メッセージバックナンバー

2011/03/27          「新しい朝は来るのか主よ、なぜですか」 
―わたしの生きる力は絶えた/ただ主を待ち望もう―  
<東日本大震災犠牲者、ご遺族、被災者を憶えて> 哀歌 3:18-31

 東日本大震災が起こってから三回目の主の日を迎えました。先週は講壇から「あたかも詰将棋のようだ」という産経新聞のコメントを紹介しましたが、その攻防は今なお続いています。寒さとの闘い、衣食住確保の闘い、石油エネルギー供給の闘い、電力供給の闘い、医療インフラ確保の闘い、震災孤児を保護する戦い、無くなられた方のご遺体を丁重に埋葬するための闘い、福島第一原子力発電所放射性物質拡散阻止の闘い。
この詰将棋は原発の被害で詰んでしまうのではないか、とがなりたてる米国のいくつかのメディアには閉口させられますが、彼らの指摘を一蹴できない現実も起こり始めています。今まで当たり前のように飲んでいた水道水からの放射性物質の検出……。茨城以北、とりわけ東北地方沿岸部の被害に比べれば首都圏が被った被害はものの数に入りませんが、節電に勤しむ中での計画停電、今や生活に欠くことのできない水道蛇口から流れ出る目に見えぬ毒に、我々もそれなりに神経をすり減らします。

 このような時に聴きたいのは主イエスの福音の慰めなのですが、残念なことに、文学的センスゼロの心ない裁きの宣言を頻繁に耳にするようになりました。この震災が起こってからこれ見よがしに! 「今こそ悔い改めなければ地獄行きです」「日本人の偶像礼拝がこの悲劇をもたらしました」「今は福音宣教の最大のチャンスです」調の電話が何度鳴ったでしょうか。これらの電話はめじろ台キリストの教会の番号にかかってきましたから、彼らにしてみれば、私たちは神に喜ばれない「残念な教会」ということになるのでしょう。

もっとも彼らが独言をつぶやいたとしても、めじろ台教会の電話口における被害はため息一つです。けれども、もしこの電話が被災地に行ったならば、ため息一つでは済みません。彼らの独言ならぬ毒言に、被災者の心はズタズタにされてしまうでしょう。壊滅的打撃を受けた地域の電話回線が復旧していないのは救いです。聖書を鉄砲のごとく使用する癖のある人は昔からいましたが、現時点での警察発表の犠牲者数が一万人を超える非常事態下にあっては冷笑すら起こりません。主イエスなら涙を流して、烈火のごとく怒られるでしょう。ちなみに、同様のことを、世界で一番大きな会衆を抱える教会の牧師さんも言っていました。頑迷さ、高慢さにおいてはめじろ台教会はその方の足元にも及びません(皮肉です)。

先週と先々週、哀歌3章より、破壊され廃墟となったエルサレム神殿にしゃがみ込み、灰をかぶって嘆きの声を上げる男の旋律に心を合わせました。彼の呻きは詰将棋のコマのように翻弄されるイスラエルと己に対するものですが、歌には続きがあります。この続きこそ、今私たちが聴きたいことであり、被災者にお届けしたい慰めの言葉なのです。

 紀元前587年、エルサレムはバビロンよって滅ぼされました。神の住まいであるはずのエルサレム神殿を初めとして、総てのものが、徹底的に破壊し尽くされてしまったのです。哀歌の歌人は、廃墟となった神殿の中に座り、エルサレム陥落の原因とその意味を神に問うたのでした。

哀歌の歌人は、預言書特有の因果応報理解(認識)でイスラエルの被った悲劇(事実)を省察しますので、福音書のイエスの言動とは一致しない部分もあるのですが、廃墟の中で彼が告白した神の憐れみは、イスラエル宗教思想の枠組みを超えて、私たちの主イエスに引き継がれ、そのイエスを通して私たちにも届けられました(真実)。今、私たち日本人は、イエスの眼差しを通して、哀歌のこの告白に聴くことができるのです。

わたしの魂は平和を失い/幸福を忘れた。(3:17)


  幸福であった人が幸福を失った時の喪失感はいかばかりでしょうか。「幸福を忘れた」と告白した哀歌の歌人の絶望がどれほど大きかったでしょうか。短い言葉ですが、大変重たい言葉です。人間は被った悲劇によって幸福をも忘れ得るのです。


たいがいはこれでぺしゃんこになって終わりなのですが、哀歌の歌人には一つの認識、理解がありました。この理解が彼をぎりぎりのところで支え続けたのです。

「幸福は人間自らが作り出すものではない。」

ぎりぎりのところにまで追いやられて、繁栄を極めたエルサレムでは気がつかなかった、幸福の源泉に心の眼が開かれたのでしょう。

わたしは言う/「わたしの生きる力は絶えた/ただ主を待ち望もう」と。
苦汁と欠乏の中で/貧しくさすらったときのことを
決して忘れず、覚えているからこそ/わたしの魂は沈み込んでいても
再び心を励まし、なお待ち望む。
主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。
主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。
(3:18-24)

 それは綺麗事だ! 何が朝ごとに新たになるんだ! その様な叫びは必ず上がるでしょう。正直に告白するならば、私も、この非常事態に信仰告白が上滑りしないように必死なのです。けれども、座して待つことしかできないのであれば、待つしかありません。待ち続けるしかありません。人間が人間の力に絶望することは何時でもできますが、何時でも絶望できるのであれば、少し待ってみても善いでしょう。「待っていて何があるんだ。何が見えるんだ!」と 悲痛な声が聞こえてきそうです。けれども、松明を高く掲げ、告白し続けたいのです。


主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。
主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
若いときに軛を負った人は、幸いを得る。
(*口語訳や新改訳のように「善いことである」と直訳した方がいいかもしれません。)
軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。
塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。

(3:25-29)

 三つの「善い」こと――「主に望みを置き、主を待つことこと」「全能の神の力を信じて黙すること」「人が自分の運命の主人公ではないという事実を認識する決断をすること」(軛を負う)こと。この「主を待つ」「主に望みを置く」という言葉は、ただ単に事物の現状を受動的に受容することを意味するのではなく、神の目的が成就することを静かに、しかし熱烈に待つというニュアンスが込められています。人生の不条理に怒りを覚えながら、人生に満ち満ち矛盾に狼狽しながら、他者が発する雑音に憤りを感じながら、時に神を見失いながら、この三つが善いことであるのであれば、静かにそして熱烈に黙し、待ってみたく思うのです。羊飼いなる神が私たちの人生の主(あるじ)となって下さるのですから。私たちの主イエスは、まさにありようを己が身をもって示してくれたではありませんか。ゲッセマネで血の汗と涙を流して祈りながら。

もちろん、私たちは究極的には「主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない」という主の約束に信頼していますから、そして、主イエスが己が身をもってその真実を教えて下さいましたから、黙して待つ間も、主と主が与えて下さった人間性に突き動かされて、はるか先にかすかに見える希望に向かい体は前へと向かっていくでしょう。泣く者と共に泣きながら、困っている方々への支援へと突き動かされます。