:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。:1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。(フィリピの信徒への手紙 3:17-4:1)
イントロ
新聞、雑誌は読者を、ラジオはリスナーを、テレビは視聴者を、手紙は受け取り手を意識して、放送され、話され、書かれます。もちろん、どのような媒体であるにせよ、マスメティアの情報・意見の発信には、ある種「一方的」な側面は否めません。けれども、不特定多数に対してでありながらも、新聞・雑誌であれば購読者数アップを意識して、ラジオ・テレビであれば聴取率・視聴率アップを至上命題にして、こちら側から向こう側へ、向こう側からこちら側へ、と双方向的ベクトルを持つ努力をします。我が家は地デジ対策を完全に放棄しましたので体験的には分からないのですが、テレビ放送はデジタル化され、より双方向的なメティアになりました。
それに対して、「一方的」色彩が強い情報発信装置として、ブログ、動画投稿サイトの類があります。これらのサイトは、いつでも、だれでも、気軽に、それぞれの思いを世界に表現することができますから内容は玉石混淆、読むに堪えないもの、見るに堪えないものも多いのですが、有益な意見や情報を発信するものも多くあります。例えば、海上保安官(当時)、一色正春氏がYouTubeに公表した尖閣諸島中国漁船衝突映像。公務員としての倫理問題はさておき、大変衝撃的映像でした。また、先の東日本大震災を引き起こした地震と津波の映像も私の心から消し去ることはできません。
一方的情報発信メディアの一つとして、宗教も挙げることができるでしょう。もちろん一部ではありますが、相手無視の宗教プロパガンダをひたすらに流し続ける宗教団体・宗教家は決して少なくありません。その主張は宗教的確信からなされますから、一方的先鋭度は度を超すことが多々あります。私が伝道者の務めをなしているめじろ台キリストの教会にも、頻繁に不思議な宗教雑誌、自称預言者による裁きの手紙が送られてきます。東日本大震災の直後は、荒唐無稽な電話が何本もかかってきました。内容は大体共通していて、キリスト教がいかに堕落しているかというお説教、電話をかけてきた方の宗教にこそ救いがあるという分かりやすいお話し。もっとも、私は宗教学という分野に結構長く身を置いていますから、そのような郵便物や電話を受け取っても、こんな宗教的言説もあるのか、と逆に興味をそそられまし、宗教学の中でも宗教社会学の影響下にいますから、かかる宗教集団の言説よりも、そのような個人、集団がどのように社会の中で機能しているのか、ということの方に意識が向いて腹は立ちません。けれども、神の似姿に創造された者として、また、とことん人間を大切にされたイエス・キリストに出会った個人としては、喜怒哀楽に生きる生身の人格を無視した、宗教の一方的プロパガンダに深い悲しみを覚えるのは事実です。
さて、先ほど双方向的ベクトルをもつ媒体として手紙を挙げました。よっぽど文学的センスや人間理解のセンスを欠かない限り、手紙は一方的になることはめったにありません。なぜなら、書き手は読み手を想定、意識して手紙をしたため、読み手は書き手を認識して、書かれた内容に耳を傾けるからです。嬉しい内容もあれば、嬉しくない内容もあるでしょう。時には激しい議論を交わす手紙のやり取りもあるでしょう。けれども、そこには人格的交流があります。
先ほど司会者(新納憲二さん)に読んでいただいた聖書の言葉は、使徒パウロがフィリピのキリスト者たちに向けて書いた手紙でした。新約聖書にはパウロの手紙、またパウロが書いたと伝統的に想定される手紙が多数収録されているのですが、そのどれもが論争的でありながら人格的であり、読み手に熱い思いを寄せる心のこもった手紙です。論争的スタイルはユダヤ教ラビの物言いの伝統を踏襲してのことでもありましょうが、パウロ自身熱く、論争的な人でした。万人受けする人ではなかったとしても、人間味にあふれ、どこまでも愚直で、とことん自分と他者に正直な人でした。
本講演で大会事務局から与えられた私への宿題は、キリスト教の理解が、ヒューマニズムと変わらなくなり、教会が十字架を語らなくなっているのではないか、という今日的状況下において、「主にあって堅く立つ」とはどういうことなのか、を語ることです。パウロがフィリピのキリスト者たちを思い浮かべつつ、「わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たちよ」、とほとばしる愛情を込めながら書いたフィリピの信徒への手紙(特にフィリピ3:18の言葉)を手掛かりに、しばし共に考えてみましょう。構成は二つに分けました――宗教一般とキリスト教。両者ともキーワードは個人化・私事化です。
