わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。(黙示録21:1-7)
イントロ
2008年最後の公同礼拝となりました。数週間前にグレゴリオ教会暦の年末年始を迎えたばかりですので、また年末か、と思わなくもありませんが、今日の最後の礼拝は、太陽暦の年末です。そして、明治以降太陽暦を採用してきた日本においては、この年末が「ゆく年くる年」を実感させる時に他ならないでしょう。
I. 生かされた一年
ゆく年くる年・・・。この時期に毎年思うことは、今日までよく生きていたな、より正確に申すならば、生かしていただいたな、ということです。年頭の賀詞は年が明けてから書くもの、という「正論」(言い訳)を胸にしまっている私は、年の瀬に年賀状なり年賀レターをしたためるのですが、筆を走らせながら、この一年間に起こった様々なことを思い出し、振り返り、反芻し、生かして頂いた真実を噛みしめるのです。(何を思ったかは、来年のお楽しみ、とさせてください。)
とにかく、そのような一年が去りつつあります。故に、感謝である、と肺腑から告白したく思います。皆さんも366日という等しい時間を過ごしました。一年を振り返り、皆で、感謝である、と告白できたら、なんと素晴らしいでしょうか。善きことだけではなく、良くないことも含めての感謝です。生身の人間としては、万事が感謝である、とはなかなか思えないのが現実ですが、年が過ぎ去ると同時に確実に新しい年を迎えることができるのですから、その天来の神秘に感謝せずにはおれません。
II. 神の御栄光が顕現した一年
もちろん、この感謝は自らを欺く告白では決してありません。なぜ感謝のか――それは神の御心がなった、と確信しているからです。そして、来たる年にも神の御心がなると確信しているからです。私たちは、毎主日、「主の祈り」の中で、御心がなりますように、と祈っているではありませんか。
神の御心がなる、とは神の御栄光が現れるということです。私たちの栄光ではなく、神御自身の御栄光です。その栄光の顕現を期待し、その世界の中に生きるとき、私たちの生涯は「わたしたちのもの」から「神のためのもの」に昇華します。その真実に気づかされます。神が主人であって、私たちは僕であること、神が牧者であって、私たちはその牧場の羊であることに開眼するのです。
僕は自分の思いではなく、主人の業が達成されることを喜び、それを見て満足します。どうでしょうか。今年一年間、神の御業は達成されたでしょうか。・・・答えは「然り」です。一年間時計の針が確実に進んだのが、何よりもその答えです。私たちの主は毎年毎年、毎日毎日、毎時間毎時間、毎秒毎秒、聖なる御業を進めておられます。その時間の経過というコトの中に神の御栄光は余すところなく顕現している――善き時も悪しき時も・・・。それ故、私たちは感謝するのです。
私たちの信仰の大先輩、内村鑑三氏はこのような発言をされました。
我が不幸、我が損失のごとき、問うべきでない。いわんや少なからざる幸福の、我が身にも臨みしにおいてをや。[1]
III. 私たちを滑らかにする一年
クリスマスの植物と言えば柊(ひいらぎ)ですが、新聞のコラムに柊に関するこのような解説がありました。
[ヒイラギ]の花樹の特徴は葉っぱの縁が鋭いトゲ状になっていることである。可憐な花を守っているようだ。うっかりそのトゲに触れると、疼(ひいら)ぐ、つまりヒリヒリと痛む、というのでこの名前がついたという。転じて「柊」という字が当てられたらしい。・・・もっとも、トゲが鋭いのは木が若いときだけだ。老木になると、葉の縁がすっかり滑らかになる。菱山忠三郎氏の『花木ウォッチング100』によれば、自然観察会で大きな老木のヒイラギを見せ「これは何の木でしょう」と尋ねても、そうと気づかない人が多いそうだ。[2] |
年を重ねるごとに、旧年をおくり新年を迎えるたびに、私は柊のごとく、なめらかになりたく思います。主のなされる御旨、御業を、ありのままで受け取り、受け入れるために。であれば、黙示録のメッセージが少しは、今このときでも実感を持って味わえるのではないかと思うのです。
結び
新しい年が間もなく訪れます。皆さん、善いお年を!
[1] 内村鑑三『新・一日一生』(教文館)403。
[2] 産経新聞2008.10.19、『産経抄』抜
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