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2007/12/16 「イエスの紹介状」マタイによる福音書3:1-12

:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 :2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」 :4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。 :5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 :6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 :7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 :8 悔い改めにふさわしい実を結べ。
:9 『我々の父はアブラハムだ』
などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 :10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 :11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
:12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」



人の繋がりは何によってよって生じるか。 自らいろいろな場所に出向いて行って、そこで様々な人と知り合う、というパターンが大半でしょうか。その場合、「出会い」という目的を持って斯かる場所に出向く場合もあれば、意図せずして、出向いた先で誰かの知遇を得る、といった場合もありますでしょう。職場、学校などもその一つに数えることができるかもしれません。けれども、出会いにはもうひとつの契機があります。それは人によって紹介される、というパターンです。出会いの頻度としてどのような形が多いかは斯かる人の行動パターン、性格、置かれた生活環境によって左右されるでしょうが、振り返りますと、私も「紹介」というファクターを通して、実に多くの友人や恩師と言うべき人たちの知遇を得た、と思います。実に、今、私がこの場に立っているのは「紹介」による賜物に他なりません。

紀南キリスト教会牧師の上山さんが、紹介状の中でどのように私を紹介したかはわかりません。けれども、めじろ台教会が私にコンタクトを取ってくださったことをかんがみますと、決して悪くは書かなかったのではないかと、推察します。それが「推薦状」というものだ、と言われればその通りかもしれませんが、私も今まで何通か留学のためやミッションスクール就職のために何通か紹介状を書いた経験から、良い事を書くにもどのように「その人」を紹介しようかと多少は思案するものです。なぜなら、読み手あっての推薦状だからです。

いずれにしましても、推薦状には良い事を書きます。そしてその原理は、誰かを誰かに紹介する場合、必ずと言ってよいほど当てはまるのではないでしょうか。ですから、人の輪は肯定的に広がっていくのです。

さて、聖書を見てみましょう。

:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、 :2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」

福音書には突然不思議な風采の預言者が登場し、人々の心を揺り動かします。「悔い改めよ。天の国は近づいた!」

:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
:12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

ヨハネが開口一番なしたこと、それは来るべき方「イエス・キリスト」の紹介です。
みなさまはどう思われるでしょうか、このような紹介の仕方を…。いくら「主の道を整え、その道をまっすぐにする」という使命が与えられていたとしても、福音書を素読しますと、大変乱暴な紹介の仕方です。悪い事は何一つ言っておりませんが、何となく良い印象も受けません。なぜなら、「蝮の子らよ…」という調子だからです。しかも、その鮮烈な批判を浴びせられた対象は、実は、今日的な言い方をするならば「多くのまじめで、良き教会人church goers」でした。クソまじめな人達だったのです。たしかに、ヨハネのもとに押しせよ人々の中には明らかなユダヤ社会の概念における「罪人」も大勢いたのは事実です。けれども、ヨハネには、この「まじめな人たちこそ」悔い改めが必要で、アブラハムの子孫などという集団的宗教的安楽の上にあぐらをかくのではなく、真の救い主と一対一で出会わなければならない、と見えたのでしょう。「良い」人から「善い」人へ、のチャンレンジです。事実、後の宗教支配階層のイエスに対するリアクションを見るならば、ヨハネのこの問いかけが如何に的を射ていたかを私たちは知ることができます。

クリスマスの時期に伝統的に語り継がれるイエスの生誕物語は実に美しい。ネイティヴィティにその凝縮を見ることができますでしょう。(本当は、単に美しいだけではなく、その美しさが救い主を待ち焦がれる人たちの呻きをより鮮明に映し出しているのですか・・・。その話は来週。)

ヨハネはイエスの紹介を荒野の近くのヨルダン川で始めました。ヨルダン川の聖書的意味はいろいろありますので、今朝の話では割愛しますが、ここで見られる一つの事実はヨハネが活動した場所は都会ではなく、田舎であった、ということです。しかも荒野の近くです。なぜでしょうか。なぜ、より多くの聴衆に語りかけることのできるエルサレムではなかったのでしょうか。

それは、ヨハネはイエスの到来とイエスの本質をかたる絶好の場は田舎で、荒野の近くで、神の救いのドラマ、神と人の出会いのドラマがぎっしり詰まっているヨルダン川しかないと思ったからではいかと思うのです。ヨハネは、荒々しい言葉を使いながら、「変われ! いや、変われる。私たちを聖霊と火のバプテスマで新しい存在に創り変えて下さる方がおいでなる。その方を私たちは長い間待ち焦がれていたではないか」と必死に訴えます。けれども、いつしかイデオロギー化した宗教熱心で人々を叱咤するようになってしまったエルサレム神殿宗教を中心としたファリサイ派の人々や、世俗の政治権力とべったり癒着してしまった都会の宗教的政治権力集団サドカイ派の人々には、このようなメッセージはもはや届かなくなってしまったのです。

「都会の神殿から出てきて、宗教的理論武装から自らを解き放て。世俗の利害関係とは決別し、裸でこの川に来い! その時、お前たちはイエスというお方がどのような方であるかがわかる。イスラエルが、世界が待ち焦がれていた、世の罪を取り除く神の子羊であることがわかる。」

はたして、宗教的支配階級の人たちにヨハネの訴えは伝わったか…。その結果は福音書が私たちによくよく物語ってくれています。

そもそも、イエスを紹介する役割を担った紹介者の紹介の仕方が悪かった、のが発端だ、と言われればそうかもしれません。けれども、ヨハネとは対照的なイエスの「人間性への包括的寛容な態度」が、多くの悩める魂に直接触れ、福音を語ったその行動が、結果として、宗教的熱心で盲目になっていたファリサイ派と、現状維持を望み、宗教的、政治的動乱を極度に恐れたサドカイ派を敵に回してしまったのです。彼らが受け取ったメッセージは12節のそれでしょう。その結果が十字架です。

ヨハネによって紹介されたイエスは、形の上では宗教的権力者たちの手によって十字架の上で殺されます。けれども、イエスを十字架に追いやったのは実は私たちの罪であった、というのが、福音書をはじめ、新約聖書が一貫して語るところです。そして、そのメッセージは実は新約聖書だけではなく、その背景である旧約聖書にも、創世記の一番初めから、語られているのです。

けだし、誰もイエスを黙らすことはできませんでした。ヨハネの「ある一人の男が君たちを、世界を変える! 多くの木が切り倒されるが、そこから新しい命が生まれ、その命のたぎりが君たちを新しい存在へと造り変える」という宣言は、イエスにおいて成就し、イエスの心である聖霊によって今この時も成就し続けているのです。

来週はいよいよクリスマス礼拝です。クリスマスに先立ち、バプテスマのヨハネの言葉を借りながら、私たちの唯一の救い主、イエスというお方を紹介致しました。