I. 溶けだした社会の中にあるキリスト教会へのチャレンジ
何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。(:18)
「パウロは十字架に敵対して歩く者が多い」と訴えています。パウロが何度も何度も胸を打ち叩きながら訴えてきたこの敵対者たちとはどのよう人々であったのでしょうか。新共同訳の19節によれば、「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えてい」ない人たちとありますが[1]、ギリシア語原文では、パウロは四つの断言で、十字架への敵対者たちを論じています。@「その終焉が滅び」である人たち、A「その腹を神とする」人たち、B「恥ずべきものを誇りとする」人たち。パウロは、このようなあり方をまとめて、C「この世のことだけを考えている」人たち[2]。英語に翻訳された聖書も大体同じですが(例えばNRSV[3])、明治時代に訳された日本ハリストス正教会(東方正教会)の「新約聖書[4]」はパウロの四つの断言を、逐語的に翻訳しました。「彼等の終は滅なり、彼等の~は腹なり、彼等の榮とする所は辱なり、彼等は地上の事を思ふ。」
正教会訳は特に美しい響きをもっています。ですが、「彼等の~は腹なり」だけは何となく浮いている感じがしていまいちピンときません。フィリピの読者は「腹」と聞いて、「人間の隠された奥深いところ」[5]というこの言葉の比喩的ニュアンスを、「己を神とする輩のことだ!」とパッと理解したはずですが、日本語では「腹」は「腹黒い」などにように、「感情」や「思い」を表しますから、少し勘を働かさなければならないかもしれないでしょう。ここは恐らくパウロが文学的センスを効かせて表現した修辞だと、私は思います。 「オン ド テロス アポーリア(滅び)、オン ノ セオス イ キリア(腹)…」 韻を踏んでいます[6]。意味するところは大体同じなのでしょう。
ところで、パウロが四つの表現で断言した十字架に敵対する者たちとは、具体的にどのような人たちだったのでしょうか。
フィリピ書三章の「目標を目指して」というパウロの文脈を考えれば、キリスト者を迫害するユダヤ教徒の過激派、とりわけユダヤ教の教師たちを念頭に置いているのは明白です。たとえば2節からの下り「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。」(3:2-3)。「十字架に敵対して」という表現自体が、平たく言い直しますと「十字架を憎んで」ですから、言わずもがなでしょう。パウロは律法の行いによって義とされるのではなく、キリストへの信頼の故に義とされる福音の真実を声高々に宣言したのでした(:9)。
ただ、ゲルハルト・フリードリヒ(ドイツ人新約聖書学者)のように、ここにグノーシス主義派キリスト者を想定するのも、適応としては有効かもしれません。彼の論に従えばこうなります。完全とか完成に達したとか言いながら日々の生活の歩みの中にその実が具体的に現れてこないとすれば、その完成は偽物であり、熱狂主義的グノーシス派の徒が自分について主張するように、聖霊にあって生きているというのであれば、その人は当然に聖霊にあって歩むはずである。ところが事実は、完全に達したという高慢な思いゆえに、いまさらキリストの死と等しい様に落ちぶれる気持ちはなく、主の復活の力も、主の受難を共に分かつ生き方にも関心はない。当然の帰結として、罪の問題もそれほど深刻には考えない。このような態度によって、他ならぬ罪からの救いのために十字架の死を遂げたキリストの、またその十字架の敵対者として正体を現すのである[7]。
私はここにグノーシス主義者を想定するのは当たっているとは思わないのですが、現代日本の宗教事情を考察するときに、ユダヤ主義の「行為義認」に加えて、グノーシス派の癖(宗教の達人主義)を考えるのは極めて有効だと思い、紹介しました。
ユダヤ主義には「神の恵みへの応答」という双方向的神との関係は存在しませんが、グノーシス主義も、「神の恵みの凌駕」という意味において、極めて一方的信仰の在りようを示しています。そこに神はいません。自らを神の高みに上げることができるからです。そこには死のリアリティもありません。「罪」を二元論的に肉体の事柄として解脱克服したと思い込んでいるからです。信仰者の共同体もありません。それぞれが宗教の達人であり、信じる者が共に支え合って生きる必要を感じないからです。その状況を一言で表現するならば、宗教の「個人化・私事化」と宗教共同体の「溶解」です。
私はグノーシス派のありようを現代日本の宗教的風潮に重ね合わせて見ています。「溶解した宗教」「溶解した社会」「溶解した人間存在」……双方向性を失い個人化・私事化した宗教!
