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2011/11/06  「最後にして最大の新しさとその先にあるもの」
(第41回教会創立記念礼拝・第31回召天者記念礼拝) ヨハネによる福音書11:25-26

 昨年はめじろ台キリストの教会がこの地に建てられてから40周年という節目の年でした。ですから私たちは去年、この祈りの宮をより長く、より有効に、より効果的に使えるようにと、実にさまざまな記念事業を立案し実行したのです。この先どれだけ私たちの教会がめじろ台の地に立ち続けることができるのか、どれだけ神の器として用いて頂けるのか、何の保証もありませんでしたが、私たちは収穫の主に信頼し、主にすべてをお委ねし、「未だ見ぬ未来」に私たちのすべてを託したのでした。主に未来を託すとは、神の世界、「永遠の今」を生きることへの決意表明に他なりません。

 さて、今年は創立41周年。私たちめじろ台キリストの教会は、主の守りの内に新たな十年最初の年の歩みを全うし、本日の記念礼拝を迎えることができました。この調子ですと50周年どころか100周年も夢ではない、などと軽口を叩きたくなりますが、今朝今一度憶えたいことは、41年間欠かさずに守られ続けてきた私たちの主の日の礼拝は、ひとえに私たちの主の導きとお守りがあってのこと、という真実です。主は実に、私たちを神の時間の中ですぐる一年間導いて下さいました。

 41年間私たちは実に様々なことを経験しました。ハード面ではメイン会堂、牧師館、シムズホールの建築、数度の改装;ソフトの面では宣教師、ハロルド、ロイス・シムズ夫妻を初代に、岸本大樹牧師、船戸良隆牧師、吉良賢一郎と伝道者のタスキが引き継がれた、とまとめることのできる方はめじろ台キリストの教会の古参です。
尤もこれらは私たちの「様々な経験」の一部に過ぎません。古参のメンバーであればある程そのことに同意して下さるでしょう。

 本日の週報をご覧ください。「第41回教会創立記念」と共に「第31回召天者記念」と記されています。私たちめじろ台キリストの教会は、教会創立記念と並行して先に召された召天者を憶え、記念するのです。なぜでしょうか。それは誕生即終焉だからです。人は誕生の瞬間から死に向かって一直線に進みます。人生とはそういうものなのです。ですから、めじろ台キリストの教会誕生後の10年目に、教会の誕生日と共に教会を構成するメンバーと家族の命日を憶えるようになったのでしょう。教会暦の伝統で言うところの「諸聖人の日」(英:All Saints’ Day[Solemnity of All Saints])がめじろ台教会で何故「召天者記念礼拝」へと派生したのか、何故教会誕生の10年後から行われるようになったのか……。語り尽くすことのできない様々な経験の重みがこだましています。

 人は誕生の瞬間から「新しいこと」を経験しだすわけですが、実は新しさの経験は死ぬまで止むことはありません。人の生は誕生の瞬間から息を引き取る瞬間まで新しさの連続です。そして最大であり最後の「新しさ」は、言うまでもありません、「死」です。どのように誕生し、どのように息を引き取ろうともそれは変わらないのです。そもそも生きている人間が語る死は実体験のない未経験の事柄である、と言われては身も蓋もありませんが、人の死に直面した者は、その究極の新しさを看取するはずです。看取などというレベルではなく、死が持つリアティティに圧倒され、飲み込まれてしまう、と言った方が正確かもしれません。今まで何度も礼拝の中で朗読しましたが、今一度17世紀初頭イングランドの詩人、ジョン・ダンの鋭い感性に聴きましょう[1]。今回は長めに引用します。

