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2010/7/11  「現代の病」 イザヤ書 46:3-4; ルカによる福音書 6:25-34

警察庁がまとめた統計(暫定値)によると、4月は2493人で、昨年4月と比べ18.7%の大幅減少になった。1から4月の累計は1万309人で、前年同期より9.0%減。

何のことだと思われますか。5月10日の産経新聞で報道された自殺者・自死者数です。

記事はこのように続きます。「政府は例年自殺者が最も増える3月を対策強化月間とし、鬱の兆候の早期自覚を呼び掛けるキャンペーンを実施。同月末には年代や職業別の自殺の傾向が市町村単位で分かるデータを公開し、自治体に実態に応じた対策を取るよう促している。こうした取り組みが一定の効果を上げている可能性がある。暫定集計では、4月の自殺者は男性が1756人、女性が737人。都道府県別では、神奈川県(前年同月比72人減)などで大きく減り、増えたのは茨城県など8県だけだった。」

けれども5月13日の新聞では、「平成21年の自殺者数は、前年よりも596人(1.8%)増えて3万2845人と、昭和53年の統計開始以降5番目に多かったことが13日、警察庁のまとめ(確定値)で分かった」と報じています。現状は依然として同じです。

原因・動機は千差万別でしょうが、「失業や生活苦が急増する一方、「うつ病」が動機判明者の約3割に上った」ようです。「警察庁では『一昨年秋のリーマン・ショック以降、失業者が増加したことが背景のひとつとみられる』としている。」

「性別では男性が2万3472人(71.5%)、女性が9373人(28.5%)。年代別では50歳代が6491人で全体の19.8%を占めて最多。以下、60歳代(5958人、18.1%)▽40歳代(5261人、16.0%)▽30歳代(4794人、14.6%)▽70歳代(3671人、11.2%)▽20歳代(3470人、10.6%)▽80歳以上(2405人、7.3%)。」 10万人あたりの自殺者数を示す「自殺率」は、20歳代で24.1、30歳代で26.2と、統計開始後最高を記録した。職業別では、主婦や失業者、年金生活者などを含む「無職者」が全体の57.0%を占める1万8722人。細目では「年金・雇用保険等生活者」が18.4%に上り、際だっている。」

参議院選挙の中心の争点にもなってもおかしくないこの深刻な問題に、選挙当日にも拘わらず、新聞記事を読んでも現実味を感じられないでいる自分を発見し、昨晩大きなショックを受けました。ため込んでいたこの五月の新聞を読んだのは昨日の夜だったのです。

この根本問題は何なのでしょうか…。単純化しすぎであることは百も承知ですが、究極的原因は、現代社会が抱える「孤独」という病、であると私は考えています。第二次大戦後に起こった日本社会の構造変化がもたらした「孤独」です。

第二次世界大戦後の日本社会構造は大きく変化しました。産業が復興し、都市化が進み、社会が世俗化し、伝統的村社会・家社会が崩壊が起こりました。そのことによって家族は核家族化し、個人の個性(パーソナリティ)無視の個人主義が台頭しだしたのです。個人主義の素晴らしい点は多くあります。けれども負の遺産は、孤独の増幅でしょう。その背後に横たわっている個人主義がもたらした少子高齢化による世代間の断絶でしょう。このような社会にあって、孤独は増幅するばかりです。「孤独死」の問題はその一つの帰結であると言っても過言ではありません。めじろ台の町にもこの問題があります。

「で、君は? この問題にどう対処、行動する?」 このように問われると苦しいのですが……普段から、宗教、宗教的なものに関心を持って社会を眺めている者として言葉上で表現できることは、どうも家族社会の崩壊は宗教共同体の崩壊に起因、或いはそれと連結している、と言うことです。日本の「見えざる宗教」の崩壊です。

かつて私たちが持っていた神仏に対する自覚的意識があり、先祖祭祀信仰に基づいた縦の線を軸とする横のつながりです。共同体はその縦軸を基に横に広がる社会でした。明治期に人為的に作られた天皇制に基づく日本国家神道がスタートするはるか以前から連綿と存在し続けてきた、宗教共同体です。

