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2010/10/17 「新しさの足跡と新しさの前触れ」 ――教会創立40周年を間近に控えて
―― 哀歌3:22-24

:22 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。:23 それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。:24 主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。

めじろ台キリストの教会が建立されてからまもなく40年になります。私がめじろ台キリストの教会に就任してからもほぼ5年が経過しました。5年間での変化はそれほどではありませんが、さすがに40年(シムズホールは25年)の年月を経ますと、教会も部分的手入れの必要を増していきます。一昨年は、教会堂及び牧師館の屋根を塗り替え、私たちの祈りの宮をより長く使用するためのメンテナンスを施しました。

さらに、これから為そうとしている事業を考えますと、哀歌の歌人が置かれている状況とは似ても似つかないでしょう。仮に建築をプラスのベクトルとしますならば、彼が置かれていた状況は破壊というマイナスのベクトルです。しかも、これでもか、というくらい全てが破壊された神の都エルサレム、しかも神がその名を置かれると宣言されたエルサレム神殿が粉々に砕かれてしまった。これが何を意味したか――めじろ台教会が瓦礫と化した、とは同義ではありません。神が離れ去った、恵みが離れ去った、神のシャロームを神自らが取りさってしまった、そして究極は「イスラエルの神の敗北」です。当時の世界観では、民族同士の戦いはその氏神とでも言うべき、民族神対体民族神の戦いでした。もちろん、聖書の神はイスラエル民族だけの氏神ではありません。世界の創造者であり、我々の命の源泉であり、復活の希望であるイエス・キリストの父です。けれそも、当時の他の民族は、イスラエルの神の敗北と見て、イスラエルの民と聖書の神を嘲ったのでした。

本来であれば、この出来事は哀歌の歌人には解せぬ出来事であったに違いありません。ほんの十数年前に、申命記を元にしたヨシア王による徹底的宗教改革が断行されました。あらゆる異郷の礼拝所は叩き壊されたのです。その息子が神の道からそれてしまいましたが、長い歴史のスパンで見ればほんの一瞬です。短い歴史のスパンで見てもたいした時間ではありません。歴史学者が当時の地政学と隣国とのパワーバランスを解説したところで、哀歌の歌人の疑問が溶解するはずもありませんでした。全て疑問、謎です。それにもかかわらず、その疑問は懐疑に転ずることはありませんでした。

:22 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。:23 それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。

哀歌の歌人がもし、後代のエズラ、ネヘミヤのイスラエル神殿復興を目撃していたのであれば、あの美しい歌は合点がいきます。「いろいろとあったけれど、雨降って地固まるだ」と苦難を消化できたかもしれません。しかしながらそうではなかった! 私たちめじろ台キリストの教会のように、これから行われる40周年記念事業を期待し、喜ぶことなどできなったにもかかわらず、新しいものなどは何一つ期待できなかったにもかかわらず、彼は「新しさ」を歌うのです。

今年は新たなメンテナンスを兼ねて、めじろ台キリストの教会40周年記念事業として施します――(1)より効果的な可視的アピールを目的とした教会外の掲示板新設、(2)手狭になった駐車場拡張(教会中庭にも駐車できるように工事)、(3)教会入口階段への手すり設置、(4)老朽化して不可動状態になっている牧師館庭入口柵の取替え、(5)老朽化した下駄箱の取替え、(6)靴履き替え時の負担軽減を目的とした座椅子の設置、(7)礼拝堂床暖房設置(電気式)、(8)経年劣化によるくすみの激しい会堂正面壁の張替え、(9)主に礼拝時の視覚補助を目的としたプロジェクターとスクリーンの設置、(10)経年による利便性欠損と劣化した教会キッチン取替え、(11)事故防止を目的とした給湯器の外壁設置(バランス罐)、(12)災報知器の設置、(13)シムズホールの不稼動暖房機の取替え(ガスFF式)、(14)教会事務室への暖房機設置、(15)その他電気系統不具合の修理と牧師館壁にはめ込まれている40年来の故障冷房機撤去及びそれに伴う壁の修繕。

