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2009/04/26  「世紀を貫く信仰の記憶」 ―先達が夢見た「公会」へと昇華― 
(クリスチャン新聞 2009年4月26日号より)

本年は日本プロテスタント宣教150周年を憶える記念の年である。とは言え、我が国に展開するプロテスタント諸教会の全てが、150年と言う共通の時間的起源を有しているわけではない。かく言う筆者が身を置く「キリストの教会」(クリスチャン・チャーチ)の最初の米国人宣教師ガルストも、来日は明治16年であった。その意味で、150という数字は便宜上のものであり、「キリストにあってひとつ」という日本プロテスタント宣教150周年記念大会のスローガンを下支えするシンボルであると言えよう。

無論、琉球王国という崇高な遺産を有する沖縄のキリスト者からは、「我が国におけるプロテスタント宣教の歴史は150年以上だ」との抗議の声が上がっており、本土中心の宣教史観に疑問が呈されている。筆者自身その魂の叫びに心から賛同すると同時に、直接的連続性の有無は別として、筆舌に尽くしがたい困難の中で日本を福音の苗床として初めに耕したローマ・カトリック教会の聖徒たちも憶えつつ、プロテスタント日本宣教史を語りたい。
しかしながら、150年前、プロテスタンティズムを携えて大海原を渡り来日した先駆者の福音宣教によって始められ、この一世紀半の中で展開した≪神のコト(信仰の物語)≫を看取した者は、歴史的事実と公約数的シンボルを超えたところに霊の眼差しを向けよう。このレンズを通して宣教の歴史を眺めるとき、ザビエルから始まる日本伝道史は歴史的叙述から信仰の物語に昇華し、ベッテルハイムらによって始められた琉球伝道も、断片的宣教史から、後に本土へと影響を及ぼすこととなる普遍的かつ連続的主の働きとなる。先達たちと彼らを送りだした諸教会が払った犠牲、流した涙、犯した過ち、それらすべてを「世紀を貫く信仰の記憶」として物語ることが出来るのである。

日本宣教150周年記念大会への思いは各人各様であろう。それはそれでよい。ただ、筆者の願い、祈りは、150周年をめぐる省察が、イデオロギー闘争の類に堕することなく、はたまた自虐的歴史観に収斂することもなく、過去、現在、未来を繋ぐ神の恵みの物語へと止揚されることである。歴史を溶解、断片化したところで何を意味あることとして語れるであろうか。神学的立場の異なる多くの教派、教団、教会、諸団体がキリストという旗印の下に参集したこの記念すべき大会は、歴史観においても、複眼的、そして鳥瞰的に理解されることを望んでいる。もし、そのようにプロテスタント日本宣教150周年を憶える事が出来るならば、我々の記念大会は未来への祈念となろう。「キリストにあって一つ」というスローガンは命を得るであろう。我々がそのようにこの記念すべき年を、大会を憶え、参与することができるならば、先に召された先達たちも天の軍勢と共に「聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな 万軍の神 主の栄光は天地に満つ いと高きところにホサナ」と賛美の歌声を響かせてくれるのではあるまいか。この真実に開眼する時、単体としての諸教会は「キリストにある多からなる一」を経験し、先達たちが夢見ていた普遍的教会(公会)の一部へと運動昇華していくのではあるまいか。筆者はそう信じている。