:13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。:14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。:15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。:16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、:17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。:18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、:19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。:20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
イントロ
イエスは多くの譬話しで民衆やユダヤ教の宗教指導者たちに語り、福音の真髄、神の国の奥義について語りました。日常言語の意味では文字通り譬話(直喩)、宗教言語のレベルでは隠喩です。前回に引き続き、私たちに開かれているテキストは前者の典型であると言えるでしょう。[1]
けれども、4:11のイエスの口調からすると、譬の中に秘められたものは「神の国秘密」(ミスティリオン)であると言うのです。ミスティリオンはであるからには、一見誰にでもわかりそうな直喩のように見えても、霊の心で聴かなければ理解できない「秘密」です[2]。弟子たちが種まきの譬を全く理解できなかった理由はまさにそこにありました。イエスは言います。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」[3]
先週、イエスの種まきの譬のポイントは、私たちの心が、果たして、きちんと耕された良い地である否かといった心の状態、受ける側の質にあるのではなく、神の言葉という種の中に秘められている潜在的な力(ディナミス)と御言葉の生きて働く力にある。そして、その力は継続反復する、ということを学びました。しかも、その力は、十字架という出来事を通して発動さるのです。
今朝はこの真実を念頭に置きつつ、それでも私たち人間の側の現実を率直に提示され、注意を喚起されたイエスの譬の解説部を共に学びましょう。もっとも、「神が心に蒔いて下さった種(神の言)に信頼せよ」という結論は見失わないでください。
I. 道端に落ちた種
15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
ここでイエスがイメージされた「道端」が具体的にどのようなところであったかは解りません。けれども、前回の学びで確認しましたように、種をまいた後に耕される耕作地の一部でこと、そして、信仰の物語として、福音書記者がギリシア語の「道」(オドス)という言葉が持つイメージを念頭に置いていたのは確かでしょう。始めと終わりがある信仰の一本道です。
さて、道端(パラ ティン オドン)に種が蒔かれました。けれども、道端に蒔かれた種は地面と対決してしまいます[4]。神の言葉とそれを聞く者の心に入っていかないのです。種が蒔かれても蒔かれっぱなし。根を下ろすこともなく、硬い地面の上に種は空しく留まり続けます。一応は聞くが、聴かない、というタイプの人、と言えば分りやすいでしょうか。イエスは、サタンがそのような鈍感な心に蒔かれた御言葉をあっという間に奪い去ってしまう、と言います。
II. 石だらけで土の少ない所に落ちた種
:16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、:17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
次いで石だらけの所に種が蒔かれます。この譬で興味深いのは、石だらけという不毛な土地をイメージさせるようなところに御言葉の種が蒔かれたのに、その対象は妙に浮足立っているところです。「御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れる…」。 「お前は熱しやすく冷めやすい!」と中学高校生の時、父によく注意されましたが、ここでイエスが指摘する人々はまさに熱しやすく冷めやすい人々でした。別の言い方をすれば「根なし草」です。熱いだけで根がないのです。情熱だけで理性がないのです。聖書の「言」だけで聖書に秘められた「事」への開眼ないのです。宗教心だけで宗教理解がないのです。信仰心だけで信仰理解、信仰への詩心がないのです。斯かる人の喜びは、それゆえ、不動の喜びには成り得ません。表面だけで根がないからです。宗教のハッピーな部分だけを見て、もう一つの側面を見ないからです。
この世を生きるキリスト者はあくまで寄留者であり、この世を旅する者です。イエスはなぜ私たちに「御国を来らせたまえ。御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈るように教えられたのでしょうか。 それは、この世がサタンの支配下にあるからです。そのような暗黒の中における信仰生活の現実には、艱難や苦難、さまざまな形・意味での迫害があるからです。そのような人生の現実を歩み通すには根が必要なのです。踏まれても、折られても、刈られても、掘り返されても躓かない、再び伸び上がる根が。
