本日は聖霊降臨後第14主日の明けた、降臨節前主日(待降節前主日=アドヴェントの一週前)です。西方の教会暦では、一年の締めくくりの主日、となります。
そういった意味では、この日を「収穫祭感謝礼拝」と命名した、私たち「めじろ台教会」は、なかなか的を得た集団です。自画自賛ですね…。けれども、アメリカの感謝祭とは一味違った、このような伝統を持つめじろ台教会に、メンバーの一人として誇りを持つのです。
さて、みなさん、一年間を振り返り、さまざまなことを思い返すでしょう。光陰矢のごとしとは申しましても、やはり365日の積み重ねである、一年は重いものです。さまざまなことがあり、さまざまなことを経験されたと思います。
私もその例にもれず、さまざまなことを経験しました。その中のいくつかは私の人生観を変えるような重要な出来事でした。「言」では言い尽くせぬ「事」です。その一つは、家族が増えた(与えられた)ことであるのは言うまでもありません。
けれども、教会暦の一年のサイクルの終わりに改めて思わされることは、その初めです。去年のアドヴェントの第一週目に、私たちはこれから何が起こるのか分からない、というスタートラインに立たされました。けだし、私たちは今を生きています。それが「永遠の『今』」であったとしても、「この時」なのです。私たちは去年のアドヴェント第一主日に何を思ったでしょうか。何を主に願ったでしょうか。私の場合は、振り返りますと、結局「let it be」(なるがままに)であったと思います。自分の思いや願いがあっても、土から造られた者としては、神様の御旨にお委ねするしかないからです(自己努力の放棄ではありません)。
ちなみに、わざわざ「なるがままに」をlet it beと英語で言いましたのは、ビートルズの名曲「let it be」を思い出して頂きたかったからです。(歌う)
私がこの曲を初めて主体的に聞いたのは確かと高校生の時であったと記憶しています。柔道の練習に忙しかった私は歌詞の意味などは深く考えませんでした。けれども、19世紀末に大英帝国の第二の貿易基地として栄え、労働力として大量のアイルラン人が移入した町、しかもドイツ軍の攻撃により第二次大戦後急速に衰退し、スラム化した「リバプール」の町で生まれ育ったポール・マッカートニーが作詞作曲した歌であることを勘案してこの歌を改めて聴きますと、let it be という言葉に込められた意味の深遠さを思わずにはおれません。When I find myself in times of troubleMother Marry comes to me, speaking words with wisdom. Let it be…
ちなみに、ドイツの神学者ルドルフ・ブルトマンの元で学んだ神学者、川端純四郎氏は、中学三年生の時初めてこの曲に触れ、歌詞の内容に戸惑った、と回顧しています。私とは違い、ちゃんと英語を読んで、歌詞と格闘されたのです。けれども、川端氏が当時の英語力で訳した訳文は微笑ましいものでした。
「僕が悩んでいる時に、お母さんのメアリーがやってきて、賢い言葉を話しかけてくれた。なすがままに。」
曰く「let it be は当時の私にとって非常に魅力的な曲であったけれど、同時に不可解で異質な曲でもあったのだ。」 実は、英語力の問題ではなく、キリスト教のキの字も知らぬ時にこの曲に触れたことがこの翻訳の原因です。 Mother Merry は当然「お母さんのメアリー」ではなく、聖母マリア(イエスの母)です。リバプールは北アイルランドにも近く、カトリック色が濃かった町ですから、ポール・マッカートニーには聖母マリアという存在は、特別な者として信じる信じないは別にして、身近な存在だったのでしょう。
そのようなマリアが「let it be」(なすがままに)と言った。本日の聖書箇所ルカ伝で、天使より受胎告知を受けたマリアはまさに、そのように告白しました。「ギニート ミ カタ ト リーマ スー」。直訳調で訳しますと、「その言葉(発せられた言葉)に従って、私にその事が生じますように。」です。新共同訳では「お言葉どおり、この身に成りますように。」
おそらく、このときのマリアは中学生か高校生くらいの少女であったと思われます。そんな名も知れぬ少女が、このようなあり得ない神からの託宣を聴き、let it beと応答した。このマリアの信仰(神に対する信頼)を称賛し、聖母マリアと担ぐのは簡単です。レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」の絵を見て、感動するのは容易なことです。なぜなら、私たちはこの先のストーリーを知っているからです。けれども、心を落ち着け、去年の今頃の私たちが、この先の一年間、何が起こるのか知らなったことを思い起こします時、マリアの神に対する姿勢の行間から「清水寺に吹き上げる風」のにおいがしてきますでしょう。「清水寺」のにおいは、私たち生身の人間の冷や汗のにおいです。投げやりではない、けれども不可解な神的出来事にその身を預け、少女マリアは冷や汗をかきながら、「let it be、お言葉とおりに成りますように」とつぶやいたのです。すべてはこの一言から始まりました。
私たちのこの一年間も、マリアのように始まったのです。からし種ほどのつぶやき、から。今、教会暦最後の主日に私たちはその種の実を収穫しています。感謝を持ってでしょうか。そうである!と告白したいものです。なぜなら、今私たちはこの場で息をし、生かされてこの場にいることを識っているからです。どんなに大変な事があった一年間であったとしても…。
アーメン
※川端純四郎氏の経験は「クリスマス音楽ガイド」(キリスト新聞社、2007、16頁)から引用しました。
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