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2009/03/22  「すべての国の人の祈りの家」 ―神殿宗教への挑戦状― 
マルコによる福音書 11:7-28

:7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。:8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。:9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。:10 我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」 :11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。・・・
:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。:16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。:17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」 :18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。・・・:27b イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、:28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」

 本日の聖書箇所は、民衆の「グロリア」の熱狂の中、エルサレムへと入場したイエスが初めに行った鬼気迫る行為を描いています。柔和の象徴、庶民の象徴であるノロノロと歩くロバに乗って都入りした主が、その姿とは対照的に、神殿の中で吠えるのです。イエスのなしたことは、まるで十字架へ御自分の方へと引き寄せるような、神殿宗教権威への挑戦状に他なりませんでした。

:15b イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。:16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。:17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」

 イエスは神殿の境内に入り感情に任せて暴れ出した・・・。この出来事を遠巻きに眺めますとそのような印象を受けます。けれども、前日にイエスは神殿の境内の様子を観察していました。

:11 イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

 主はその晩何を思ったのでしょうか…。福音書は何も語りませんが、子供時代に訪れた神殿で直感的に感じたこと――[神殿は]自分の父の家である(ルカ2:49)――を思い出しながら、神殿の境内で目撃したことを反芻し、一晩中祈ったのではないか、と想像します。神殿は何のために、誰のためにあるのかを。そして翌日、イエスは「自分の父の家に再び帰り」、皆が唖然とするような行動に出たのでした。その境内で商売人々を追い出し、両替人の台をひっくり返し、「燔祭」(自分の罪の身代わりと神に捧げる生贄)のための鳩売りの腰掛けを蹴っ飛ばす。

 さて、福音書の報告によりますと、イエスの行動は民衆の喝采を博した感があります。神殿宗教の支配者たちに権威をもって、神殿が誰のためにあるのか、何のためにあるのかを宣言し、そのメッセージに民衆が何かを気づかされたからでしょう。けれども、福音書を素読するだけでは、なぜ神殿の主たちが預言書の言葉――『すべての国の人の祈りの家』(イザヤ書56:7)――を無視して神殿を商売の場とし得たのか、またなぜ民衆がそれに違和感を覚えなかったのかがはっきりしません。預言書の言葉は、職業宗教人は言うに及ばず、民衆レベルでも記憶に刻み込まれていたはずだからです。

 実は、このエピソードを読み解くカギは、まさにイエスがその怒りをぶつけたものにありました。
  イエスが憤った神殿の境内(ギリシア語「イエロン」(聖なる)は神殿全体をも意味しました)には、巡礼者たちが捧げる動物が売られていました。けれども、当時の神殿の決まりでは、外国からエルサレムに上ってくる巡礼者たちは、外国貨幣をイスラエルの通貨シェケルに両替しなければ、動物を買うことも、神殿にお金を捧げる事も出来なかったのです。なぜなら、神殿の外で流通していた硬貨デナリオンにはカエサルの肖像と名が彫られている「神殿に葉相応しくない」(神殿宗教人の理屈)汚れたお金だったからです。イエスがその台をひっくり返した両替人たちは、この仕事を神殿から請け負っていた人たちでした。彼らの収入は両替にかけられる手数料です。主の眼にはこれは巡礼者たちから搾取、そして本来神へ捧げられるべきもののあるまじき泥棒行為に他ならなかったのです。
  祭りで捧げられる動物にはそれぞれの歩に応じて、ありました。福音書記者はその中でも一番値段の安い鳩(レビ記5:7、12:8)に注目します。[1]

