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2005.2.20 「木とその実」船戸良隆師
聖書 マタイ 12:33〜37  (交読聖書 詩篇 9:〜21)
表題だけでは判りにくいかもしれないが、この箇所は12:30からの聖言に続いている。
イエスは、22節以下、ご自身に向けられてパリサイ人たちの非難に対して、彼等の言葉を問題にし、深く教えられているのである。
36節…「つまらない」は、昔の訳では「無益な」となっており、原語アルゴーンは「根拠のない、実体のない」と言う意味である。うっかり口に出してしまう、不注意な言葉。冗談等、私達にも思い当たる節が多い。
日本人は比較的言葉に関する感覚が厳しくないと言われているのではないだろうか。「口は悪いが、根は良い人」だとか、口を滑らせて言い訳をする事があるが、それはある意味、歴史的な経緯があるかもしれない。
バングラデシュは、言葉に対して非常にセンシティブな国で、それは言葉をめぐって独立戦争が起こったという経緯があるからである。ウルデゥー語を話す西パキスタンが、ベンガル語を話す東パキスタンに同じ言葉を強制しようとして悲惨な戦争が起こり、東パキスタンはバングラデシュとして独立したのである。彼等は、ベンガル語を世界で尤も美しい言葉として誇りを持っている。
ユダヤ人も同じように、言葉に大変鋭い感覚を持っていて、それは詩篇を見ると良くわかる。
詩 51:17は、ヨーロッパの教会で、説教直前の祈りに良く使われるそうである。
説教者が語る言葉は、それを通して神が語りかけられる(説教者の言葉そのものが、神の言葉ではない)事を信じているので、そのように祈らざるを得ないのである。
語る者自身が、「果たして自分はそうなのか」と自分自身を納得させる事は難しい。最後は聖霊の力を頂いて語る事になり、それには祈らざるを得ないのである。
説教者の一言によって、信仰に躓いて教会から離れる人もいるし、反面、語られた言葉が心に深く響き、新しい希望を与え、励まし、慰め、人を力付ける事もある。
そう考えると、言葉は非常に大切で、その言葉を発するには、祈りを持ってする事以外にはないと思うのである。
言葉の一言一言が、人を殺しもし、生かしもするのである。
言った方はすぐ忘れたとしても、言われた方は何年経っても特に非常なショックを与えられた言葉は、忘れられないものである。
反対に、非常に落ち込んでいた時、そこから救い出してくれる言葉もある。そのように、人の言葉は心に深く、深く入って、生涯忘れえぬものになる。
それ故にイエスは、33節のように言われたのである。
私達はよく「心にもない事を」と言うが、イエスははっきりと、34節のように仰るのである。前半の言葉は、イエスの言葉としては強いものであって、後半に続く。
このように考えると、「もう言葉を出せないのではないか」「どうすれば良いのか」と戸惑いを覚えるが、良いとか悪いとかではなく、37節のように言われる。
と言う事は、聖書においてイエスは、「言葉は究極的に単なる感覚と言う問題よりは、更に深く信仰の問題だから、罪から私達が解放されて、義、即ち正しくされると、神と私達との問題と言うところにまで深められないと駄目だ」と仰っているのである。
神との関係が正しくされると言う事は、具体的に言えば、教会生活をしっかりとして、主日礼拝を正しく守り、心を正しく神に向け続けていくと言う事。そこで心が養われて、無益な言葉ではない、人の徳を高める言葉が生まれてくると言う方向に向かっていくという事。勿論一朝一夕にそういう事がすぐ可能になる事ではない。
教会では、義とされ、それが聖化、清くなる。その聖化は一面から見れば、己がますます罪びとであるという事を自覚する事だが、自覚すると同時に、私達が神との関係において神に礼拝し、神に向かっている事で、神によって心が少しずつでも良い方向に向かう事を願っている。
だから、私達の言葉はただ単に自分が発するのではなく、もっと深い所で考えねばならないと言われている。
最後に、言葉について考えさせられるエピソードを紹介したい。
ハイデルベルグ大学のボーレン教授が東神大で講演された時の言葉である。
スイスのバーゼル大学に若くして急逝された教授の妻は、熱心なプロテスタントの信者で信仰の深い方であったが、最愛の夫が突然亡くなった事で呆然として、神を信じる事が出来なくなり、祈る事が出来なくなった。その時、所属している教会の牧師が、彼女を訪ね、見舞い、彼女の訴えを訊き、「祈れない気持ちはわかります」と慰めた。数日後、夫の同僚という事で、イエズス会の神父が訪れた時、同じ訴えをしたところ、その神父は「あなたが今言っている事は間違っている。今こそ神はあなたを求め、捉えようとしておられるのに、何故祈らないのか? もし祈らなければ、祈れなければ、一緒に祈ろう」と一緒に祈ったと言う。その後彼女は慰められ、信仰を回復したと言う事である」。
これは、カトリックの神父が言ったのではなく、プロテスタントのボーレン教授が、東神大で、プロテスタントの牧師になろうとする学生に言ったのである。
そして「将来牧師になるその時に、尤も大切な事は、不信仰を言い張る人に対して、妥協しない事。牧師もまた、心の中に不信仰な思いをどこかに描いている者だから、不信仰な言葉を語られるとつい、『その通り』と言ってしまうものだが、そうしたら、あなたの信仰はなくなりますよ。不信仰に妥協してはいけない。不信仰を受け入れてはいけない。信仰だけで生きる事。そうすれば人を慰める事も出来る。言葉というものはそのくらい大切な物。もしそれが出来ないと言うなら、人を慰める事も出来ないし、牧師として立つ事は出来ない」と言われたのである。
言葉と言う物は、人を殺しもし、生かしもする。
12:32は、どういう事か? 聖霊とは、今ここに生きて働いておられる神の力である。その聖霊の働きに逆らうと言う事は、神の力を信じていないと言う事になる。
神が今働いておられると言う事を、信じられないと言う事こそ、決定的にそれは不信仰である。
「教会は言葉の学校である」と言った人がいる。
その一言、一言であんなにも喜んでくれた、慰められた、生きる希望が与えられた。
それは、牧師か、信徒かは関係ない。その人の口から出る言葉が、真に人を生かす言葉となる事が出来るよう、そのような言葉が語れるように私達は祈りたい。
神の力を信じて祈りたいと思う。