もっとも、私は、日本の伝統宗教批判の道具としてグノーシス派を取り上げているのではありません。神道にしても、仏教にしても、新宗教(新興宗教)にしても、輪郭のはっきりした宗教は、縦の繋がりを中心とした横の繋がり――双方向的宗教世界、宗教共同体、地域社会を構築し、それなりに、己が身を神とするベクトルにブレーキをかけてきました。仮に、それがキリシタン対策として徳川幕府によって作られた檀家制度(寺請制度)や明治政府によって作り上げられた国家神道、或いは、特定の開祖・教祖とうカリスマによって始められた新宗教が構築した神話の賜物に過ぎない、という指摘があったとしてもです。
私がここで指摘したいのは、個別の宗教の是非云々ではありません。そうではなく、宗教の個人化・私事化という問題です。今日、伝統宗教は力を失いました。古参の新宗教ですら勢力を減退させています。日本の場合、都市化によって個人化が起こったわけですが、ある新興の仏教系宗教団体などは高度経済成長期に田舎から出てきた個人に新しいコミュニティを提供し爆発的に勢力を伸ばしました。けれども、今や個人化した諸個人が人の繋がりに重荷を感じ、その必要性を痛感しつつも、コミュニティを構築したり、コミュニティに参加することを敬遠しています。大学などでは、ランチメイト症候群、通称「便所飯」などという現象まで起こっているのです[8]。都市部と地方の違いはありますが、どちらも個人化のベクトルを強めているのは事実でしょう。新聞の訃報欄を読みながら、密葬が増えたのも個人化の現れ、などと短絡的なことを言うつもりはありませんが――事実、日本人の平均寿命が延び80代、90代の高齢で亡くなれば、葬儀への参列者は少なくなり、参列者も高齢者が主になりますから、一般的な形式の葬儀よりも近親者だけの密葬で、或いは、葬儀も省いて直葬で、となるのは自然なこと[9]――葬儀が地域社会や宗教の共同体性を確認するひとつの重要な装置として機能していたのは事実です[10]。今やその機会も激減してしまいました。それが何をもたらしたか……。死のリアリティの減退、死者と生者の繋がりの減退、はっきりとした輪郭を持つ宗教に触れる機会の減退です。生の個人化、死の個人化、カミの個人化と言い換えても良いでしょう。
私たちは「宗教」などと申しますと、あたかもそれが人間を超えたところにあるかのように錯覚しがちですが、宗教の担い手は人間です。その担い手が「相互性」を失った時、溶け出した時、或いは、斯かる宗教の内実を支えきれなくなった時、宗教は個人化・私事化、断片化します。それぞれがマイ宗教、マイゴッドを作り出すのです。それも無意識のうちに!
ここ10年くらいの流行りは、そのマイ宗教、マイゴッドに「スピリチュアリティ」というタイトルを被せて、宗教という意識を自らぼやかすことでした。「宗教」「宗教的」、或いは「霊」「霊的」などと言いますと訝しがられますが、「スピリチュアリティ」「スピリチュアル」と言い換えれば、すんなり聞いてくれる人は結構多いのです。特に中年から若年層を中心に。
これは私のイメージですが、「スピリチュアリティ」の世界は、さながらショッピングモールの陳列棚に置かれている、溶けて断片化した宗教のパーツパーツを、自分の好みに合わせて買い物かごに入れ、手のひらサイズの神を戴くマイ宗教を作るがごとくです。彼らに「宗教の再構築」などと言っても通じないでしょう。無意識でしていることですから。
冒頭でメディアとしての宗教を挙げましたが、実はこの作業を手伝っている、と言いますか、その作業をリードしているのは、マスメディア、とりわけテレビメディアではないかと思います。人生に迷う現代日本人に、スピリチュアルカウンセラーを名乗る者や占星術師の言説はとても受けました。まず、「慰め」という一種の社会貢献の要素がありました。また、伝統宗教が衰退したところに生じた宗教空間に現れながらも、「先祖崇拝」や「魂の永遠」と言った観念によって、伝統宗教の世界観との連続性を保ちつつ、伝統宗教を個人化・私事化し、伝統宗教を意図して意識させなかったからです。やや扇動的とも言える見ず知らずの他者、それもテレビメティアという一種の虚構空間に中に活躍している人物からのアプローチに対して、バラバラの個人が極めて脆弱である所以はここにあるのでしょう[11]。もちろん受け手たちは脆弱であるどころか静寂を得たと思っているわけですが……。
こんどはバラバラの個人が再構築されたそれぞれの宗教の担い手(エージェント)になっていきます。