ある時を境に(自由主義神学との葛藤・克服、北米先住民から学んだ歴史の省察)、熱いクリスチャンたちから「お前は熱くない」と叱られる頻度が増しました。根(信仰)があるのに草(熱い信仰の実践)がないことに彼らはご不満のようでした。私も彼らの独善と洞察力のなさに不満でしたが…。けれども、敢えて言わせてもらいますならば、草なし根の方が根なし草よりは善いのです。優劣の問題ではなく、本質的にそうなのです。
なぜなら、根は人の目には映らない地中で力強く活動しているからです。神の言葉はやがて何かを生み出さすにはおきません。パウロはいみじくも「御霊の結ぶ実」と言いました。
III. 茨の中に落ちた種
:18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、:19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
次に出てくるのは茨の中の中に蒔かれる種です。そもそもなぜそのような土地に種を蒔くのか、と私たち日本人の聖書読者は疑問に思いますが、前回紹介しましたように、パレスチナにおいては、種をまいた後に鋤き起こす習慣があるので、固く踏み固められた道にも、茨の中の中にも種をまくことがありました(もっとも、その下にある腐葉土の層の薄い厚いは鍬を入れるまで分からないのですが)。ですから、茨の中に蒔かれた種でも育つものは育ったのでしょう。けれども、ここに挙げられている種は育ちませんでした。理由はひとつ、「人の欲望」です。イエスはその教えの中で「思い煩うな」「地上にではなく天に富を蓄えよ」「神に信頼せよ」と何度も何度も言われました。それは、主は私たちの心が天にではなく、地に向くことが多いことをよく知っておられたからです。主ご自身も極限の状態で誘惑を経験されましたから、人の「思い煩い」や「欲望」がどれだけ恐ろしく、大きな力をもっているかを知っておられたのでしょう。福音書のイエスとは別物ですが、ニコス・カザンザーキスの『最後の誘惑』に登場するイエスはその誘惑の恐ろしさをリアルに表現しています。それゆえ、イエスは私たちにこのように祈れ、と教えられたのです。「我らを誘惑に陥らせず悪より救い給え」。
IV. 良い地に落ちた種
:20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
最後に前の三者との対比として、良い地とそこに蒔かれた種が登場します。蒔かれた種は同じでした。けれども、蒔かれた場所が違ったのです。良い地に蒔かれたのです。すると、神の言葉は爆発的な力を発揮しました。多くの実を結んだのです。その実が何であるかを事細かに確認する
必要はありません。「実を結ぶ」(カルプフロ)という言葉は「キリストに対する服従が人を助けて、常に新たな生命を生み出す様を表現する言葉として、広く用いられてい」ましたから[5]、福音書の受け取り手はそれが何を意味するかを識っていたのです。
大地に深く根を張り、御言葉の栄養を根の隅々まで充満させ、天に向かって芽を出す。そして、神がその人のためだけに用意された御霊の実を十分に結ばせて下さる。 イエスの笑顔とガリラヤの春の香りを感じますね。
結び
御言葉の中に生きて働く力と神の国はどのような場所に発展するのかが主題でした。譬話の解説に解説を加えたわけですから、結びでこれ以上コメントすることはありません。けれども、最後にあえて一言加えて、本日の奨励を閉じたいと思います。
イエスの種まきの譬のポイントは、私たちの心の状態、受ける側の質にあるのではなく、神の言葉という種の中に秘められている潜在的な力と御言葉の生きて働く力にある、と前回学びました。とするならば、実は、茨の中でも実は結ぶのではないか、と思のです。良い地を良い地と定め、良い地を創り出すのは神だからです。失敗だらけの教会の歴史にもかかわらず、神の言葉は、何時如何なる時にも、世紀を通じて神の言葉であり続けた事実に、私たちはその真実を見ることができるのではないでしょうか。
この一週間は教会の庭の羊歯駆除に汗を流しました。所構わず顔を出す羊歯、石の下から顔を指す羊歯、砂利の中から顔を出す羊歯…。どこにでも深く根を張る羊歯。憎たらしいですが、神の言葉の如しです。
[1] ただしこのイエスの譬話自体はオリゲネスの解釈がその典型のように、直喩なしの隠喩と読むべきではない。イエスの目的はあくまでも、日常的な題材を用いながら、聴衆レベルで神の国の福音を宣言することにある。
[2] 織田昭編『ギリシア語小事典』(教文館)、436参照
[3] 13節前半部のイエスの言葉は、断言文とも疑問文とも読める。断言文として読めば、13節後半部のイエスの言葉は、弟子たちはこの種まきの譬を知らなかった、という事実を示すことになるし、疑問文と採れば、後半部は、種まきの譬を理解しない弟子たちへのイエスの驚きの表現、と解される。(Ezra P. Gould, The International Critical Commentary New International Critical Commentary: A Critical and Exegetical Commentary on
The Gospel of Mark (Edinburg: T. & T. Clark), 74参照)
[4] Ibid, 74.
[5] E.シュヴァイツァー『NTDマルコ』128.
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