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2011/05/08   「平和があるように」 ルカによる福音書 24:36-49

イントロ

 エマオの出来事の続きです。復活のイエスはエマオで二人の弟子たちに現れました。イエスの磔刑死に落胆してエルサレムを去った二人でしたが、主との再開で「私たちの心は燃えていた、いや今たぎるように燃えているではないか」と再び勇気を得て、エルサレムに戻ります。11人の使徒たちと他の弟子たちに復活のイエスとの出会いを伝えるためでした。「エマオでの途上で起こったこと。その男がパンを裂いて下さったときに分かったこと」を。

I.                  うろたえる弟子たち

 ルカの報告によりますと、「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』(:36)と言われた。」 主はどこからともなく突然現れたのでしょう。弟子たちは「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(:37b)ようです。面白いのは新共同訳で「亡霊」と訳されている言葉のギリシア語は「プネヴマ」(霊[口語訳、新改訳])ですが、霊は霊でも、イエスの復活などはなから頭になかった弟子たちにはまさに、おどろおどろした亡霊だったのです。しかも、ギリシア語のニュアンスですと、イエスがそこにいることに気づき、びっくりした、と言う感じです。「そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」(:38)

 主はどんな顔でおののく弟子たちに語りかけられでしょうか。口調は厳しいのですが、この後の言葉を見ますと少しおどけた様子の主を感じるとることができます。『わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。」(:39-40) 一人称単数の代名詞を連続して、「わたしの手」「わたしの足」「わたしである」を念を押しながら、これが死者ではなく、生者であることを彼らの眼と心に焼きつけるのです。怯む弟子たちに近寄り、「亡霊じゃないよ」と宣言しながら、傷跡の残る「自分の手」「自分の足」を擦り付けんばかりに差し出すのです。「わたしは生きた者」であるとの宣言が力強くこだまする「わたしである!」(私は存在する)という宣言と共に。弟子たちは思い出したでしょう、墓に参じた女性たちから聴いた天使の言葉を。

婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか(ルカ24:5)。

或いは、詩編(16:10)の言葉も思い出したかもしれません。ヘンデル(ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Handel,1685-1759)も彼のオラトリオ、『メサイヤ』(Messiah)で採用したあの言葉です。メサイヤではテノールのアリア:

But Thou didst not leave His soul in hell; nor didst Thou suffer Thy Holy One to see corruption. (しかし、あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させられなかった。)[1]

II.                  喜ぶ弟子たち

 そのような主を前に弟子たちは喜びます。面白いのは喜びのあまりまだ信じられない、という光景でしょう。私たちも人生の中で「信じられない!」ほどの喜びを経験したことがあると思いますが、弟子たちが遭遇したことはケタはずれです。自分たちが裏切り、十字架の上で絶命し、墓の中に葬られた師匠との再会でした。しかも、亡霊ではない霊肉を備えた完全体(ユダヤ的存在論は「霊肉不可分」)で現れたのです。用意されたステージがあまりにもドラマチック且つ、あまりにも整い過ぎているが故の弟子たちの「半信半疑」の念、無理もありません。
  唖然としている弟子たちに、イエスはあまりにも平凡な行為で自らの復活を理解させます。

:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

 最初期の古代教会で定型化された信仰告白、「イエスはキリスト、神の子、救い主」のそれぞれのギリシア語の頭文字を繋げると “IXΘYΣ”(魚)となるから弟子たちが魚を差し出した、といった解釈は深読みの誹りを免れないかもしれませんが、彼らが失望の内に故郷のガリラヤに戻り、元の漁師に戻らんとしていたまさに時に、手元にあった魚を指し出した、と理解するのは決して的外れではないでしょう。彼らは漁師に戻りかけていたのです。その焼き魚を主は、生きているわたしを眼を凝らしてよく見よ、と言わんばかりにほおばられたのでした。弟子たちは幾つかの出来事を思い出したでしょう。五つのパンと二匹の魚を5000人以上の聴衆に給食されたことを。カファルナウムで神殿税を集める者たちがペトロに「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言い迫って来た時、「湖に行って釣りをせよ。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ」、と言われた時の事を。そしてなによりもペトロは、初めて主に出会った時の事を。

 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。(ルカ5:1-11)

このエピソードで出てくるのはペトロを中心に、ヤコブとヨハネ、そしてマタイ福音書の平行個所で出てくるペトロの兄妹アンデレですが、弟子たちすべてが、初めて主と出会ったときのことをそれぞれ思い返したはずです。忌み嫌われていた徴税所や罪びとのレッテルを貼られていた人々の酒宴など、思いがけないところに突然現れ、みんなの目をじっと見つめながら「ついてこい」と言われた時のことを。