このような社会に対してパウロは何と言うでしょうか。ユダヤ主義者にしても、グノーシス主義者にしても、彼らはある種、宗教の達人でしたが、今日のバラバラの個人は宗教の素人です。素人相手にパウロは何と言うでしょうか……。
「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていない。」(3:19)
それでもこう言うのでしょう。私は涙ながらに叫ぶパウロの声が胸に響きます。そして、伝道者としての務めに思いを馳せずにはおれないのです。「吉良賢一郎よ、お前は、溶け出した社会とどう向き合うのか。」
II. 溶けだしたキリスト教の中にあるキリスト教会へのチャレンジ
さて、次にキリスト教会の内部に目を転じてみましょう。
今日のキリスト教会の景色は、大変複雑です。古典的教派間の教理、教義の違いで教会が一致したり分裂したりもめたりする時代は過ぎ去りました。少なくともメインラインと呼ばれる伝統的教派にとっては過去の産物です。
米国の教会史家ヤロスラフ・ペリカンの名著『キリスト教の伝統:教理発展の歴史』(教文館:最終第五巻2008)[12]が約20年遅れで英語から日本語に翻訳されましたが、ペリカンが存命であったならば、この20年間をどのように描写したでしょうか。興味は尽きませんが、今日の状況は教理・教義(キリスト信仰の骨組み)の応用である「神学」(とりわけ「現代神学」)でしかカバーできないのではないか、と個人的には思います。しかも、その神学も今日では、キリスト教の枠をはみ出なければやっていけないような綱渡り的神学です。
具体例をいくつか挙げますと、例えば、@父なる神は父でないといけないのか、母なる神ではだめなのか――女性神学からの問いです。米国の合同キリスト教会(United Church of Christ)は先月行われた全国教団代議員総会で、正式に「父なる神」の「父」を教団公認の信仰告白から削除する決定をしました[13]。Aイエス・キリストの復活は、十字架を前提にしなければ成り立ち得ないものなのか。復活は歴史的出来事なのか、それとも神学的表現なのか――この問いは新しいものではありませんが、今日のメインライン教会の多くはそれを積極的、肯定的に乗り越えようとしています。「歴史的出来事」ではないとしても、イエスが死んだにも拘わらず、その後も自分たちを力強く感化し続けた「イエスと言う経験」を否定できなかった弟子たちによって復活信仰が生み出されたのだから復活信仰は普遍性を持つのではないか(例えば J. D.クロッサンのような論客)、という主張[14]。Bそもそもキリストでしか救われないのか――宗教多元主義からの問い。C同性愛は非聖書的なのか――今日欧米の多くの教派がこの問題で真っ二つに割れています[15]。他にもまだまだあり、具体例をすべて挙げますと、数日は要するでしょう。
今日私たちを取り巻く宗教的状況は、キリスト信仰においてもその相対化の速度を加速しています。そして、意外に思われるかもしれませんが、キリスト信仰の相対化が進めば進むほど、教会間の一致が損なわれるどころか、教会間の垣根は低くなり、教会一致が以前よりも容易くなっているのです。矛盾を感じなくもありませんが、事実、世界教会協議会(The World Council of Churches)に属する教会の多くは、以前にも増して互いの協力関係を深めました(東方正教会やオリエンタルオーソドックス諸教会はセクシュアリティの問題に関しては引いていますが)。いわゆる「キリストの教会」を生み出した「ストーン‐キャンベル復帰運動」(The Stone-Campbell Restoration Movement)から誕生した教会で、方向性はエキュメニカル運動ですが、この運動が掲げていた教会一致運動に一番貢献しているのはリベラル系のディサイプルズ教会(Christian Church [Disciples of Christ])です。また、ディサイプルズ教会と海外宣教(Global Ministries)で協力している米国合同キリスト教会は二年ほど前、教団ホームページに彼らのアイデンティティを色濃く表現したショートクリップを掲載しました。教会入り口で案内係が、教会に訪れた同性愛カップル、非白人を排除するヴァージョンと、礼拝堂の背後で係員が礼拝堂の椅子を跳ね上げるボタンを次々に押して、着席している同性愛カップル、非白人、ぐずる幼児を抱えるシングルマザー、ホームレス、肢体障碍者を、次々に教会から弾き飛ばすヴァージョン。