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2008/09/07  「神の経綸――主は与え、主はとられる―― ヨブ記 1:20-21

 己が経験した災いを通して、神の眼における「ヨブの無認識の傲慢の罪」が明るみで出て、そのことにヨブ自身が慧眼をもって気が付いたのですが、事の発端は、ヨブ記一章と二章を読めばお分かりのように、ヨブには起因しておりません。

ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。・・・彼は東の国一番の富豪であった。息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。・・・ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」 サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。:10 あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。・・・ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」 主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。「御報告いたします。わたしどもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」 彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った。「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」 彼が話し終らないうちに、また一人来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」 彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。 すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」 ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった。(一章抜粋)

またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。・・・主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」 サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」 主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」 サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。

?2:9 彼の妻は、/「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。・・・ヨブと親しい・・・三人[の友人]は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。 遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。(二章抜粋)

 以上の出来事から明らかなように、ヨブを襲った不幸は彼にとってまことに無常、意味不明であり、神の約束に対して懐疑を引き起こす出来事でありました。現に彼の妻は、「[あなた、]神を呪って死んでしまいなさい」と痛烈な神批判を展開しています。

 けれども、ヨブは言うのです。

ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(ヨブ記1:20-21)

 さて、私たちがこの箇所を読みます時、あるいは引用します時、重点はどちらにおかれているでしょうか。「主は与える」か「主は奪われるか」。私自身は、「すべては神のご裁量の通りに」という思いもちつつも、どちらかと言うと前者に重きをおいて、今までこの箇所を読んできたように思います。

 けれども、先日、長男が生まれたその日の夜、北朝鮮による拉致被害者、横田めぐみさんのドキュメンタリー映画『めぐみ』を見ていました時「ハッ」とさせられたのです。めぐみさんの母親である横田早紀江さんが、(北朝鮮のよる拉致が判明する前でありましたが)映画の中で「聖書には『主は与え、主はとられる。主のみ名はほむべきかな』という言葉があります。めぐみは、生の足跡を色濃く残し、この世での使命を全うしたのだと思います」と仰しゃりました(早紀江さんはクリスチャンです)。主はめぐみを奪われたけれども、主はまず私たちにめぐみを与えて下さった。「奪われた事実」に目が行きがちの私たちですが、「主は与えられる」という真実に、横田ご夫妻はヨブ記から気づかされたのでしょう。与えられなければ、奪われることすらない、と。私たちの想像を遥かに絶する苦しみ、悲しみの中でご夫妻が発した言葉は、「奪われた」ことだけに目を向け、無理に神を褒めたたえるな。そうではなく、「与えられたことを深く覚え」神を褒め称えよ、という信仰告白に他なりませんでした。非常且つ理不尽な形で最愛の娘を奪われた横田ご夫妻の信仰告白です。

 先週の木曜日に長男が与えられました。そのことが私たちに大きな喜びをもたらし、私たちの口から「主のみ名はほめたたえられよ」と賛美の歌声を響かせたのは言うまでもありません。けれども同時に、私は、あるいは思わぬときに主はこの子を取り去られるかもしれない、と覚悟しました。私の先輩や友人の何人かはさまざま形で愛する者を取り去られました――事故死、病死、自死・・・。妻も、また私自身も次の瞬間に何が起こるかわかりません。私たちは人生の主人公ではなく、神の経綸の中に生きているからです。

 だからそこ、私たちは「主は与える」ということに心を留め、そこからすべてをスタートさせるべきでしょう。そこから、横田早紀江さんの信仰告白のように、主は奪われるが、与えて下さった主の真実のゆえに、神をほめたたえることができるのでしょう。それは信仰の名で自分を納得させ(思考停止させ)、歪なポジティヴライフ(疑似信仰)を無理強いするような行為ではありません。すべては無から有を生み出す神の経綸の中にあるという信仰理解なのです。

 コヘレトの著者は、すべてのことには時があり、意味がある。けれども、我々は神の計画を始めから終わりまで見極めることはできない、と証しました。

何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時・・・/破壊する時、建てる時・・・泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時・・・求める時、失う時/・・・裂く時、縫う時/黙する時、語る時・・・/戦いの時、平和の時。・・・わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。(コヘレト3:1-11抜粋)

 ヨブは、ヨブ記の最後で同様の信仰を告白します。

ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」 あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。(ヨブ記42:1-6)。

 先月起こった通り魔事件の現場である書店が入っている京王八王子駅ビルの正面には、今なお献花台が置かれています。四十九日まで置かれるのでしょう。先週の火曜日、イーオンでの仕事を終えて帰る途中、その献花台の前を通った時、神秘体験でも何でもありませんでしたが、雷に打たれたかのごとき感覚になり、一種の「場所の聖性」とでも言うべき、「天と地を繋ぐ線」を見たような気がいたしました。言うまでもありませんが、通り魔事件そのものは神とは無関係です。けれども、そこに、「主は与え、主はとられる」というヨブの言葉が響いていたのです。与え主であるからこそ、奪われた時、その意味を探求し、分からぬくともみ名をほめたたえることができるのだ、と。天と地をつなぐ「場」で・・・。

 そのような人生観を与えられたいと、そして、神の経綸を知解し、主にすべてを委ねることのできる者にして頂きたいと、切に祈らせられた一週間でした。