メッセージバックナンバー

2008/02/24及び/03/02 「本当のことを言うと・・・解らないのです―イエスの家族とファリサイ派の盲目―」 
マルコによる福音書3:20-35 吉良 賢一郎

イントロ

マルコは3章の前半で、「手のなえた人の癒し」、「救いを求めてイエスのもとに押し寄せる群衆」、そして「イエスの神の国運動の先遣隊としての12弟子の選び」に関するエピソードを物語りました。そこにはすでにファリサイ派との確執が言及されていますが、1章からここまでの主の活動は、総じて順調であったと言えるでしょう。けれども、今朝私たちに開かれているテキストは、イエスにとって第一の関門(罪人の悲哀)とでも言うべき「抵抗勢力」が立ちふさがります。それはファリサイ派や律法学者たちの抵抗だけではありません。本来ならば一番の理解者であってほしい家族から投げつけられた無理解です。しかも、12弟子を選び、いよいよ本格的に福音宣言の業を始めようという矢先の出来事でしたから、人間イエスの心中を察して余りあります。このような状況設定からマルコは、家族と宗教指導者たちの盲目を指摘し、人間のではない「神の家族」について語ります。[1]

I.                   身内の抵抗

物語は、いつものごとくイエスの人気の言及から始まります。

20:イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。

民衆は異常ともいえるほどの熱気でイエスの家に押し寄せ、一同――恐らくイエスと弟子たち――が食事を取ることもままならぬほどに、イエスに教えを請い、癒しを懇願し、救いを求めます。けれども、押し寄せる大衆とは対照的に、一番近くにいたはずのイエスの家族は、今日の若者の言葉で表現するならば、「ドンびき」のまなざしを向けるのです。(彼らの盲目が露呈します。) ちなみに、「食事」と訳されているギリシア語アルトス は「パン」を意味します(日本語の主の祈りでは「糧」と訳されている)。ですから、「押し寄せる民衆」と物質的パンを食べる暇もない「命のパンであるイエス」、という隠喩を読み込んでも良いかもしれません。

21:身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。

新共同訳で「身内」と訳されている言葉 イ ペル アフトゥー は「家族」を表すイデオムで、直訳しますと「彼からでた者たち」「彼の傍らにいる者たち」という意味です。ですから、理屈の上では「イエスの友人たち」とも解釈できるのですが、31節に、イエスの母マリアとイエスの兄弟たちが登場しますので、イエスを取り押さえようとしたのはイエスの弟たちであると考えるのが自然でしょう[2]。その中には後にエルサレム教会の重鎮となるユダヤ教的キリスト教一派を形成する主の弟ヤコブも含まれます。[3]
さて、この場には母マリアも居合わせます。彼女の立場はどうだったのでしょうか。ルカによる福音書1:46-55には「マニフィカト」(マリア賛歌)として知られる有名なマリアの美しい賛歌が収録されています。

わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。


マリアは受胎告知の時から既に神に全幅の信頼を置いていました。けれどもマルコがここで描写するマリアは、マニフィカトのあの信仰の聖母マリアの姿からは程遠い、天使によって直接告げられたはずのイエスの「性質」に疑いを抱く一人の人間です。「気が狂ってしまったぞ!」と息子たちにけしかけられながら、イエスを家に連れ戻そうとする不安な母親です。ルカ伝はともかくとしても、マルコにおけるマリアは「本当のことを言うと…息子がなんなのかよく分からないのです」と告白する生身の人間なのです。
この現実はイエスにとって大変つらい出来事であったでしょう。精神的に一番近くにいるはずの、一番理解していてくれているはずの家族がイエスについてまったく盲目なのです。私は今まで何度も「家族だけは味方」「家族だけは分かってくれている」という友人たちのつぶやきを聞きました。周りからはどんなに誤解されようとも、理解されなくとも、家族だけは理解しようとしてくれる、たとえ理解できなくとも、ありのままの姿で受け入れてくれる、という信頼の告白です。けれども、イエスの場合はそうではありませんでした。単なる誤解ならまだしも、「キチガイ」の烙印を愛する家族から押され、愛情と善意からなのですが、あたかも精神病院に送りこむかのように、イエスを取り押さえようとするのです。イエスの家族の立場に立てば、ついこの前まで大工の倅だった青年がある日を境に突然「出家」し、教えだし、病気癒しや悪霊祓いを始め、弟子を従えるようになったのですから――しかも、連日連夜家には夥しい人たちが押し寄せてくる――彼らの動揺は察して余りあります。[4] しかも、通俗に従って、イエスの父ヨセフが既に亡くなっており、イエスが名実ともに一家の大黒柱であったと考えるならば、イエスの家族の行動は当然と言えば当然です。 けれども、私たちはここでもう一度マルコ1:14-15の言葉を思い起こさなければなりません。

