イントロ
紀元前450年9月12日、アテナイ(現在のアテネ)陥落を目指してマラトン(maraqon)に上陸したペルシヤの大軍を、アテナイの名将ミルティアディスが撃退した、という有名な逸話があります。けれども、この出来事にインパクトを与え、今日まで語り継がれる伝説にしたのは、アテナイ軍勝利のニュース(福音=[ギ]エヴァンゲリオン)をアテナイの町まで届ける福音の使者として選ばれたフィリピディスという兵士です。彼はマラトンの丘からアテナイの町までわき目もふらずに超特急で駆け続け、アテナイの城門で勝利を告げたときに力尽きて息を引き取ったのでした。
それから、約2300年後の1896年、アテネで開かれた近代オリンピックの第1回大会で、言語学者ミシェル・ブレアルの提案により、この出来事を
偲んで、マラトンからアテネ競技場までの徒競争が加えられることになります。いわゆる、初の「マラソン」競走です。距離はマラトンよりアテネ
競技場までの42.195km(高校では「死に行く子」という語呂を教えられました)。ちなみに、2004年に開催されたアテネオリンピック女子マラソン
の金メダリスト、野口みずきさんも同一のコースを走り優勝を果たしました。
さて、アテネと聞く時、私たち聖書の読者は、使徒パウロのアテネ訪問と使徒言行録17章に収録されている「アレオパゴスの説教」をなによりも
一番に思い出すでしょう。理屈好きのアテネの教養人たちに何とかキリストの福音を伝えたいという一念からなした「知られざる神に」というあの
有名な説教です。けれども、少しロマンチックになって、パウロもマラトンに立ち寄り、そこから徒歩で海岸地方をめぐりながらアテネにやってき
た、しかも500年前のフィリピディスの命を賭した福音マラソンの故事を思いながら……と想像を膨らますのはどうでしょうか。ルカは「パウロを
海岸地方へ行かせ…パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れていった」(使徒17:14-15)と淡々と語るだけですが、はっきりしない旅程を
想像するのは罪にならないでしょう。[1] もしそうであったとしますと、アテネを発った後も行く先々で激しい迫害に遭いながらようやく小アジ
アのミレトスにたどり着いたパウロの心境は、それこそ近代オリンピックのマラソンに例えれば、中継地に到着した思いだったはず。ゴールのエル
サレムはまだはるか彼方ですが、後は船旅であることを考えればホッと一息つける瞬間です。
今朝の聖書箇所は、ついにエルサレムが視界へと入ってきたミレトス[2]で、使徒パウロが愛してやまなかったエフェソ教会の長老たちに送った
告別の辞です。「自分の決められた道を走りとおしてきた!」
I. ユダヤ人にもギリシア人にも福音を証ししてきた(:17-24)
実は結果的にこれが今生の別れにはならなかったのですが、使徒言行録21章のアガポの預言からも明らかなように、パウロはエルサレムで殺さ
れることを覚悟していたために、愛を注いで育ててきたエフェソ教会の長老たちをミレトスに呼び寄せます。今生の別れの挨拶をするためです。け
れども、単なる告別の辞ではなく、アジア州に滞在した全期間の使徒パウロのイエスの弟子としての働きとキリストで生きた生活を長老たちに想起
させるためでした。もちろん、人間の業をではありません。「全く取るに足りない」自分を使徒として立て用いて下さった「キリストの恵み」をで
す。
:17 パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。:18
長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、
よくご存じです。:19 すなわち、自分を全く取るに足りない者と
思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。:20 役
に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家で
も、あなたがたに伝え、また教えてきました。:21 神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人に
も力強く証ししてきたのです。
今朝は特に21節の言葉に注目してみましょう。「神に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰を、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証しし
てきた!」。パウロはキリストの福音を、人生をかけて宣言してきた、というのです。パウロのこの力強い宣言を読んで、私はコリントの信徒への
手紙I 1:19-25のパウロの言葉を思い起こします。
:19a 「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。
この世の論客はどこにいる。神
は世の知恵を愚かなものにされたではないか。:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこ
で神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。:22 ユダヤ人
はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人に
はつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、:24 ユダヤ人であろうがギリシ
ア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よ
りも強いからです。
パウロのこの言葉の背後には、アテネのアレオパゴスでなした理詰め説教の苦い失敗が横たわっている、と多くの聖書解釈者は考えます。それは
当たっているでしょう。けれども、パウロがここで語っていることは、「福音の内容との関わり」であって、手段についてではありません。ですか
ら、話は少し脱線しますが、アンチ学術主義に立脚する原理主義者が、パウロのアテネでの失敗を、神様は理屈抜きの「宣教という愚かな手段」を
救いの方法として用いられるのだ、と主張するための道具として引き合いに出す時、私は妙な違和感を覚えるのです。なぜなら、理屈嫌いの屁理屈
集団がなす理屈批判は大変凝った理屈で理論武装されているからです。また、パウロはそもそも「宣教の方法論」に対する興味を持っていたとは思
えません。パウロは「宣教という営為が愚か」であるとはひとことも言っていないのです。パウロの主張はもっと高次元のものです。口語訳でも新
共同訳でも、その他の多くの英訳でも「手段で」と訳してしまっていますが、「宣教」という言葉のギリシア語「ゲリグマ」は「宣教という手段」
ではなく、「宣教された内容」(キリストの福音)を指しているのです(織田昭『Iコリント書の福音』教友社[2008]、29)。つまり、パウロは
「十字架の言葉という周りの人たちからすればまったく愚劣なものを神は用いて人を御救いになるのだ」(同書)と言うのです。その救いの対象と
はアレオパゴスでパウロを軽くあしらったギリシアの首尾一貫した理論を持つ知識人でも、十字架を失敗と嘲笑い、目に見える奇跡と非人間的宗教
論理武装に忙しかったユダヤの宗教家でもありません。 そうではなく、救いの対象は「イエスの中に神の手を信じる人」なのです。この一事をパ
ウロは「神に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰を、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきた!」という一言に込めました。 たし
かにそれは愚かなことでしょう。けれども、この天来の愚かさは「人の賢さよりも賢い!」のです。
II. マラソンを走り通し
:22
そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。:23 ただ、投獄
と苦難とがわたしを待ち受けているということだ
けは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。:24 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、
神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。
今朝の聖書箇所を読みますとき、私にはある福音伝道者の声が脳裏に鮮明によみがえってきます。イエスの福音を精読し、パウロの福音宣言と
格闘し続けた大阪聖書学院名誉教師で大東キリストの教会福音伝道者の織田昭さんです。聖書ギリシア語の大家ですから、ご存知の方もいらっしゃ
るでしょう。あるいは、自分をいつも凡人と言い(思い込み)、たねまき会(年に一度行われる大阪聖書学院主催の講演会)の準備では黙々とひと
りでトイレ掃除をし、「愚者の名と愚者の顔は公衆の前に出たがるもの」という格言を意識してかどうかは知りませんが、先生と呼ばれるのをとこ
とん嫌った人ですから、名前だけは聞いたことがあってもどんな人かは知らない、という方もいらっしゃるでしょう。
この織田さんは、大阪聖書学院時代の私のギリシア語と新約聖書釈義の大師匠で、キリスト信仰の輪郭と核の部分を指差し続けてくれた恩師でし
た。そして、織田さんにとって私は・・・これは訊いてみなければわかりませんが・・・良くも悪くもヘンテコな学生だったはずです。大阪聖書学
院のギリシア語上級クラスでは、私は文字通り織田さんの最後の学生でした(その年を最後に大阪聖書学院教師引退)。「一対一で」にらめっこで
す。「私は伝道者ですから」と京都大学からの誘いを断って大阪聖書学院の小さい教室で教えている先生と一対一、しかも典型的な関西のイラチで
すから、そこで繰り広げられた「学問の乱取り」がどれだけ私の骨身を削ったか想像できますでしょう。もちろんそれ以上に霊の養いを大いに受け
ましたが、教師からの質問に対して生徒に与えられた時間は1.5秒だけでしたから、私の鈍いCPUでは全くおっつかなかったのです。
蛇足ですが、生徒に与えられた時間が1.3秒というのが決して誇張ではないことを示すひとつのエピソードを紹介致しましょう。あるときこのよ
うな珍事(学生にとっては恥事)がありました。4人の学生でパウロ書簡の講義を受けていたとき、織田さんが私たちにひとつの質問を投げかけま
した。内容は忘れてしまいましたが、私をトップバッターに、「吉良君、津田君、吉井君、入佐君」と次々に当てられ、結局誰ひとり回答できませ
んでした。そこで織田さんが「みんなわかりませんか? では私が答えます!」。 言い訳をするわけではありませんが、正確には学生は答えられな
かったのではなく、答える時間がなかったのです。各学生に与えられた時間は1.3秒でした。あの厳しくも愉快な時間は決して忘れません。
