メッセージバックナンバー

2012/12/02  「アドヴェント・クランツが放つメッセージ」 ルカによる福音書 21:25-31

:25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。:26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあ まり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。:27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗っ
て来るのを、人々は見る。:28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を 上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」 :29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。:30 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいた ことがおのずと分かる。:31 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。:32 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、こ の時代は決して滅びない。:33 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」


イントロ

 降臨節(アドヴェント)を迎えました。西方のカレンダーでは降臨節は各典礼シーズンの始まり、その第一日目である降臨節第一主日は教会暦の元旦に当たります。
私たちは先週の日曜日に収穫を祝い、収穫の主に感謝をお捧げ致しました。必ずしもすべてが感謝であるとは言い難い私たちの正味の一年を丸ごと主の元に携え出ました。私たちが携え出たものは、苦難であったかもしれません。呟きや呻きだったかもしれません。けれども、それが私たち人間存在の現実です。主イエスは、息つく暇もなく一年を生きてきた私たちのありのままを引き受け、神の元に携え上って下さいました。それ故に私たちは過ぐる一年間を清算する決心をし、主に感謝をお捧げしたのです。未だ見ぬ未来をあたかも今生きるようにして、神の御前に額ずいたのです。


I.                  降臨節の心

 教会の新年が明けました。私たちの救い主イエス・キリストにあって、私たちは「新しさ」に招かれ、「新しさ」を頂きました。ヘブライ書的に言うならば至聖所に招かれました。常緑樹(エヴェーグリーン)を模したクリスマス・ツリー――しかも「プラスチック製」、しかも「ホスティフも命の果実もない」と言ったら身もふたもありませんが――は私たち心を奪います。常緑樹のイメージに込められた命の源に私たちをいざなうからです。その命の世界はイエス・キリストの降誕の出来事です。主が来られた、という出来事です。
さて、本日のルカ福音書の言葉。三年サイクルの聖書日課を採用する教会では、C年のアドヴェント第一主日にここを福音書の朗読箇所に選んでいます。クリスマスの雰囲気に浸りたい者には冷や水もののメッセージですね。こんなメッセージを聴いてもクリスマスのそわそわ感は湧かないでしょう。ウキウキどころかドキドキです。けれども、降臨節のメッセージはショッピングモール的喜ばしいファンタジーとは無縁なのですから仕方がありません。クリスマス商戦の浮かれた空気とは残念ながら相容れないのです(とはいっても、私も先日、次から次へと舞い込んでくるクリスマスセールの案内に負けて、ウキウキしながら本を何冊か仕入れてしまいました)。もちろん、主イエスの到来を待ち焦がれるのですから私たちが?!
?びに満たされるのは自然なことです。「喜ぶな!」と言う方が無理です。しかし本日のルカ福音書はそうは言わない。教会の聖書日課も降臨節第一主日のテーマを「喜び」にはしませんでした。
では、降臨節は私たちにとって何なのでしょうか。何を憶える期間なのでしょうか。ルカ福音書は目の醒める物言いでそれを語ります。

:25「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。:26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあ まり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。

しかも、23節と24節にはこのような言葉も記されています。

:23 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。:24 人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行 かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」

 クリスマスの準備の初めの日曜日に読む聖書に「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである」とはあんまりだ、と思われるかもしれませんが、よくよく考えますと、身重のマリアと夫ヨセフの置かれた環境は幸福とは言い難かったでしょう。むしろ不幸という言葉の方がピッタリ来ます。彼らは身重にかかわらず長旅を強いられ、生まれる嬰児もヘロデ王による殺害の危険を背負っていました。イエスが二歳くらいに成長した時には、ヘロデからその命を守るために一家でエジプトに逃避行します。
降臨節第一主日の福音書朗読箇所にルカ福音書の緊迫した言葉が指定されているのは、2000年前のマリアとヨセフがそうであったように、私たちが目を醒ましているためです。降臨節の心は「目を醒ましておれ!」なのです。降臨節の典礼色は紫と青ですが、これらには雅なイメージなど何も盛られていません。高貴な意味合いもありません。禁色ではないのです。典礼における紫、青は悲しみ、苦しみを表現する色です。受難節の典礼色も紫であることを思い出していただければその意味は明瞭でしょう。私たちは、受難節にはイエスの十字架の苦しみを憶え、降臨節にはイエス誕生の産みの苦しみを憶えるのです。私たちのための神の苦しみ、神の子の苦しみを憶えるのです。