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

たとえ善意からの行動であったとしても、愛情からの行為であったとしても、イエスの家族がしたことは「神は救い」(イエス)という福音宣言の妨げ、「インマヌエル」(神は共にいる)という神の国の拒絶、「聖霊の業」としての救いの否定に他ならなかったのです。 それゆえにイエスは言います。「私の家族とは誰のことを言っているのか?」

31:イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。32:大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、33:イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、34:周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。35:神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

キリスト教がスーパーマイノリティである我が国で生きる私たち日本人キリスト者は、少なからず主の深い悲しみを共有することができるでしょう。私たちの多くは、家族や友人たちからの理解を得られなかったり、キリストの福音に生きる(キリストで生きる)ことを否定されることが多々あります。それはキリストに贖われた「わたし」という存在のそのものの否定に等しい。けれども、実は主イエスがそうであったように、私たちはそのような家族や友人たちに落胆したり否定することはいたしません。落胆し諦めるのではなく、ひたすらにイエスにおける『事』という真理を指示し続けるのです。確かにイエスは、聖霊の働きに盲目で、イエス・キリストという出来事にインマヌエルの真実を悟ろうとしない自分の家族に対して、「私のまことの家族とは神の御心を行う人だ!」と直言しますし、福音書はある事実に関して沈黙していますので、私たちはイエスのこの発言からつめたい印象を受けてしまうかもしれません。けれども、使徒言行録は福音書が沈黙するある事実を私たちに開示しています。それは、誕生したばかりのエルサレム教会のリーダーの一人として主の兄弟ヤコブが登場する事実、初代教会のメンバーの一人としてイエスの母マリアが登場する事実です。これはイエスが自らの人生をかけて「命のたぎり」を指差し続けた結果にほかなりません。私たちは、この事実から大きな慰めと励ましを頂くことができます。

II.                  律法学者たちの抵抗

 さて、次にイエスの家族の盲目を示す逸話の間にマルコがサンドイッチのように挟みこんだ挿話を観てみましょう。イエスに対するファリサイ派と律法学者たちのシラケと盲目です。ところで、なぜここに律法学者たちが登場るのか。福音書を一冊の書物として読み下す読者にとりましては、イエスの家族の盲目逸話の間にファリサイ派と律法学者たちの盲目物語が挿入されている事実に不自然さを感じるでしょう。私も読みながら物語のぎこちなさにやや戸惑いを感じました。けれども、「イエスのまことの家族とは誰か」というキーワードを念頭に置いて改めて福音書を読みます時、不自然な編集ではあったとしても、イエスの家族の盲目と宗教指導者たちの盲目を同列に置くマルコの意図がおぼろげながらも浮かび上がってくるのです。それは、神に仕えるファリサイ派や律法学者たち、しかもエルサレム神殿(神の家)の最高機関から派遣されてきた宗教家たちは言わば本来神の家族の中心メンバーでなければならない。しかも、神の子キリスト(救い主)をイエスというお方の中に「霊の眼」でしっかりと見抜
き、民衆をその聖なる家族に導き入れる責任のある宗教の達人集団である。にもかかわらず、彼らはイエスに対して全く盲目である…。マルコはこのような理解に基づいて、イエスの肉の家族の盲目とイエスの霊の家族であるべき宗教指導者たちの盲目を一つの物語の中に組み込んだのでしょう。

22:エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

私たちはまず「エルサレムから下ってきた」という言葉に注目しなければなりません。マルコはこの短い一句の中に、イエスの始められた神の国運動のインパクトがどれだけ大きかったかを暗に示しています。都会のエルサレムとは経済的にも地理的にもかけ離れた(エルサレムから見れば)辺境の地ガリラヤという牧歌的風景の広がる片田舎で始められたイエスの神の国運動が遠く離れたエルサレム神殿の宗教権威を刺激し、律法学者たちをサンヘドリンの宗務審問官として「わざわざ」エルサレムから遣わした、というのです。[5]
神殿の宗教権威を刺激した、と言いましたが、ひとつは純粋に政治的理由からでしょう。大勢の追従者を集めたイエスの運動が政治的不安定要素としてエルサレムの為政者たちに映ったのは間違いありません。けれども、彼らがそれ以上に注視したことは、イエスの「悪霊祓いの権威」でした。どこの馬とも知れぬ「自称ラビ」(ラビ=ユダヤ教の教師)が行うエクソシズムの正当性への嫌疑です。もっとも、その権威の出所が不明な――つまり、どの権威的ラビに師事したのかが不明な――イエスの悪霊祓いに対するに評価は初めから決まっていました。それは「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」という律法学者たちの言葉に集約されています。律法学者たちのイエス非難、イエス告発は、実はその言葉以上に辛辣で、悪意と冒涜に満ちていました。ここでは「ベルゼブル」と「悪霊の頭」が同義語として扱われているわけですが、ベルゼブルとは単に悪霊の頭という意味に留まらず、サタンそのものを指します。律法学者たちの理論に従えば、悪霊に取りつかれている人が悪霊を追い出すためには相対する悪霊以上の権威が必要になるからです。
ちなみに、ベルゼブルは「元来古いシリアの神の名であり(バアル)、恐らく「家の主」という意味であった(マタイ10:25参照)と、ある解説書にありました[6]。実際ヘブライ語の字引で調べてみますと、確かに「ベエル」は「家」や(神の)「神殿」を意味する言葉です。ですから、アラム語(ヘブライ語のシリア語なまり)を話されたイエスは、25節の譬話で「家」を引き合いに出された時、エルサレム神殿内部のファリサイ派とサドカイ派の対立の内幕を皮肉る形で、「サタンの家」の話をされたのかもしれません(あくまでも想像ですが)。もっとも、「イスラエル人は[この異教の神の名]を嘲って『バアルゼブール』(蠅の神)(列王記上1:2)」[7]、或いは「汚物の神」[8] と呼び、それが時を経て、イエスの時代には悪魔を指す言葉の一つになっていたことを福音書は私たちに伝えています。[9]
私たちがここで愕然とするのは、たとえ言葉の意味に変遷があったとしても、律法学者たちがイエスの力の源であると揶揄したサタン(悪魔)の名には大変汚らわしい言葉であるという事実です。聖霊の力を「蠅」や「汚物」の神の力に帰する律法学者たちはまさに「目の見えない案内人」以外の何ものでもありません。「あの男はベルゼブルに取りつかれている」という律法学者たちの言葉を直訳しますと「彼は内にベルゼブルを持っている」となりますが、彼らは全く盲目で、イエスの中に「汚れた物」しか見ることができなかったのです。彼らが見たものは、実は、イエスと言う鏡に映し出された己の「罪」であったと私は直感するのですが、いずれにしましても、先取りの形になりますが、律法学者たちの発言は、神のメシアに対する冒涜という次元を超えて、命の源である神の霊に対する最大の挑戦に他なりませんでした。イエスが辛辣な言葉をもって憤った理由はここにあるのです。宗教指導者にもかかわらず制度宗教の「情報言語」(文字)しか理解せず、命のたぎりに満ちた「宗教言語」(事)を決して理解
しようとはしない悲哀を私たちはここに見ます。

そこで、イエスは譬えを話されます。

23:そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。24:国が内輪で争えば、その国は成り立たない。25:家が内輪で争えば、その家は成り立たない。26:同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
27:また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。

この譬話を理解するための道具はすでにある程度確認しましたから、特に解説は必要ないでしょう。ただ、一言だけ付け加えるならば、一見、論理的には完全に破綻しているイエスのたとえ話の意図は27節に収斂していると言えます。「百歩引いて君たちの論理に即しては言うと、私イエスにおいて、より強い人(イエス本人であり聖霊の働き)が到来したのだ。内戦状態のサタンの国をまるまま凌駕し、それを打ち砕くのだ!」(間接的だが『NTDマルコ』110参照)。 もっとも律法学者たちは、あたかも禅の公案(禅問答)のようなイエスのこの問いかけを理解することは全くできなかったでしょう。

III.                   聖霊に対する冒涜

最後に、私たちにも最大の恐怖を喚起するイエスの言葉を観察し、今朝の学びを締めくくりたいと思います。

28:はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。29:しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」30:イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