  巡礼者たちの中には裕福な者もいたでしょう。けれども大多数は、それほど余裕のない中、なけなしの金を叩いて長い道のりを旅してエルサレムにやってきました。彼らが買うことのできた生贄は鳩だったのです。それは、エルサレムやその近郊に住む多くの貧しい者にも言えたことでした。それにも関らず、外国からやってきた離散ユダヤ人からは両替手数料をかすめ取り、鳩の値段そのものにも神殿の外の数倍という法外な値段を付けていたのです。観光地ならいざ知らず、神殿の境内でそのような不正が平気で行われていたのです。それも神の名によって。
  また、「境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」というイエスの行為から、商売人たちや彼らを背後で支援する神殿宗教人たちが、如何に神殿の外庭を軽視していたかを暗示しています。聖書の解釈書として権威をもっていたミシュナには「人は神殿の丘を…近道としてはならない」と記されているのに、時の神殿権威は、宮の外側の庭――そこは異邦人の礼拝の場であった!――を神聖視せず,単なる道として行き来していたのですから。[2]
  イエスが烈火のごとく憤り、両替台や鳩売りたちの台をひっくり返した理由はここにありました。そして、神殿宗教人たちが、神殿の庭を「盗賊の巣」にしまった理由もここにあったのです。もっとも、気がつかずに、と但し書きをした方が良心的かもしれません。彼らも、確信犯的にではなく、気がつかずに、このような的外れな状況を作り出してしまったのですから。イエスの言葉を借りるならば、「彼らの熱心が」。

 この神殿の庭の喧騒の背景には、過越し祭シーズンという事実がありました。エルサレムの町は、ユダヤのみならず、ローマ帝国各地にいる離散ユダヤ人の巡礼者でごった返していたのです。神殿宗教人にとっても、彼らに侍って神殿の境内で商売をして者たちにとっても、かき入れ時でした。

 遠藤周作さんの名著『イエスの生涯』に描かれているようなイエス像とは程遠い。

 このように見てみますと、神の子イエスが父の家である神殿の境内で叫んだ言葉の意味が明確になりますでしょう。

:17 人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」

 そして、なぜ、群衆がイエスの教えに打たれた、のかもはっきりします。今まで問うこともなかった「あたりまえの宗教規定」が実は「まとはずれなもの」であったことに気がついたからです。彼らにとっては天地がひっくりかえるような経験だったでしょう。

結び

 イエスと神殿権威との対立を鮮明にした出来事でした。イエスの十字架への道は深まります。

:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。

 さて、このエピソードは或いは、神殿宗教を模写したと思わず言いたくなるような大聖堂にも当てはまるでしょうか。たとえば、NHKが国民礼拝と誤解・誤訳したNational Prayer Serviceが行われた、米国のWashington National Cathedralなど。そこにはギフトショップがあります。資料集めのために、私もこのギフトショップで、今まで何度かインターネットを通じて買い物をしました。礼拝の開会の辞でカテドラル筆頭司祭サムエル・ロイドさんは「ここは監督派教会のカテドラルですが、皆さん一人ひとりの教会でもあります」と必ずと言って良いほど言うのですが、ギフトショップは教会の一部でしょうか。大聖堂への入り口でしょうか。
  このような大聖堂のギフトショップを、祈りの家への入り口とするか躓きとするかは、それがレンズとして何を映し出しているかにかかっているでしょう。もし、それが神の栄光と祈りの家を映し出しているのなら、それは神の栄光を映し出す鏡でしょう。そして、そのレンズは生きたギフトショップであるめじろ台教会の私たち一人ひとりにも当てはまります。原理は似ているのです。私は「ここは祈りの家である」と感謝に満ちて告白できするのですが。イエス様は同意して下るでしょうか。


[1] たとえば:『犯した罪の代償として、群れのうちから雌羊または雌山羊を取り、贖罪の献げ物として主にささげる。祭司は彼のためにその犯した罪を贖う儀式を行う。貧しくて羊や山羊に手が届かない場合、犯した罪の代償として二羽の山鳩または二羽の家鳩、すなわち一羽を贖罪の献げ物として、もう一羽を焼き尽くす献げ物として、主にささげる。彼がそれを祭司のもとに携えて行くと、祭司は初めに贖罪の献げ物の鳩を祭壇にささげる。まずその首をひねり、胴から離さずにおく。次に、贖罪の献げ物の血を祭壇の側面に振りまき、残りの血を祭壇の基に絞り出す。これが贖罪の献げ物である。次いで、もう一羽の鳩を焼き尽くす献げ物として規定に従ってささげる。祭司が、こうしてその人のために犯した罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。貧しくて二羽の山鳩にも二羽の家鳩にも手が届かない場合は、犯した罪のために献げ物として小麦粉十分の一エファを携えて行き、贖罪の献げ物とする。それにオリーブ油を注いだり、乳香を載せたりしてはならない。それは贖罪の献げ物だからである。』(レビ記5:6-11)
[2] 新聖書注解