もしかすると、私は実際以上に私の病気が軽いと思い込んでいて、周りの人達が私の病状を見て、私のために鐘を鳴らしてくれたのに気付かないでいるかもしれない。教会は万人のもの、普遍的なものである。教会の活動も同様である。教会の行う全てのことが、全ての人に関係がある。教会が子供に洗礼を授けるとき、その行為は私に関係がある。何故なら、洗礼によってその子は教会の頭である人に結ばれるが、その人は私の頭でもある。また、洗礼によってその子は私が手足である身体に連なることになる。教会が誰かを埋葬するとき、その行為は私と関係がある。全ての人類は一人の著者から生まれた一冊の本である。誰か一人の人間が死ぬとき、その本から一つの章が破り取られるのではなく、もっと良い言語に翻訳されるのである。全ての章はそのように翻訳されなくてはならない。神は様々な翻訳者を用いられる。ある者は老齢によって、ある者は病気によって、ある者は戦争によって、ある者は裁判によって翻訳される。しかし、どの翻訳にも神の手が加えられる。そして、神の手が全ての散逸した紙片を綴じ合わせて、全ての本がお互いに対して開かれているような図書館に置くのである。従って、説教のために鳴る鐘が、説教者だけでなく、会衆を呼ぶものであるように、いま鳴っている鐘も、全ての人を呼んでいるのである。……いま夕べの祈りのために鳴っているこの鐘の権威を正しく理解するためには、我々は早く目を覚まして、この鐘はまさにそのために鳴っている当人だけでなく、我々のためにも鳴っていることを悟るべきである。鐘は自分のために鳴っていると思う人のために鳴っているのである。鐘はいずれ止むが、それを聞いて心を打たれた瞬間から、その人は神に結ばれているのである。太陽が昇る時に、目を上げぬ人はいない。また、彗星が出現する時に、目を離す人はいない。色々な機会に鐘が鳴る時に、耳を傾けない人はいない。また、自分の一部を此の世から送り出す鐘を聞いて、耳を外らすことの出来る人はいない。誰れ一人として、自己充足的な孤島ではない。全ての人間は大陸の一部であり、本土の一部である。一塊の土が海によって洗い流されるなら、ヨーロッパはそれだけ小さくなる。それは一つの岬、或いは、あなた自身の荘園、または、あなたの友人の荘園が、洗い流されたのと同じことである。誰かが死ねば、それだけ私は小さくなる。何故なら、私は全人類と関連があるからである。それ故、誰のために鐘は鳴っているのか、使いの者を出して聞く必要はない。鐘はあなたのために鳴っているのである(ゴシック体太字は吉良による)[2]。

 私たちが経験する「最後の新しさ」が虚しい圧倒で終わるのか、或いは希望への発露となるのかは、もちろん、私たちが命の源泉に目を向けて生きているのか否かで大きく左右されます。私たちがキリストの命で生きているのか否かにかかっています。「永遠の今」を識り、その世界に生きているか否かにかかっているのです。他の宗教と比較して云々、という問題ではありません。キリストと出会った私たちに問いかけられていることなのです。

 私は先ほど人の生を「オギャーと生まれる誕生の瞬間」と「肉体が朽ち果てる死の期間」に限定しました(誕生即終焉)。そして究極的新しさは「死」である、と述べました。けれども、主を知る者たちはこの定義が十分でないことを知っています。

あなたは、わたしの内臓を造り
母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
わたしはあなたに感謝をささげる。
わたしは恐ろしい力によって
驚くべきものに造り上げられている。
御業がどんなに驚くべきものか
わたしの魂はよく知っている。
秘められたところでわたしは造られ
深い地の底で織りなされた。
あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。
わたしの日々はあなたの書にすべて記されている
まだその一日も造られないうちから。
(詩編139:13-16)

 ダビデの信仰理解です。私たちの生は誕生から始まるのではない、母の胎の内で既に始まっている。主は胎児にじっと目を注いで下さっている、とダビデは告白するのです。ダビデの生命理解がたとえ現代の生命倫理が論じるような洗練されたものでなくとも、彼が証示する存在の原体験とその真実は、私たちの心を揺り動かし、魂に感動を与えて止みません。ダビデの告白は、生命誕生に関する医学的知識を持っている現代の私たちを、精子と卵子の結合による細胞分裂よりも遥かに高い次元へ、1センチ前後の豆粒ほどの胎児が胎児心拍(妊娠6週間前後)を刻み始めるよりも遥か以前の時(永遠の今)へと誘います。

