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2009/03/15  「十字架に死に、十字架に生きる」 マルコによる福音書 8:31-3

:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 :34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

イントロ

 巷には十字架が溢れかえっています。エレガントな女性たちが身につける貴金属のアクセサリーからパンクロックミュージシャンたちの安っぽいアクセサリーまで(後者の方が十字架の真実を皮肉にも伝えているような気がしますが)。キリスト信仰はなくとも、十字架がキリスト教のシンボルであることは皆きっと知っているでしょう。けれども、十字架はイエスの時代、宗教的意味を何ら持ってはいませんでした。十字架は、ローマの権力が犯罪者予備軍、反乱予備軍への見せしめとして行った、もっとも残酷な処刑の道具に過ぎなかったのです。

その十字架はユダヤでも、時折民衆の目に入ったはずです。ローマの為政者はあえて十字架とその上で息絶え絶えになっている、或いは息絶えている(ローマによって)犯罪者として断罪された者たちを道端にさらしたからです。その十字架が発するメッセージは、「ローマの権力にはむかうとお前たちもこうなるぞ!」という警告に他なりませんでした。それを見た民衆が受けたものは当然のことながら「絶望」であり、そこには何らプラスの宗教的価値など存在しませんでした。あるのは、ローマの官吏によって無残に殺された、という虚無な事実だけだったのです。

I.                   主の担われる十字架

 イエスはそのような十字架を弟子たちに喚起し、私はその上で殺される、と発言し出します。もちろん、直接十字架上で、とは仰いませんでしたが、「己の十字架を背負って」という言い回しから、主はそのような殺され方をする、と暗示するのです。それだけではなく、その後に「復活する」とも。

:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。:32a しかも、そのことをはっきりとお話しになった。

 当然のことながら、弟子たちには耳を塞ぎたくなるような発言でした。イエスの改革・革命が失敗に終わるような、無に帰するような主の異な仰せに、弟子たちは驚愕したのです。もはや、その後にイエスが付け加えた「けれども私は三日の後に復活することになっている」というより重要な言葉は、彼らには耳に入りません。

:32bすると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

 恐らく、イエスをいさめたのはペトロだけではないでしょう。けれども、弟子たちの中でもひときわ情熱家で、もっともおっちょこちょいであったペトロ、イエスが好きで好きでたまらなかったペトロは、思わずイエスに飛びつき、主の肘を抱え、「ちょっと先生、突然何を言い出すのですか」と慌てふためき、いさめ始めたのです。「これからではありませんか!」と。もし私もイエスの弟子としてその場にいたならば、狼狽したペトロのように主をいさめたかもしれません。少なくともこの時点までは、ナザレから始まったイエスの活動は旭日昇天の勢いで、ガリラヤ全土、そしてイスラエルの都エルサレムにまで影響を及ぼしていたのです。福音書には、主のシナゴーグでの説教に感嘆する聴衆の様子や、東西南北から押し寄せる群衆に主が山上や湖上で教える光景、病人を探し出すかのように自ら方々をめぐり歩き、ユダヤ教の禁を犯してまでその病に直接手を触れられる主の姿、悪霊付きから悪霊を追い出し、罪人(アウト・カースト)と食卓を共にする主の力と優しさ、宗教指導者を堂々と論駁する主の雄姿が、克明に描かれています。イエスは確かに大車輪のような活動をされていたのです。その運動の勢いを考えるならば、「私は十字架の上で殺される」という主の発言が、弟子たちには「殿の御乱心」としか映らなかったのは無理もありません。

II.                   人のことではなく神のことを思え

 そのようなペトロをイエスは一喝します。少し前に、主が喜ばれた「善き告白」をしたペトロに辛辣な言葉を浴びせるのです。

:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 ペトロがイエスから受けた言葉は、ユダヤの宗教観で考え得る限りもっとも激しく、もっとも厳しい叱責の言葉でした。おっちょこちょいなペトロに対してとはいえ、なぜ、主はこのような厳しい言葉を持ってペトロに臨まれたのでしょうか。

そのヒントは、主がこれからなそうとしていたことにあります。それは信仰の中心地であると同時に、ドロドロとした政治的謀略や人々の欲望が渦巻く喧騒の都エルサレムへの入場でした。エルサレムのざわめきは、田舎のそれとは比べうるもありません。宗教権威も田舎のシナゴーグ(ユダヤ人会堂)とはレベルを全く異にする、政治的色彩を帯びたものだったのです。政教一致の宗教権力は、ユダヤ教の伝統教理と世俗権力への迎合で徹底的に理論武装されており、その中心に重厚なエルサレム神殿の大祭司が君臨し、宗教指導者たちのユダヤ議会としてサンヘドリンがありました。主イエスは、そのような都への道を歩きだしていたのです。今までとは明らかに空気の異なる道を突き進み始めていたのです。それが神殿宗教の指導者たちとの間に対立をもたらす歩みであることを主は知っていました。十字架への苦難の道(ヴィア・ドドロッサ)であることを知っていたのです。