いずれのヴィデオクリップも終りに、「神は誰も拒絶しません。イエスは誰も追い返したりはしません。私たちもです」との字幕を添え、「合同キリスト教会は、あなたが誰であろうと、人生の旅路のどこにいようと歓迎します」とアナウンスを流す作品[16]。教会内はもとより、教会外との間にも敷居はありませんよ、というメッセージを強烈な映像で発信したわけです。もっとも合同キリスト教会の内実、また多くのメインライン諸教会の内実は、「キリストにおいて一致」というよりは、「キリストを信じるヒューマンの全人的回復をスローガンに一致」、と言うのが事実でしょうが、「多からなる一」に貢献しているのは事実です。
この相対化のベクトルは他宗教に対する態度も寛容にさせ、相互理解を推し進めています。先の東日本大震災を受けて、米国聖公会のワシントン・ナショナル・カテドラル(The Washington National Cathedral; 正式名称The Cathedral Church of Saint Peter and Saint Paul)で行われた東日本大震災犠牲者追悼礼拝は、日本人僧侶の読経をもって開始されました。またワシントン・ナショナル・カテドラル主任司祭、サミュエル・ロイド(The Dean of the Cathedral, The Very Rev. Dr. Samuel T. Lloyd III)の名前で2011年3月16日付けで公表された「日本のための祈り」の終りは、「多くの名前を持ち、諸国民を愛するお方のお名前によってこれらすべてをお願い致します」(All this we ask in the name of the One who is the God of Many Names and the Lover of All Peoples)と結んでいます(下線は著者の付記)[17]。
感謝だ、善いことだ、それで良いではないか。それぞれの宗教にそれぞれの世界観とその世界観に基づく言説があるのだから、排他的にならずに、これからも仲良くやっていこう。そう言われればそれまでのお話しかもしれません。どだい人間には分からないことなのですから、神様に全てをお任せしていれば良いではないか。それもまことにその通りです。確かに、キリスト教と他宗教の相対化はダイナミック且つエネルギッシュで、個人的には感動を覚えなくもありません。
「個人化・私事化」という文脈では、このような考え方も或いは有りなのでしょう。けれども同時に、この説明だけでは、物足りなさも覚えるのです。「相対化しっぱなし」の教会が「持続可能な信仰者コミュニティ」を生み出し得るのか否か。キリストの十字架と復活を語らずに、肉の限界を抱えた、肉の悲しさを抱えるヒューマンの存在回復のキリストの福音を持続的に語り得るのか否か。生まれた時から死ぬる運命にある生身の罪びとの魂を、一過的にではなく持続的に、慰め得るのか否か。そして、ヒューマンを徹底的に大切にする故ではあっても、ヒューマニズム一辺倒の福音理解が、人だけではなく、神との双方向的関係を生み出し得るのか否か。次の世代にまで続く持続的キリストの体を、持続的キリスト者共同体を構築し得るのか否か。
パウロによるエフェソの信徒への手紙より二か所抜粋してお読み致します。
キリストは二つのもの[著者注:二つのものとはこの場合『ユダヤ人』と『異邦人』(非ユダヤ人)]を一つにし…双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し…平和の福音を告げ知らせられました。…あなたがたは…聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。(2:14-22抜粋)
神から招かれたのですから…一切高ぶることなく、寛容の心を持ち…愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。…主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。…キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。(4:1-16抜粋)
使徒パウロの考えるキリスト者共同体の姿です。使徒の言うキリスト者共同体と今日のヒューマニズム一辺倒のキリスト者共同体の間に大きなギャップを感ぜずにはおれません。