私たちはこのような社会の変化をどのように評価したらよいのでしょうか。一見宗教的地域共同体の崩壊は閉塞的社会にある種の解放をもたらしたかもしれません。その恩恵にあずかっているクリスチャンも多いでしょう。けれども、負の部分も私たちは知っています。すべてが溶けてしまった社会です。残った各個体は姿形を変えて宗教的な匂いを消しながらも根のない宗教的なものとして社会の中を漂っています。映画の中に、テレビドラマの中に、マンガのなかに、とりわけスピリチュアルブームの中に、私はその破片を見出します。拝金主義もその一つでしょう。人々はそれ――自分の気に入った宗教的な破片――を、スパーマーケットで買い物をするがごとく、商品の陳列棚から己の買い物かごに放り込むのです。

個人主義には良い点がたくさんあるのですが、中心を失くした個人主義は、個で社会とかかわり、個で宗教と関わり、個で神と拘わらなければなりません。それができない時でもそうしなければならないのです。何とも辛い宗教生活だ、と私は思います。教会もお寺もヴァーチャルな時代になりました。

くどいようですが、個の誕生は素晴らしいのです。ただし、そのように生きられない人々はどうなるのか…。中心を失くしては生きられない人はどうなるのか…。かかる人は根無し草としてさまようしかありません。社会にはそのような「個々人」が属すことができる共同体がなくなってしまったからです。皆が皆、個だけで、或いは個人主義で生きていけるわけではないのである。

ここで再び私は自問しなければなりません。私はこのめじろ台キリストの教会を「コミュニティー力」(共同体としての結束と体力)を持つものとして地域に紹介できているか…。残念ながら、答えは何とも頼りのないものでしかありません。これからの課題です。

私は毎年の年賀レターに「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」(箴言17:1節)という箴言の言葉を自信を持って宣言しているのですが、社会に対しても心からそれを宣言したいと切に願います。

さて、繰り返しになりますが、私たちは何かが足りないのかはよくわかっています。そして、何を回復しなければならないのかもよくわかっています。けれども選挙を観ても、報道各社の論評を聴いても、キリスト教系のメディアを読んでも、イデオロギー的で組合的理想像は示せても真の社会共同体の具体案は示されていません。出来ないのでしょう。孤独化解消へのメッセージがないからです。人間の宗教性の大事を説き、宗教心の涵養を強調するコラムもありますが、現実的な国家像、家族のあり方、溶解した宗教的諸要素への言及がまことに曖昧です。家族と社会共同体と国家を支える宗教的バックボーンとその具体的な基礎をまったく提示できていません。

そんな時今一度預言者の言葉を思い起こすのです。

『わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。』(イザヤ46:3-4)

人は、社会の波を、歴史の流れを止められない、という失望感、絶望感に駆られているかもしれない。問題を挙げればいくらでも挙げられますから。人が人の心を放棄する……現代はそのような時代です。問題のない時代など存在したことはない、とローマ・カトリック作家の曽野綾子さんは新聞のコラムでコメントしたことがありますが、どうでしょう。たしかにそうなのですが、現代社会が抱える問題と過去が抱えていた問題の決定的違いは、問題解決への処方箋を(誰も)示すことができない、ということではないか、と思うのです。時代は遡りますが、預言者の眼差しを持っていたニーチェはそれを「神の死」と言う言葉で表現し、キルケゴールは「死に至る病」即ち「絶望」と言いました。我が国のトップは何と言うでしょうか。それぞれの時代を担った(1年間だけですか…)近年のリーダーたちもいろいろと創意工夫はしたのでしょうが、どれもこれも浮世離れした言葉ばかりでした。石原慎太郎さんは「文学センスゼロ」と喝破します。文学者にいわれては身も蓋もありませんが。

翻って聖書の使信に耳を傾けますと、そこから、神は歴史の初めから、歴史を通じて、世代を超えて、人を背負ってきた、という力強い宣言が響いてきます。そして今この時も私たちを背負って下さり、これからも背負い続けて下さる、という福音が迫ってきます。イザヤ書の言葉は直接的にはイスラエル人を指して語っているのですが、イエスの十字架に光を当てて読むならば、それは人類へのメッセージであり、今を生きる日本人への救済、励ましメッセージでもあるのです。

さて、今日の参議院選挙の結果で何が起こるでしょうか。それを待つ前に、微力ながら、神の国を証し、実践したく思います。