私たちは今朝アドヴェント・クランツ[1]の一本目の蝋燭に火をともしました。「マラナ・タ」(主よ、来て下さい)への期待はこの炎の中に反射しています。この蝋燭のともしびは、主の降臨の期待を熱烈に現わし、私たちの目を醒まし続けるのです。
商業施設を飾るアドヴェント・クランツは時に幻想的です。その輪の中で光輝くものがたとえ電球であったとしても、クリスマスシーズンの雰囲気を盛り上げる装置としてはそれなりの威力を発揮します。けれども、私たちのクランツはおもちゃではありません。主がいらっしゃるまでの日々を「目を醒ましながら」数え上げる聖なる道具なのです。なぜなら、クランツは聖なる世界を私たちに指示し、私たちの目を醒まし続けるからです。ちなみに、今でこそスイッチを入れればいつどこででも光を発光させることができますが、一昔前はそうは行きませんでした。たとえばアドヴェント・クランツを生み出した北国ドイツでは冬は日が短く、午後四時には真っ暗になりますから、蝋燭の灯は命そのものだったのです。それはデ!ンマークでも同じでした。場所と道具は違いますが、デンマークの作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話『マッチ売りの少女』(1848年)は「闇の世界の中に輝く命の光」を見事に表現しています。ダイジェスト版ですがこんなお話。

 年の瀬も押し迫った大晦日の夜、小さな少女が一人、寒空の下でマッチを売っていた。マッチが売れなければ父親に叱られるので、すべて売り切るまでは家には帰れない。しかし、人々は年の瀬の慌ただしさから、少女には目もくれずに通り過ぎていった。
夜も更け、少女は少しでも自分を暖めようとマッチに火を付けた。マッチの炎と共に、暖かいストーブや七面鳥などのごちそう、飾られたクリスマス・ツリーなどの幻影が一つ一つと現れ、炎が消えると同時に幻影も消えた。
流れ星が流れ、少女は可愛がってくれた祖母が「流れ星は誰かの命が消えようとしている象徴なのだ」と言った事を思いだした。次のマッチをすると、その祖母の幻影が現れた。マッチの炎が消えると、祖母も消えてしまうことを恐れた少女は慌てて持っていたマッチ全てに火を付けた。祖母の姿は明るい光に包まれ、少女を優しく抱きしめながら天国へと昇っていった。
新しい年の朝、少女はマッチの燃えかすを抱えて幸せそうに微笑みながら死んでいった。しかし、人々は少女がマッチの火で祖母に会い、天国へのぼったことなどは誰一人も知る事はなかった。

 ドイツのアドヴェント・クランツの蝋燭の灯は人々に「暗闇から光への期待」と「主が来られることへの覚醒」を呼び覚ます世の光のシンボルとなり、アンデルセンの童話はその光をマッチに託して今なお世界中の人々に輝かせています。


II.                  目を醒まして主に信頼

 福音書に戻ります。ルカ福音書の言葉は驚きに満ちていますが、それだけではありません。マルコ福音書は「主イエスはご自身の再臨の日を父なる神以外は誰も知らない。天使でさえも知らない」と突き放しますが、ルカは「目を醒ましていればそのしるしに気付くよ」と言います。

:27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。:28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの 解放の時が近いからだ。」

 戦争や天変地異の後――イエスが再臨される。その時――戦争や天変地異の真っただ中――にあって目を醒ましているのだ。それは産みの苦しみだが、救い到来のしるしでもあるのだから。主イエスは強烈な文言で「その時」を語りながら、極めて日常的なたとえ話で、「だから目を醒ましていなさい」と弟子たちに教えます。