けれども、ペトロや他の弟子たち、はたまたイエスに追従する群衆には、イエスの眼に映る十字架は見えません。彼らにとってイエスはヒーロー(英雄)でした。ヒーローは常にヒーローであることを期待されるものですが、民衆もまたイエスにずっとヒーローであり続けてほしかったのです。より正確に言うならば、彼らがイエスにかけていた期待・希望――それはユダヤの政治的解放ですが――を叶えてもらうためには、イエスにはずっとヒーローでいてもらわなければならなかったのです。

 ここでイエスと彼らの間にある何かが変わりました。何が変化したのか。イエスがペトロに言われた言葉にそのヒントがあります。

「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

イエスに魅了されて付き従った弟子たちは、主からさまざまなことを学んだはずです。彼らは主が行われた多くの奇跡を目にしました。アウト・カーストの人々を訪ね歩き、ユダヤ教の宗教慣例を破ってでも、進んで彼らに手を差し伸べて触れられたイエスのお姿をまじかで目撃しました。彼らはそのようなイエスから何かを学んだはずなの。何を学んだのか…。それは「このお方には神が共におられる」というインマヌエルの真実です。

けれども、イエスの名声が高まるにつれ、主がエルサレムへの歩みを進めるにつれ、弟子たちの中に、主に追従する民衆の中に、決定的勘違いが生じ始めました。それは、神の御心ならぬ「イエスへの自己の欲求の投影」という形で現れます。主の祈りにあるような、「天の父よ。御名が聖とされますように。あなたの御国がきますように。みこころが、 天と同じく地でも行われますように」という神第一の姿勢(思い)ではなく、「天の父よ。わたしたちに今日もこの日の糧をお与え下さい。そのことによってこの世にあなたの御国を打ち立てる事が出来るし、天のご支配をこの世に敷くことが出来るのです」という神の名をかりた人間第一の姿勢(思い)です。ですから、「イエス様、殺されるなんて変なこと言わないで下さいよ!」と、弟子たちや民衆を代表する形で、ペトロはイエスをいさめたのでした。

もっとも主は、ペトロをサタン呼ばわりしたのではなく、ペトロの背後に人の欲望を第一とするこの世の真の支配者の強烈な影を凝視していました。荒れ野での対峙以来影を潜めていたサタンが再び現れ、突き刺すような誘惑を仕掛けてきたのです。神の子とサタンの緊張したせめぎ合いの中でイエスは怒鳴られました。「イパゲ・サターナス(退けサタン)!」 十字架への歩みを進めようとするまさにその時に、サタンはイエスを再び誘惑したからです。

III.                   イエスの弟子たることの真実

:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

 「イエスの弟子」であることの何たるかを、主はここで弟子たちに語ります。彼らをわざわざ自分の近くに呼び寄せてひとつのことを迫るのです。「自分の十字架を負って、私についてこい。」 主の問いかけは、荒れ野を歩むのかこの世の自分の安心領域(comfortable zone)に安住するのか、という「二者択一」を前提としたチャレンジでした。「あれもこれも」では私の弟子となることはできない。「あれかこれか」を峻別して、どちらかを選択して私に従うのだ、と。

イエスが言われたことは決して、私たちを窮屈な生活に追いやる律法主義のプロパガンダではありません。この道でなければ私の背中を追い続けることはできないのだ、という真実をストレートに語ったまでです。天の王とこの世の王二人に同時に仕える事は出来ない、という明白な真実をズバリ語ったのです。

イエスの弟子としての道を別の言葉で表現するならば、(他の誰のものでもない自分の十字架を担うことによる)「自己否定の道」と言うことも出来ましょう。もっとも、ヨーロッパ的ニヒリズムの「自己否定」ではありませ。禅でいうところの絶対無のごとき「自己否定」です。すべてを空っぽにしなければ見えてこない世界、身心脱落、脱落身心の吹き抜けの世界です。この自己否定は実は自己肯定への道に他なりません。自己否定即自己肯定のコトなのです。そのコトの中心には主がおられます。肯定して下さるのは主イエスだからです。イエスは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救う」と言われました。 むべなるかな、です。

結びに代えて

:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

 この言葉は、イエスの裁きの言葉としてよりは、イエスの逆説的語りとして聞いた方が良いかもしれません。少なくとも私は、イエスのこの言葉の背後に、「あなたの人生に横たわる、他の誰のものでもないあなたの自身の十字架を負って歩みなさい。なぜなら、私がそのようなあなたを背負って歩いているのだから」というイエスの優しい瞳をみます。「神に背いた罪深い時代ではあるが、自己を否定し、私に信頼する者は、私が復活、昇天の後、天使たちと再びこの地上にやってくる時、神の栄光に包まれる」という福音が耳の奥で響くのです。ペトロは主の殺されるという発言で頭がパンクしてしまいましたが、その後主は、「三日の後に復活する」と、念を押すように言われたのですから。