私はヒューマニズム完全無視のキリスト教原理主義者(ファンダメンタリスト)の如きあり方は好みません。私もとことんヒューマニズムを大切にしたく思います。リベラルと言われる教会がそうであるように、時代の要請に対しては私も積極的に応答し、激しく格闘したく思います。たとい、それが己の立ち位置を変容させるかもしれない、というリスクを伴うものであったとしてもです。
けれども、結果として、「主にあって包括的」「主にあって寛容」であることは熱く語れても、「主にあって堅く立つ」という主張のトーンが著しくダウンしてしまっては、イエスと言う出来事を無に帰してしまうことになるのではないか、「主」が何であるか、「主」がどなたであるかというキリスト信仰の根底が相対化の荒波の中でぼやけてしまうのであれば、当然、イエス・キリストに堅く立つことも語りにくくなるのではないか、と強く思います。空中を相手に拳闘はしにくいのです。
ヒューマニズムの福音は、イコール、キリストの福音にはなり得ないでしょう。そして、ヒューマニズムの福音は、ヒューマンの教会を立上げることはできても、世紀を貫く「聖なる公同の教会」、「聖徒の交わり」、(教派としてのキリストの教会でなく)「キリストの教会」を建て上げることはできないのではないか、と疑問を呈したく思います。
イエスが実践されたヒューマニズムは私たちのヒューマニズムと根本的に次元が違っていました。主イエスのヒューマニズムは人間存在の回復のみならず、人間存在に変革をもたらす、罪の赦しと霊による新生の宣言だったのです。
結びに代えて
十字架に向かって歩く時、どの立場に立つとしても何らかの闘いが生じます。問題点を浮き彫りにして論評するのは較的簡単な作業ですが、実際その中を生きるのは、決して生易しいことではありません。例えば、先の震災を論評し、神に落胆するのは簡単です。けれども、あの現実の中を生きることを余儀なくされている人々は、落胆する暇もなく戦い続けているのです。
最後に3:17の言葉に耳を傾け、短くコメントしてこの講演を閉じましょう。
兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。(:17)
パウロは大胆なことを言ったものです。控えめに捉えても、パウロにはある種の独善的傾向がありました。コミュニケーション能力を問えば、筆は立っても、オーラルコミュニケーションは双方的と言うよりは一方的であったきらいもあります。バランスが取れていた人とは言えないでしょう。
けれども、パウロの言葉には力がありました。キリストの霊に満たされていたからです。主にとらえられた、という信仰の確信があったからです。それ故に、パウロは自分の欠点を知りながらも、「自分に倣う者になれ」とフィリピの手紙に記したのです。彼は「皆一緒に」と言いました。「一緒に」はパウロと一緒にという意味です。また続けて、こうも言いました。「あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。」 「模範」(ティピコス)という言葉は「型」という意味があります。その歩みの「型」は……完成の型ではなかった!
17節の前でパウロはこのように語りました。
わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(:12-14)
パウロは「途上という型」のあり方で共に歩み、共通の目標に向かってお互いの羅針盤を合わせようではないか、と言います。一方的な思い込みの「型」、個人化・私事化の「型」ではなく、双方向的「型」、共同体的「型」で、と。未完成のままキリストを捉えるという完成の世界に共に身を置き、その中でキリストを共に識り、その受難と、そしてその復活を共に捉えて、自分たちの地上の生活を歩み通そうではないか、と[18]。これこそ個人化・私事化ならぬ共同体的信仰の型の内実に他なりません。これこそがパウロが熱く語った「十字架に向かって歩く」型、「主に在って堅く立つ」型なのです。
[1] 新共同訳聖書の訳文は翻訳者の文学的配慮もあってスムーズだが、ギリシア語原文はもっと荒削り。
[2] 「だけ」は新共同訳、フランシスコ会訳、「のみ」は文語訳の解釈で原文にはない。
[3] “Their end is destruction; their god is the belly; and their glory is in their shame; their minds are set on earthly things.”