:29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。:30 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。 :31 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。

 さて、いちじくの木を見ながら私たちは主イエス再臨のサインを目ざとく見抜くことができるでしょうか。或いは、既に来ておられるとしたら、その真実に気が付くでしょうか。私は今年も牧師館の庭にある柿の木とザクロの木を放置し、柿の大半は鳥の餌に、ザクロのすべては地面に落ちて虫の餌にしてしまいました。高いところに生るので収穫をあきらめているのです。けれども、今年も必要なものは頂きました。主が来られるというメッセージことです。それがいつであるかはわかりません。私は「預言者的センス」を持っておりませんので、木を見ただけでは主がいつおいでになるのかを知ることはできませんが、神の国、神の完全なご支配が近づいたことは分かったのです。昨年の収穫の季節から更に一年が過ぎ、神の時が進んだことを学んだからです。確かに時は進みました。神が時を手繰り寄せて下さいました。「その時」とイエスが言われた時[2]には、たして私はこちら側で神のご支配の中にいるのか、あちら側で神のご支配の内にいるのかは神のみぞ知ることです。神のご支配の中に置かれているかぎりどちらでも構いません。
 はっきりしていることは、主は私たちがきちんと目を醒ましていられるように季節を運行して下さっていることです。私たちを成長させ、私たちのしわを増やして下さっています。私たちの愛する先達を召して下さっています。
主イエスは朽ち果てるこれらのしるしと共にもう一つのしるしも付け加えて教えられました。

:32 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。:33 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

主の再臨のサインを目ざとく看取することができるように、決して滅びない「主の言葉」を下さったのです。
  「私と私の言葉に信頼していればよいのだ。まあ、急がず焦らず、落ち着いておれ」とおっしゃった主はどのような顔をされていたでしょうか。強烈な文言の後に、ウインクしながら「目を醒ましているんだよ」と言われたでしょうか。私はそのようなイエスの顔をイメージするのですが。

結び

 昨年もヘブライ人への手紙の言葉に聴きました。本日もこの偉大な福音宣言に耳を傾けて奨励を閉じましょう。

わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。(ヘブライ人への手紙4:14)


[1] アドヴェント・クランツの由来には様々な説があるが、J・H・ヴィヒャーン(1808-81)がハンブルクにある子供たちの施設「ラウエス・ハウス」(粗末な家)で初めて行った、と言うのが有力。当時はクリスマスまで毎日1本ずつ蝋燭を灯したらしい。1860年以後は、ベルリン・テーゲルの孤児院にもこれが広められた。
  アドヴェント・クランツよりも歴史の古いクリスマス・ツリーに関する言及ではあるが、オスカー・クルマンの「モミの木に蝋燭を飾り付ける習慣の起源」の紹介は興味深い。少し長めだが下記クルマンの本から引用しよう。O・クルマン『クリスマスの起源』[第四版](土岐健治・湯川郁子訳、教文館:1999)101-102(原著:Cullumann, Oscer. Die Entstehung das Wiehnachtsfestes und die Herkunft das Weihnachtsbaumes [Stuttgart: Quell Verlag], 1990)。
19世紀になってようやく、ろうそくを飾り付けたモミの木が、たとえばゲーテ(1748-1832)の『若きウエルテル』やユング=シュティリング(J・H・Jung-Stilling[1740-1817])〔敬虔主義の医者で、ストラスブール時代の若きゲーテの友人〕の1793年の著作などに、しばしば登場するようになる。私たちのモミの木の故郷であるストラスブールに関しては、フォン・オウバーキルヒ男爵夫人」(Baronin von Oberkirch)の1785年 の回想
録の中に、この町では「晴れの日」(der grose Tag)が近付くと、「ろうそくとキャンディー」で飾られた大きなイルミネーションのようなモミの木が、どこの家にも用意された、と記されているのが最も古い記事である。ろうそくの登場によって、おなじみのモミの木は、何らかの意味を持つ飾り付けを完成する。

[2] 直接的には紀元70年のローマ帝国軍によるエルサレム陥落が反映されていると思われる。