イエスは歴史を背負って生まれてきた。何の歴史か。人の歴史である。どのような歴史か。正の負債を負った歴史か負の負債を負った歴史家か。
その答えはマタイによる福音書の冒頭にある、イエスの系図を見れば明らかである。
ところで、二千年前のイエスの誕生と今日を生きる私たちとの間に何の接点があるのか。どのような関わりがあるのか。これは多くの人が発する問いである。
そのヒントは、ジョン・ダンの詩の中に見出せるかもしれない。
あの海に浮かぶ孤島の如く、このように、それ自体一人で存在しているような人間など誰もいない。
一人ひとりの人間の死は私自信をもいやしめるものである、なぜなら、それはこの私が全人類と一体化した存在だからだ。汝如何なるときも尋ねる事なかれ、誰がために鐘は鳴るのかを。
あの弔いの鐘はあなたのためにも鳴っているのだから。
我々人類はひとつの塊である。誰かの死は誰かに影響を与え、誰かの生は誰かに影響を与えるからだ。これは人間の歴史の鎖の真実だろう。我々は江戸時代を遠い昔だと考えるだろうか。大方の人はそう思うかもしない。けれども5代遡れば、江戸時代だ。そして、聖書ではこう言われている。「神の目には千年は一日の如し」。イエスが生まれたのは、今から約二千年前だが、この聖書の比喩に従えば、神の前にはたった二日前のことだというのだ。
我々がどう思おうとも、我々は単体で誕生し、存在しているのではなく、人類の歴史を担わされている。
さて、その歴史はどうだろうか。その只中にいる我々の現実はどうだろうか。そこにあるのは、喜びか、楽しみか、笑いか、爽快さか。たしかにそうだ。我々の人生は喜びに満ち溢れている。通りを歩けば人々の笑い声が聞こえ、公園に行けば、子供たちの笑顔と歓喜の声が聞こえる。けれども、日々の新聞に目を通すまでもなく、我々が正直に社会の、世界の、そして、我々の内面の現実を直視するならば、人の生にはそのような正の部分だけではないことを知るはずだ。悲しみ、憂鬱、憂い、叫び、苦しみ、痛み、憎しみ、ねたみ、怨念、どうにもできない現実、腐った内面に対する深い実存的絶望…。
この現実は二千年前も同じ。イエスが生まれた夜も、だ。
それゆえに、イエスの誕生と我々の間には深い結びつきがある。イエスが生まれた夜をホリーナイト(聖夜)と呼ぶのは世界が「聖」であるからではない。暗闇だからだ(ヨハネ福音書)。暗闇だからそこ、闇を打ち砕き、我々人間の解決できない心のへ泥、存在の絶望、死の現実を聖なるものへと昇華するイエスの誕生の聖さが際立ち、人々はその夜を「聖」(holy)と呼んだのだ。「光は闇の中で輝いている。光は闇に打ち勝たなかった」(ヨハネ福音書)。
産みの苦しみと言う言葉がある。おとめマリヤからイエスは生まれた。マリヤが何歳であったかは分からない。当時のユダヤ社会の習慣を考えるならば、おそらく15、16歳くらいであったであろう。彼女は聖霊によって身ごもり、不安と戸惑いにさいなまれた(補足説明、聖書)。けれども、月が満ち男の子を生んだ。その名はイエス(「神は救い」の意)。聖書はマリヤの出産そのものに関してはさらっとしか触れていない。けれども、生みの苦しみを経てのイエスの出産である。それは苦しい経験であったであろう。なぜならそれは、生理学的苦しみだけではなく、ドロにまみれた人間の歴史を背負うために生まれてきたイエスの出産だったからだ。新しい時代の誕生と共に、古い時代の排出である。
その古い時代を背負った赤子は、その場所に相応しく、寂しい夜に、不衛生な家畜小屋で生まれた。そして、やわらかいベッドの上ではなく、飼い葉桶の上に寝かされたのだ。飼い葉桶といえば聞こえは良いが、それは家畜のえさ台である。そして、その幼子を取り囲むギャラリーは、支配階層からは軽視され、貧困にあえぐ羊飼いたちだ。
しかしそこに、神の逆説がある。この誕生の場こそ、新しい時代の幕開けに相応しい。闇が深ければ深いほど、光が輝くからだ。飼い葉桶の中に光が、家畜小屋の中に光が、罪にまみれた世界コスモスの中に光が産み落とされたのだ。
「神は実にそのひとり子たもうほどに世を愛された。」と聖書は宣言する。「世」とはギリシア語で「コズモス」だが、「人々」という意味も含蓄されている。事実、ギリシア人たちは「ひどい人ごみだね」と言うときに「ポリス コズモ
ス」と言う。だから、ヨハネ福音書3:16のこの言葉は、神は実にそのひとり子をたもうほどに人間を愛された、と言っているのだ。
イエスが誕生された時、天使は歌った。天には神に栄光あれ。地の上には神の民に平和あれ。平和のない世界に向かって、平和のない闇に向かって、天の群生は力をこめて神と人の和解の平和(原型回復の平和)の宣言をされたのである。
新しい歴史がそこから始まった。その歴史はイエスが先頭に立って導く歴史、負の遺産を聖なる希望に変える歴史である。三十数年後の話になるが、第二の誕生ともいえる十字架を通っての復活の希望の歴史である。
このような歴史の中に生きる我々は、我々の生をどう思うだろうか。栄華を極めた豊臣秀吉は時世の句で「露とおち露と消えにし我が身かな。なにわのことも夢のまた夢」と言った。また、秀吉の親方、織田信長が好んで舞った「敦盛」の一節にはこうある。「人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬ者のあるべきか。」
彼らの人生は、けだし、そのようなものであったのかもしれない。信長、秀吉の天下統一の動機が何であったかに関わらず、力、権力などはそのようなものだ。古代エジプトの栄光はどこにあるのか、ソロモンの栄華はどこに行ってしまったのか、アッシリアの繁栄はどこにあるのか、バビロニアはどこにあるのか、ペルシアはどこにあるのか、古代ギリシアの栄光はどこに埋もれてしまったのか、塩野七生さんの「ローマ人の物語」の完結を待つまでもなく、あのローマ帝国ですらもう存在しない。モンゴル帝国は、ハプスブルグ家は、オスマン帝国は、帝政ロシアとソビエトは、大英帝国はどこにあるのか(今や小英帝国)、アメリカも明日を知らぬ身だ。
けれども、光は闇の中で輝いている。イエスにおいて開始された新しい歴史の中を生きる者は、神の命を頂き、死んでも生きる者となる、という聖者(セイント)の宣言を与えられるのである。ヨハネによる福音書からもう一度読んでみよう。
「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠の命を持つためである。」(ヨハネ福音書3:6)
その原点はあの聖なる夜だ。他ならぬ私たちのためのあの夜。Holy Night(聖夜)を喜び祝おうではないか。
アーメン
|