[4] 明治34年にロシア人宣教師、ニコライ・カサートキンと正教会信者であった漢学者、中井木菟麻呂(なかい・つぐまろ)により全訳された新約聖書『我等の主イイスス・ハリストスの新約』。教会スラブ語聖書を底本に、ギリシア語聖書、欽定訳、漢訳なども参照しつつ翻訳された漢文訓読調のもので、日本ハリストス正教会では今日でも奉神礼(礼拝)においてこの翻訳のみが使用される。ちなみに、筆者手持ちものは1985年印刷の版。
[5] 織田昭編著『新約聖書ギリシア語小事典』(教文館:2000)、≪koiliva≫ の項参照。
[6] 田川建三は「どういう意味で彼らの神が腹であるのか、学者たちは憶測でいろいろな議論をしているが、こんな下手くそな表現をめぐって議論するのは学問的無駄」と手厳しい(田川建三訳著『新約聖書 訳・注4』[作品社:2009]、419)。
[7] ゲルハルト・フリードリヒ(Gerhard Friedrich)(杉山好訳)「ピリピ人への手紙」(原題:Der Brief an die Philipper)in『NTD新約聖書註解8パウロ小書簡』(NTD新約聖書註解刊行会:1979)、310。
[8] ランチメイト症候群という名称は、精神科医の町沢静夫によって名付けられた精神症状の一つ。学校や職場で一緒に食事をする相手(ランチメイト)がいないことに一種の恐怖を覚えるというもの(町沢静夫『学校、生徒、教師のための心の健康ひろば』[駿河台出版社:2002]、34)。主な症状は、一人で食事することへの恐れと一人で食事をする自分には価値がないのではないかという不安である。一人で食事をするということは、自分に友人がいなく、友人がいないのは自分に魅力がないからだ。魅力がなければ存在価値はない、とランチメイト症候群の当事者は考えがちである。更に、断られることを恐れているので自分から誰かを食事に誘うこともできない。ランチメイト(食事相手)を確保できない者は、一人で食事をする姿を学友や同僚に見られないように図書館などで隠れて食べることがある。中には食事の様子を見られそうになってトイレに隠れたり、ひどい場合は仕事を辞めたり就職を諦めたり学校へ行けなくなる。ちなみに、「便所飯」とは、一緒に食事をする相手がおらず一人で食事を取るところを他人に見られたくないという理由から、特にトイレの個室を食事の場所に選ぶことを指すインターネットスラング。人目を避けて食事する場所として他ならぬトイレを選ぶ理由としては、人目につかない場所が他にない、トイレの個室は誰にも邪魔されず監視もなく自分を守ってくれる空間であり居心地が良い、といった理由があるという。詳細は以下参照(2011年7月6日閲覧): http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%88%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4#cite_note-hiroba_p34-0)。
[9] 島田裕己『人は一人で死ぬ』(NHK出版:2011)、18。
[10] 島田裕己『同掲書』3章を特に参照。
[11] 小池靖「テレビメディアで語られるスピリチュアリティ――日本とアメリカの事例から」in石井研士編著『バラエティ化する宗教』(青弓社:2011)、36,46参照。
[12] 全5巻。原題:Pelikan, Jaroslav. The Christian Tradition: A History of the Development of Doctrine: Christian Doctrine and Modern Culture, Five volumes (Chicago: University of Chicago Press, the vol. five completed in 1991).
[13] 2011年7月4日、フロリダ州タンパで開催された「合同キリスト教会」(以下UCCと表記)全国代議員総会において、「天の父なる三位一体の神を信ず」(believing in the triune God as heavenly Father)の文言から「父なる神」(as heavenly Father)の部分を教団の教憲教規より削除した。代議員の投票結果は613対161と圧倒的多数で可決。この言語表現変更措置の目的は、「神が男性であることに同意する責任とプレッシャー」から、ジェンダー的文言に敏感なUCCメンバーを解放するため。
UCC教憲教規の変更は以下のサイトに掲載された “A Clarification on Amendments to the Proposed Revisions to the Constitution and Bylaws as Adopted by the Executive Council of the General Synod Adopted March 18, 2011” の3ページ “ARTICLE V. LOCAL CHURCHES” の項目で確認できます。文言が赤線で削除されていて、生々しいものがあります。 http://www.ucc.org/synod/pdfs/proposedconstitution.pdf
[14] Stewart, Robert B. ed., The Resurrection of Jesus: John Dominic Crossan and N.T. Wright in Dialogue (Minneapolis: Fortress Press, 2006). 特にイントロダクションと第一章参照。本書は新約聖書学界をリードする米国の新約聖書学者、ジョン・ドミニック・クロッサンとイングランドの新約聖書学者、N.T.ライトの「イエスの復活物語」をめぐる討論集。