織田さんはC型肝炎(後に肝硬変、後に大腸がんも併発)を始めとしていくつかの持病を患っておられましたから、ずいぶん以前から「そろそろ
召しが来そうです」と事あるごとに仰っていましたが、神様とご家族に支えられて、なんだかんだ言いながら80歳を過ぎても「福音宣言」を継続さ
れていました。けれども、そんな織田さんも先週の日曜日の夕方に神によって召されました。それこそ、決められた自分の道を走り通し、天へと駆
け昇っていったのです。ここにいる津田牧子さんもその証人です。
織田昭さんが執筆された『新約聖書のギリシア語文法』(教友社、2003)はギリシア国立アテネ大学時代の恩師マルコス・シオーティス先生に献
呈されているのですが、その献辞にこうあります。
私たちの主イエス・キリストの愛を
生きた人間の形にして常に私の霊に感動を与え
「わが弟子である」という主の言葉を
(ヨハネ13:35)
身をもって示してくださった
わが恩師マルコス・A・シオーティスに
捧げます。
この言葉はそのまま、私が織田さんに抱いている思いにも当てはまります。大阪聖書学院卒業後も織田さんは、ギリシア語や新約聖書の釈義だけ
ではなく、人生の恩師、ずっと年上の「友人」として(織田さんがそう言います)、私の霊に感動を与え続けました。もちろん、私だけではなく、
多くいる織田さんの学生たちや著書の無数の読者たちにも大きな感動を与えられたのは言うまでもありません。その中には、と言いますか、その中
でも特に、と言った方が良いかもしれませんが、津田牧子さんも含まれます。牧子さんは三年間大東教会に通いました。 実は、興味深いことに、
織田さんの師匠であるシオーティス教授も、織田さんから霊の感動を受けたようです。昔、大阪聖書学院の私のもう一人の師匠、杉山世民先生が私
にコピーしてくださったシオーティス、織田、杉山の三氏が共演されたアテネのギリシア正教会ラジオ番組録音の中で、シオーティス教授は涙声で
「キリオス アキラ オンダ イーネ ミア フォニー トゥー セウー」(織田昭さんは神のひとつの声でありました)とおっしゃいました。
どうか勘違いしないでください。私は決して織田さんの個人崇拝をしているわけではありません。私がここで申し上げたいこと、お証ししたい
ことは、織田さんが主イエスから受けた霊の感動は――換言すればキリストの愛は――連鎖反応を起こすということです。ここに織田さんから直接
手ほどきを受け、霊の感動を受けた津田牧子と吉良賢一郎がいます。織田さんはシオーティスさんから霊の感動を受けました。そして、シーティス
さんはドイツの神学者ルドルフ・ブルトマンから学問だけではなく、キリストの愛も学んだのです。ブルトマンの前はわかりません。けれども、そ
れぞれの世代が「キリストの愛」をバトンタッチしたこと、そしてその源はキリストであることは真実なのです(私の場合、織田→杉山→吉良、と
いうラインもパラレルにあります)。この愛の連鎖は自分のコピーを作り出す、ということではありません。吉良は、キリスト教文化をできる限り
そぎ落とし、道具抜きのキリスト教(キリストの福音だけ)を徹底的に追及された織田さんとは対照的に、宗教資源としてのキリスト教文化に、キ
リストの教の中に息づいている生きた宗教伝統に大いに興味を抱き、道具(シンボル)をフルに使うキリスト教会の公同性に、思想だけではなく実
践的に、片足を入れています。牧子さんは牧子さんで「織田さん、それは我が響きにあらず」と何度か心の中で思ったでしょう(?)。 また、織
田さんは織田さんで師匠の期待に反してギリシア正教会の伝統に心酔することはありませんでしたし、シオーティスさんはシオーティスさんでブル
トマニア(ブルトマン主義者)にはなりませんでした(杉山さんが織田さんのコピーにならなかったことも私たちは知っています)。けれども、皆
キリストという一本の筋で繋がっているのです。天地を繋ぐ一本の救いの道です。この真実はめじろ台教会にも実現していることですね。
結び
織田さんは、随分、以前から、自分の葬儀について、言い残し、書き残しておられたようです。葬儀で奨励をされた杉山先生は、織田さんは、
葬儀の順序から讃美歌の番号、朗読さるべき聖書箇所、式辞のテーマまで、すべて書き残しておられた、とおっしゃっていました。また、大東教会
のメンバー中川尚士さんからいただいたお手紙によりますと、自らのこの世でのマラソンの締めくくりとして、織田さんご本人が準備された「葬儀
次第」にこのような宣言が記されていたそうです。
『神が手をつけたからには 人を「死者」でなく「生きた者」にしないでは置かない』(イエスの言葉――織田 昭意訳) <マタイ福音書
22:32>
織田さんの墓標には、「私はここにはいない」と記されています。「千の風」を真似たわけではありません。けれども、まだここに
いる私たちが今度は、織田先輩の福音宣言の務めとその宣言に中に吹く霊の風・息吹・声(qeopneustoV)を引き継ぐのです。シオーティスさんの
声が耳の奥で響きます。
「織田昭さんは『神のひとつの声』であった。」
栄光は織田昭兄弟を召した主に、ハレルヤ、アーメン。
[1] 他の写本
(西方型写本、ビザンチン写本)の証言では、「追手をけむに巻くために海辺まで行くと見せかけ」た(船に乗せると見せかけて?)とありますか
ら、まっすぐ南下した可能性も当然ありますし、海路でアテネ入りした可能性もあります。
[2] ミレトスは小アジア西南部に位置する地中海沿岸の
町で、古代より通運、通商の中心地として栄えました。 |