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2008/04/06 「春の種まき」  ――種の中に秘められた潜在的力――
マルコによる福音書4:1-20 

:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。:6
しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
:10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。:12 それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」:13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。:14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。:15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。:16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、:17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつ
まずいてしまう。:18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、:19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。:20 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」


イントロ

 種まきのシーズンです。私たちも先週、筑波大の友人が二年前に「林のようだ」と形容した牧師館の庭の隅を耕し、何種類かの種をまきました。廣田さんの予言の通り、「林」は見事に沈み、良い腐葉土ができたからです。土を掘り返しましたら、カブトムシの幼虫らしきものが姿を現しました。良い土地に生まれ変わったのでしょう。予定では一ヶ月後に芽を出し、三ヶ月後に収穫できます。少なくとも、種のパッケージの説明書きにそうありました。1ミリほどの小さな種から「食いもん」が出てくるのですから、ミスティオン(神秘)と言うほかありません。この驚きは先週も触れましたように、科学的な感心ではなく、たぎる命の原体験への驚きです。
 さて、主イエスも種の中に宿る潜在的命を観察していたようです。そして、種の内に宿る命という教材を用いて、神の国はどのような場所に発展するのかを語りました。具体的には、春の田園風景が広がる肥沃なガリラヤ湖のほとりで、私と同じように種の中に込められた命の神秘に思いをはせている聴衆に、四つの譬を持って、種(御言葉)に込められている聖霊の力を語り聞かせたのです。「良い地」に落ちた種と「道端」に落ちた種、「いばらの中」に落ちた種と「石ころだらけの道端」に落ちた種です。イエスはどんな意味で、視点で、思いでこの四者を比べられたのか。結論を知っている私たち聖書の読者には自明であるかもしれませんが、今一度皆で確認してみましょう。新しい発見があるかもしれません。

I.                   なぜ譬なのか[1]

:10 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。:11 そこで、イエスは言われた。
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。:12 それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」


 順序が前後しますが、イエスはこの後も譬話を多用されますので、弟子たちも問うた「なぜ譬話なのか」について、まず初めに確認しておきましょう。11、12節はもともと独立した伝承で、マルコの編集によって種まきの譬とその説明の間に置かれたものと考えられます。[2]
 イエスの弟子たちがこの問いを発した第一の理由は、譬に込められた意味自体を理解することができなかったからです。背後には「なぜズバリ核心を話してくれないのですか」という彼らの苛立ちが見え隠れします。イエスは返す刀で、 「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」(:13)と優しいまなざしを向けながら弟子たちを叱責しました。君たちには神の国の秘密をストレートに告げているのに…」と(:11a)。イエスによると、譬で神の国について話す理由は、[聴衆が]「『見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである」とあります。この言葉は旧約聖書(イザヤ書6:9-10)からの引用ですが、前後の文脈を勘案して読んでも、イエスのこの発言の唐突さだけが目立ちます。神の国の奥義を伝授されたはずの弟子たちですら、実のところは、イエスの趣旨を全く理解していないのですから。
 けれども、11節にある「ミスティリオン」(秘儀)というギリシア語から、私たちはイエスが言わんとされたことを理解するひとつのヒントを得ることができると思うのです。「ミスティリオン」は「アポカリプシス」(啓示)の反意語で、それを伝授された人だけに理解される神の意図、という意味の言葉でした。しかも、イザヤ書引用の趣旨は、神の奥義は啓示として既に人々に開示されているが(イエスその人がそれ)、その奥義は神から心の眼を開いて頂かなければ決して理解できない、という宣言です。福音書は前章で、イエスにおいて成就した神の国の奥義を理解しないイエスの家族と宗教指導者たちの無理解を私たちに語りました。イエスを知ってはいたが識らなかったのです。4章は、弟子たちも同じであることを赤裸々に披瀝します。[3] 彼らは復活のイエスと出会うまでずっと盲目でした。
 もうひとつヒントがあります。それは「譬」に当たるヘブライ語マーシャールには「謎」という意味が含蓄されている事実です。つまり、イエスが「譬で語る」と言った時、もともとは「謎の言葉で語る」(なぞなぞ)という響きがあったのかもしれないのです。神のなぞなぞは、たとえその素材が日常生活の中にあるものであったとしても、霊的応用力がなければ解くことはできません。そして、霊的応用力は注意深く聴くところから生まれます。マルコ福音書が、聴くことができること自体が神からの賜物である、と暗示する理由はそこにあるのでしょう[4]。聴くことができれば、質問をし、説明を聞くことができます。イエスの弟子たちは、師匠から時折呆れられながら、復活のイエスと出会うまで(宗教的原体験をするまで)、譬話というツールを通して神の国の奥義をみっちり学んでいきました。譬話は彼らの霊のテスト、霊のトレーニングです。私たちも原則的に同じ道程を歩きながら、同じ訓練を受けているのではないでしょうか。