[15] 私が米国の聖公会(米国監督派教会:The Episcopal Church in the United States of America)に属していた時、イリノイ州スプリングフィールド教区のカテドラル教会(主教座教会)に教区主教ピーター・ベックウェスさん(The Most Rev. Peter Beckweth, The bishop of the Springfield diocese)を訪ねた折、「君は神学も修めているし、オーソドックス(正統派)だから、米国聖公会の司祭にならないか」と熱心に勧められました。彼の言う「オーソドックス」とはこの場合、正統派でありホモセクシュアルではないという意味です。ベックウェス主教は「僕は神学校で神学よりも寧ろ宗教学を修めたが、もっとしっかり聖書と神学を学ぶべきであったと後悔している」と語られました。ベックウェス主教は米国聖公会でも、同性のパートナーと公然に同棲関係にある主教(openly gay bishop)の聖別(consecration)には、反聖書的であり教会伝統へのモラル的挑戦として、徹底的に反対するある立場に立っておられました。当時、その当事者であるニューハンプシャー教区の被選主教(bishop-elect)、ジーン・ロビンソン氏(Gene Robinson)の主教聖別をめぐり、米国聖公会は二分していたのです。結果は、2003年に開催された米国聖公会全米教団総会代議員によるロビンソンの主教聖別議案で賛成派が有効投票の過半数を獲得し、ロビンソンの主教聖別承認をもって総会は幕を閉じましたが、モラルにおける保守派が大量に米国聖公会を離脱する契機となり、大きな禍根を残しました。その後モラルにおける保守系は、カナダ聖公会(The Anglican Church of Canada)の保守派と合同し、2009年にAnglican Church in North Americaを結成し現在に至っています。ちなみに、ベックウェス主教は、「多様性における一致」「中道」(Via Media)を旨とするアングリカニズムの神学と哲学から、昨年の引退まで、米国聖公会に主教として留まり続けました。
米国聖公会は、2010年5月にも、公然同性愛者女性司祭、メアリ・グラスプール(Mary Glasspool)をロサンゼルス教区第56代補佐主教(bishop suffragan)として聖別し、ユニティとハーモニーを重んじるアングリカン・コミュニオンの霊的指導者、第104代カンタベリー大主教、ローワン・ウイリアムズ(The Most Rev. Dr. Rowan Williams, The Archbishop of Canterbury)を始め、いわゆるグローバル・サウスの保守的アングリカン諸教会を怒らせました。ウイリアムズ大主教は具体的に、2010年5月28日付で公表した「カンタベリー大主教のペンテコステレター」(The Archbishop of Canterbury’s Pentecost Letter)の中で、他のアングリカン・コミュニオンを無視した米国聖公会の行動を激しく非難する声明を出しましたが、米国聖公会第26代総裁主教、キャサリン・ジェファーツ・ショーリ(The Most Rev. Dr. Katharine Jefferts Schori, The Presiding Bishop of the Episcopal Church of the United States of America)はその声明を受けて、5日後の6月2日付で公表した「ペンテスコテ牧会レター」の中で、「カンタベリー大主教の主張は、帝国主義的で、時代錯誤の旧植民地主義だ」と猛烈に反発しました。両者の手紙の全文は下記のサイトで読むことができます。
カンタベリー大主教の手紙: http://www.archbishopofcanterbury.org/articles.php/749/archbishop-of-canterburys-pentecost-letter-to-the-anglican-communion
米国聖公会総裁主教の手紙: http://www.episcopalchurch.org/79425_122615_ENG_HTM.htm
[16] http://www.youtube.com/watch?v=KRcv9u9x3z8>
http://www.youtube.com/watch?v=hx1u1v7hAtY >
[17] イングランド国教会のウエストミンスター・アビー(Westminster Abbey; 正式名称The Collegiate Church of St Peter at Westminster)で行われた東日本大震災犠牲者追悼礼拝でも禅宗の僧侶が読経しました。追悼礼拝のアナンスと礼拝次第はそれぞれ以下のサイトで読むことができます。
http://www.westminster-abbey.org/press/news/news/2011/june/memorial-service-held-for-great-east-japan-earthquake http://d28x33bn4x2mjg.cloudfront.net/assets/pdf_file/0015/50118/Japan-Earthquake-Memorial-Service.pdf
ワシントン・ナショナル・カテドラルの日本のための祈り文言、追悼礼拝リーフレット、追悼礼拝映像はそれぞれ以下のサイトで確認できます。 http://www.nationalcathedral.org/pdfs/JapanPrayer.pdf
http://www.nationalcathedral.org/pdfs/Japan20110411.pdf
http://www.nationalcathedral.org/exec/cathedral/mediaPlayer?MediaID=MED-54QUO-5B000K&EventID=CAL-54JA4-KF001B
[18] ゲルハルト・フリードリヒ『同掲書』、309。 |