事業計画の内容を見ますとき、40周年記念事業とはいえ随分と大胆な決断をしたものだ、と改めて思わされます。哀歌の歌人どころか、エズラ、ネヘミヤですら、驚いてひっくり返ったかもしれません。哀歌の歌人は名実ともに今私たちの手の中にある、萌え出でる新しさを羨むでしょうか。

たしかに、私たちの心は復活の希望で萌えています。主の行われる業に期待し、まだ見ぬものをいまここにあるものとして見せていただいて、希望に満ち溢れています。ヘブライ書の言葉は私たちの心に息づいているのです。けれども、哀歌の歌人は決してねたみの言葉やうらやみのまなざしを向けることはないでしょう。なぜなら、彼こそヘブライ書の希望の約束をキリスト以前に、廃墟と化したエルサレム神殿で確信し、主が与えてくださる新しさを識っていたからです。かつて主がアブラハムに為された約束をなお信じ、その神のお約束に希望を置いていたからです。であるからこそ、彼は「新しさ」という希望を、信仰告白として、歌い上げることができたのでした。

このように見ますと、やはり哀歌の歌人は聖書の中にその歌を残すだけのことはあります。気が付けば、私たちの方こそ、哀歌の歌人が歌う希望の歌に励まされ、主が与えてくださる新しさに目を向けされているではありませんか。

私たちも「日々『新しさ』を経験している」と哀歌の歌人とともに告白したく思います。そして、私たちの40周年事業を、主から与えられる新しさとして、きちっと心に刻み付けたく思うのです。その時、私たちの決断はまさに新しい神的物語として運動昇華する、と私は信じているからです。

しかし、正直な告白をするならば、私自身は40周年の記念事業にある問いを心の中で投げかけてきました。私たちの40周年記念事業は、「新しい経験」ならぬ「『新しさ』の物語」として数えることができるのか否か。教会の可視的新しさは、即「霊的新しさ」と成るのか否か、と……。皆さんも考えられたでしょう。どうでしょうか。

結論から申し上げます。私自身は「然り」です。実は、私たちのこの事業を可能ならしめたのは、私たちの教友、故茨木延姉が遺言状に託してお捧げ下さった尊い献金でした。茨木姉が天に召された時に残して下さった「新しさ」です。私たちは茨木姉の祈りに合わせて、主に祈り求めつつ智慧を出し合ったのでした。

思い起こしましょう。この世のものはたとえそれが荘厳壮麗な教会堂であれ、いずれは朽ち果てます。イスラエル神殿のように。エズラ、ネヘミヤによって再建された、ヘロデ大王によって改築されたエルサレム神殿は、再び瓦礫と化しました。紀元70年です。その後は、今に至るまで「嘆きの壁」しかありません。

けれどもユダヤ教がなくなったか。そうではありません。宗教の違いこそあれ、彼らにも哀歌の歌人の新しさが生きています。キリスト教会もまた、何度も何度も破壊を経験してきましたが、主が約束してくださった復活の希望に堅くたっています。その破壊の多くは仲間うちで起こり、互いが互いに加害者、被害者になりながら。

教会史の教科書を紐解くまでもありません。信仰者が残した聖霊の足跡はいつまでも残り、その見えざる力は、「主にある新しさ」を「世紀を貫く信仰の記憶」して、後の世にも刻み続けるのです。私たちを日々新たな存在として生かす「命の根源」(イエス・キリストの命)は、全てを生み出し、新しさから古さにではなく、新しさから新しさへと私たちを導きます。めじろ台キリストの教会は入れ物も中身も年輪を重ねてそれなりに古くはなりましたが、私たちはますます新たにされているではありませんか。ほとばしる新しさにグッと?まれているではありませんか。

私たち大牧者イエス・キリストに栄光がとこしえにありますように。アーメン