II.                   四者の比較

 さて、譬のそのものに目を向けましょう。イエスは四つのタイプの人たちを挙げ、神の言葉に秘められた生命力と、これが人の心の中で適切に受領された時に起こる成長について譬を通して語ります。

:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

 イエスはマルコ福音書にしるされている以上にいろいろなことを教えられたようです。けれども、福音書記者はとりわけ種まきの譬を読者のために選択しました。何故たねまきの譬なのか、という問いには誰も答えることはできません。種まきの譬自体はプラトン以来ギリシアでも多用されており、目新しさはないからです。けれども、パレスチナ地方独特の耕作方法を考察するならば、パレスチナの種まき模様を材料としたイエスの譬の意図とマルコがそこに重ね合わせた福音宣言をうかがい知ることはできます。
 イエスは「よく聞きなさい」(idou)という呼び覚ましの一句で話を始めます。君たちにも馴染みのあることだから注意深く聞け、ということです。主イエスは、種をまく人がまいた種が、ひとつは道端に、ひとつは石ころだらけで土の少ないところに、ひとつは茨のなかに、そしてもうひとつは良い土地に落ちた、と語り始めます。そして、それぞれの種の結末を述べながら、「聞く耳のある者は聞け」というのです。 勢い「はぁ、そうですか」と納得してしまいそうですが、よくよく考えると妙な話です。私ならともかく、プロの農夫が場所を選ばずランダムに種をまいて一つ
の例を除いてすべて失敗している。いくら譬話でも、ガリラヤ湖のほとりでは現実味の欠ける話です。そこで、この背後には何かあるはずと思い参考書をいくつか開いてみましたら、案の定、以下のような面白い情報が載っていました。

      「多くの種が実を結ぶに至らなかったという挫折について、特に詳しく語っているのは、パレスチナにおい      ては、種をまいた後に鋤き起こす習慣なので、固く踏み固められた道にも、茨の中の中にも、種をまくこ      とがある。ただしその下にある腐葉土の層の薄い、厚いは事前にはわからない。」(E. シュヴァイツァー『      NTDマルコ』119)

こうなりますと話は明瞭です。イエスの言葉とは裏腹に神の言葉の宣教は人を選びません。イエスはどんな心の中にも種をまくのです。「たとえを用いるのは人々の理解を妨げるため」などと否定的な言辞を並べながらもなお、神の国運動に邁進するイエスにその真実を見ることができるでしょう。「宣教のイエス」といわれる所以はここにあります。もっとも、蒔かれた種すべてが実を結ぶわけではない、とう厳しい現実も、譬話の中で語られているのですが。

 けれども、この譬のポイントは、私たちの心が、果たして、きちんと耕された良い地である否かといった心の状態、受ける側の質にあるのではありません。そうではなく、中心主題はあくまで、神の言葉という種の中に秘められている潜在的な力(ディナミス)と御言葉の生きて働く力にあるのです。 それは継続反復する力です(原文では未完了形)。神の国の実態は、この神の言葉がなす業に他なりません。

ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。

結び

 去年ゴウヤを育ててこの譬の厳しい部分を学びました。 私たちの心はどうでしょうか。牧師館の庭のようでしょうか。イバラとアザミに満ちているでしょうか。石ころだらけで土が少ないでしょうか。そうかもしれません。けれども、それはそれで結構。なぜなら、キリストという枝につながっている限り(土に根を張っている限り)、心の貧しい者、自分に義がなく義に飢え渇いている者の心を神様は耕して下さるからです。私たちが耕すのでありません。耕して下さるのは聖霊です。なんだかんだ言いながら、私がまいたゴウヤの種も、それぞれのスピートで、それぞれのサイズで、それぞれの個性をもって、それなりに実を結びました。神のミスティリオンではありませんか。私たちはゴウヤ以上の者です。
 ガリラヤの春の田園風景が浮かんできますね。譬の解説でイエスが言われた厳しい言葉は、できれば、来週学びましょう。





[1] E. シュヴァイツァーは「イエスが譬で語られた背景には、直接神の声を聞き、もしくはその姿を見た人は死ななければらなぬという旧約聖
書の認識が、潜んで」おり、それゆえ、「神とその御国はただ譬話においてのみ人と出会うことができる」のである、と主張する。『NTDマル
コ』116参照
[2] 川島貞雄『マルコによる福音書』教文館、96-97; フランシスコ会訳は、11-12節が種まきのたとえ話とその説明の間に置かれた理由を、「選
民ユダヤ人がイエスの教えを受け入れないことは、ローマにおける初代教会のキリスト者にとって不可解なことであった。これを解くかぎとして、
著者は、イエズスの教えの記述最後のところで、第一のたとえ話の説明の前に、イエズスのこの預言的言葉を置いたのであろう」と説明する。(フランシスコ会訳127注5)
[3] ouk oidate は宣言文とも否定文ともとれる。(詳しくはICCマルコ74参照)
[4] E. シュヴァイツァー『NTDマルコ』122参照