 では、死についてはどうか。ヨハネ福音書はこう言うのです。

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネによる福音書11:25-26)

 死では終わらない生……。「イエスにある復活の命」という福音宣言を受け取ったパウロは、このように彼の信仰理解を表明しました。

 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(コリントの信徒への手紙I 15:51-54)

 神は私たちに、このような生を与えて下さいました。命を生きることを許して下さいました。希望を持ちましょう。私たちの存在は「ゆりかごから墓場まで」ではありません。「胎児心拍開始から恒久的心肺停止まで」でもありません。私たちの存在は、「存在へと呼び出された時から永遠の神の懐に戻るまで」なのです。復活のイエスにある命の世界は永遠の今から永遠の今までです――「誕生即終焉」ならぬ「誕生即天国(永遠の神のご支配)」。ラッパが鳴り響くまで私たちの巡礼を続けて参りましょう。主にお委ね致しましょう。まずは、今日と言う新しい一日から歩みを新たにしようではありませんか。主はめじろ台キリストの教会に、私たち一人ひとりに、私たちの家族に、常に最善をなして下さるのですから。

 キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(コリントの信徒への手紙II 5:17)


[1] 厳密にはこれは詩ではなく散文である。故に、既刊の『ジョン・ダン全詩集』(湯浅信之訳)名古屋大学出版会(1996)や『対訳ジョン・ダン詩集:イギリス詩人選(2)』(湯浅信之訳)岩波書店(1995)には収録されていない。なお今回引用の邦訳は、湯浅信之氏による未出版の試訳。
[2] ジョン・ダン『不意に発生する事態に関する瞑想』試訳(W)(湯浅信之訳)XVIIより抜粋引用(梅光女学院大学英米文学会紀要『英米文学研究』[35号:1999.12]22-23)。デジタル版は以下のURLで公開されている。http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/bg/file/377/20091021212813/BG20035000002.pdf
なお、上記邦訳抜粋引用対応の英語原文(MEDITATION XVII: Now this bell tolling softly for another, says to me, Thou must die (from Devotions Upon Emergent Occasions [1623])は以下の通り。
[P]erchance I may think myself so much better than I am, as that they who are about me, and see my state, may have caused it to toll for me, and I know not that.
The church is Catholic, universal, so are all her actions; all that she does belongs to all. When she baptizes a child, that action concerns me; for that child is thereby connected to that body which is my head too, and ingrafted into that body whereof I am a member. And when she buries a man, that action concerns me: all mankind is of one author, and is one volume; when one man dies, one chapter is not torn out of the book, but translated into a better language; and every chapter must be so translated; God employs several translators; some pieces are translated by age, some by sickness, some by war, some by justice; but God’s hand is in every translation, and his hand shall bind up all our scattered leaves again for that library where every book shall lie open to one another.
As therefore the bell that rings to a sermon calls not upon the preacher only, but upon the congregation to come, so this bell calls us all;
…If we understand aright the dignity of this bell that tolls for our evening prayer, we would be glad to make it ours by rising early, in that application, that it might be ours as well as his, whose indeed it is. The bell doth toll for him that thinks it doth; and though it intermit again, yet from that minute that that occasion wrought upon him, he is united to God.
Who casts not up his eye to the sun when it rises? but who takes off his eye from a comet when that breaks out? Who bends not his ear to any bell which upon any occasion rings? but who can remove it from that bell which is passing a piece of himself out of this world?
No man is an island, entire of itself; every man is a piece of the continent, a part of the main. If a clod be washed away by the sea, Europe is the less, as well as if a promontory were, as well as if a manor of thy friend's or of thine own were: any man’s death diminishes me, because I am involved in mankind, and therefore never send to know for whom the bells tolls; it tolls for thee.