28節はイエスならではの言葉です。少なくともイエスご自身は人の罪や冒涜をすべて最大限の包容力でその身に引き受けられました。けだしイエスは十字架上で叫びます。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか解らないのです。」(ルカによる福音書23: 34)。けれども律法学者に対して、「はっきり言っておく」(アミン
[10])と強烈な注意を促し、神の業、聖霊の業をベルゼブルの力に帰すがごとくの罪は決して赦されない、と断言します。より詳しく申し上げますと、すでにイエスの中に、奇跡を通して、神の力、霊の働きをその目でつぶさに見、ユダヤ社会の宗教的既成概念(死んだ正統主義=律法主義)によるメタファでがんじがらめにされ、「罪人」「神に呪われた者」「神の救いの外にある者」というレッテルを張られて苦しんでいる人たちの存在の解放、存在の回復を目撃したにもかかわらず、その働きの源泉がどこにあるのかを尋ね求めたり、求道したりすることなしに、イエスの力の出所をサタンに帰すその独りよがりの独断は決して赦されない、というのです。[11] このイエスの言葉は宗教指導者に対するものであることをもう一度思い起こして下さい。本来ならば信仰の導き手であるはずなのに、自らを信仰の世界から絶縁してしまった人たちに向けられた言葉です。しかも、自分たちだけではなく、救いを求めている民衆をもその救いに入れないように締め出してしまった宗教の達人です!

結び

このような宗教の達人たちは今日でも数多くいます。高い所に立って物事を斜に見ることしかできず、常にひねくれていて、求道することを致しません。個人的な意見ですが、疑うという作業を真剣にしている懐疑主義者の方が私には求道のお仲間としてはよっぽど親近感を覚えるのです。なぜなら、彼らは「疑い」に対して自己を開いているからです。実存をかけて世界のリアリティと格闘しているからです。聖霊はそのような人生の求道者たちの周りで、その中で、息吹いているのではないでしょうか。ドイツの神学者パウル・ティリヒはいみじくも言いました。「懐疑は信仰を育てる。」 私たちの信仰もその聖霊の逆説的真実をティリヒと共に告白することができるでしょう。そこから「まことの神の家族」の誕生を期待し、祈ることができるでしょう。私たちも含めて、愛する家族と友人たちと伝道者たちの「イエスと言う出来事」への霊の眼の慧眼を祈り続けましょう。少なくとも、私たちの大牧者であるイエス・キリストは、辛辣な言葉の陰で、霊の眼が閉ざされているご自身の家族と宗教指導者たちの懐疑が、信仰の世界へと開かれるように祈られたのですから。





[1] 資料的には、21節はもともと31節に直結して読んだ方が内容的にはすっきりする。イエスを変人呼ばわりしたのは周りの人たちではなく、イエスの家族であろう。ベルゼブル論争のようにたとえ話が物語の間に挿入されるサンドイッチ型は、マルコ福音書に典型的な編集方法である(川島貞雄『マルコによる福音書』94)。より詳しくはE.シュヴァイツァー『NTDマルコ』108参照
[2] 詳しくはWilliam L. Lane, The New International Commentary on the New
Testament: The Gospel of Mark, 128注75参照
[3] ヤコブは、エウセビオスの『教会史』第二巻23章5節で、律法厳格派のキリスト者として描かれているので、イエスの家族はファリサイ派の流れに属していた可能性あり。E.シュヴァイツァー『NTDマルコ』109。
[4] 大阪聖書学院の杉山世民氏は、同章35節の発言や12歳の時の神殿におけるイエスの発言から、イエスは平凡な人ではなく非凡な人だった、と考え、それ故、身内の人たちはイエスを常々おかしいと考えていたのであろう、と類推する(マルコによる福音書講義録、1993)。
[5] エルサレムのサンヘドリン(エルサレム議会)から律法学者が送られてきた、という記述はここが初めてである。
[6] E.シュヴァイツァー『NTDマルコ』110.
[7] Ibid., 110.
[8] Ezra P. Gould, The New International Critical Commentary New
International Critical Commentary: A Critical and Exegetical Commentary on
The Gospel of Mark (Edinburg: T. & T. Clark), 61, 注1.
[9] E.シュヴァイツァー『NTDマルコ』110.
[10] アミン(アーメン)は本来同意を表す言葉であるが、自分の発言を強調する目的でこの言葉を使うのは福音書だけである。
[11] E.シュヴァイツァー『NTDマルコ』111.