えりますなら、初めがあり終りのある人生の中には確かに何かの軸がある、命がある、希望があるという真実へのいざないの言葉として迫ってきます。その真実を、聖書は「神」と言います。私たちの存在の根拠、命の源泉、命のたぎりです。しかもそれは「何も無い」時に、もっとも明瞭に顕現する!
神は信仰深い賢者と尊敬されていたヨブをこのように諭しました。「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。」(ヨブ42:3a)。それに対するヨブの返答はこうです。「そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。」(同42:3b)。実は、十字架上のイエスの叫びは単なる「呻き」ではありませんでした。イエスはヨブとは違い、確かに神の経綸を知り、その神に身を委ねていたのです。イエスの叫びは実は、詩編22章の一部でした。変わらぬ神への信仰告白だったのです。
わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
(詩編22:2-6)
結び
「もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になる。」(『故郷』)。中国人作家、魯迅の言葉です。魯迅が描く「道」は人生の悲哀、無常、刹那の真っただ中で遥か彼方を見つめる将来への希望でした。賢者の言葉ですね。福音の音色とマッチするではありませんか。けれども、私たちの主イエスはもう一歩突っ込んだ発言をされます。「私は一本の道である。この道を安んじて歩け。その遥か彼方どころか、この道そのものが真理であり、命なのだから。」(ヨハネ14:6意訳) その天路歴程をイエスに伴われて歩いた聖徒たちの足音は風(プネヴマ)の音、その足跡は聖霊(プネヴマ)の足跡です。彼らが体験したことは歴史の連続性の中にある「永遠の今」に他なりませんでした。そして、その集合的体験と集合的記憶が、「信仰者共同体」「普遍的教会」を生みだしたのです。
イエスこそ、病める社会で「今」を生きる私たちへの福音です。その福音の壮大な神の〈コト〉は、「きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方」の中に。
祈り
神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与え給え。
変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与え給え。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与え給え。[4]
アーメン
[1] ショーリの発言は一部のみが引用され、プロテスタント教会内、とりわけ福音派の中でかなり誤解を招いていますので、是非スピーチの全文をお読みください。全てに同意とは行かないまでも、重要な問題を提起しており、傾聴に値します。http://www.episcopalchurch.org/78703_112035_ENG_HTM.htm
[2] もっとも、アンチテーゼの存在はホンモノへの恋慕であり、変えるべきものを変革しようという強い意志の表れですから、本来尊敬すべきものであると白状致します。かく言う私も、片足はラディカルプロテスタンティズムの中に、もう片方の足はカトリック主義(普遍的教会)の中に、と自己矛盾を感じつつ、理想と現実のせめぎ合いの中を生きているのです。
[3] 1989年製作。監督:ニール・ジョーダン。製作:アート・リンソン。製作総指揮:ロバート・デ・ニーロ。原作:ロナルド・マクドゥガル。脚本:デヴィッド・マメット。出演:ショーン・ペン、ロバート・デ・ニーロ、デミ・ムーア他。
[4] 英語ではTHE SERENITY PRAYERと呼ばれる「ラインホールド・ニーバーの祈り」(大木英夫訳)。
原文では:
O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other. |