III.                  イエス、弟子たちの心眼を開く

 ヘンデルはイエス・キリストと言うお方を、彼のオラトリオ『メサイヤ』の中で見事に表現しました。材料は預言者(歴史書と預言書)と詩編、そして新約聖書です。それに対して、イエスの材料はモーセの律法(モーセ五書)、預言書、そして詩編でした。

:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

 ヘンデルのメサイヤの中には現れない、神の救いのご計画の要石をなす律法の書にイエスは言及します。律法の言葉は、聖書のどの時代においてもイスラエルの民の精神的支柱であり続けました。イスラエルとユダの王、そして民がアブラハムの神を忘れ、律法を軽視した時も、(結果的にですが)ファリサイ派が律法を教条化の道具として利用し、愛と命のない単なる文字の集合体としてしまったときも、律法の精神はイスラエルの民の心を支え続け、彼らを彼らたらしめてきたのです。

あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5)

復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:18)

あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた。(申命記14:2)

 ヘンデルのメサイヤの中にはモーセ五書の言葉は出てきませんが、序曲にイスラエルの民を支え続けてきた律法の言葉の命を感じます。失敗しながらも神の約束に支えられて歩んできた民の息づかいを感じるのです。ロジャー・ブラードの解説が興味深いので紹介しましょう[2]。

序曲の始まりの重々しい和音は、我々を捕囚の闇の中へと放り込む。故郷から遠く離れ、自分が何者であるかを見失い、現在に対しても未来に対しても希望が持てない――そのような暗闇へと。しかし、この重々しい和音はその後に葬送曲や死者の行進が続くようなものではない。確かに重苦しさが漂っている。しかし、その重苦しさの中には威厳がある。「前途に待ち受けるものは死のみである」と信じることを拒絶するような威厳である。この闇の中を、旋律線は上昇していく――神はご自分の民を見捨ててはおられない、まだ未来が失われたわけではない、という信仰に突き動かされるように。輝かしいフーガが始まると、希望が信仰に活気づけられて光を放つ。音楽はクレッシェンドへと突き進み、再び重々しい和音でこの序曲は収束する。しかし、この締めくくりの和音は、確固とした精神である。この深淵の中で胎動していた何かが、新しい始まりを迎えようとしている。ここに希望がある――今に神は行動を起こされる、という希望が。

 神は確かに行動を起こされました。律法の書に、預言書に、詩編にその真実が記されています。けれども、今一度心しましょう。書かれていることを知っているだけでは真実への開眼には導かれないことを。弟子たちも、聖書に何が書いてあるかは大方分かってはいました。けれども、知識と経験がなかなか繋がらなかったのです。そこで、主は彼らの目を開かれたとルカは報告します。聖霊降臨は未だ起こっていませんでしたが、主は彼らに霊の息吹を吹きかけられたのです。己の知識と経験だけによって構築された、限られた「リアリティ」(既成概念という名の構造主義)という束縛から彼らを解き放って(脱構築)、自我の向こう側(再構築ならぬ絶対無の世界)へと誘ったのでした。

:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、:46 言われた。「次のよあうに書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

 弟子たちはこの後も失敗を繰り返しますが、イエスがどなたであったのかを少しずつ理解し始め、偶然にも、あの時供した焼き魚のスペリング(IXΘYΣ)が証しする、「イエスはキリスト、神の子、救い主である」ことを証しする、人を漁る者へと変えられていったのです。ペトロと他の弟子たちは使徒言行録で声を大にして宣言しました。

イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。…わたしたちは皆、そのことの証人です。(使徒言行録2:22-32抜粋)

結び

 エマオの途上で復活の主と出会った弟子たちは、主がパンを裂いた時に目の前にいる人が主イエスだと解りました。11人の使徒たちは、主が魚を食すの見ながら、主の復活に思いを巡らしたのです。
  私たちは今朝も主の食卓に与ります。焼き魚はありませんが、ここ(会堂正面の壁)にあるシムズさんがエルサレムで買ってきたと思われる魚型のお土産が私たちの想起に一役買ってくれるでしょう。今朝も、復活の主は私たちの交わりのただ中にいて、パンを裂いて下さいます。

復活の主の慰めが東日本大震災の被災者たちにありますよう、今朝も祈ろうではありませんか。ガリラヤから届いた「シャロンの花」(聖歌530「悩む世人の為に」)ならぬ「魚」(IXΘYΣ)の香りは、世界中の人々の祈り、善意、働き手を通して、被災地にも香るはずですから。漁業の沿岸部の町々を始め、福島第二原子力発電所周辺や液状化現象の被害にあった内陸部の人々にも。