メッセージバックナンバー

2012/01/01  「大地よ、草を萌えいでさせよ」――
新しい名で呼ばれる時(イエス命名の日[B年])―― イザヤ書61:11

:11 大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。


年頭の賀詞

 人の心をご存じの主に在って、新年のご挨拶を申し上げます。
  一週間前、私たちは共に主イエスの御降誕をお祝い致しました。その余韻も冷めやらぬまま、私たちは本日、平成23年(2012年)の元旦に新しい朝を迎えております。その余韻とは「新しさ」です。時を刻まれる神は、二千有余年前にご自身の独り子イエスを歴史のただ中に送り、私たちの救い主として下さいました。御子の受肉という仕方で人の歴史に介入し、私たちのために新しい時代を開始して下さったのです。私たちは今朝、その主に在って「新しい朝」を迎えております。それ故、人の被る悲惨を超克し、天に向かって叫びましょう。「新しい年の新しい朝をありがとうございます。神様、おはようございます。」


イントロ

 昨年は色々なことがありました。日本列島には東日本大震災が発生し、未曾有の被害をもたらしました。夏には大型台風が飛来し、各地にその爪痕を残しました。被災地の方々を始め、全国に散らばる親類縁者の方々は今なお、苦しみの渦中に置かれています。私たちめじろ台キリストの教会という単位でも色々なことがありました。


I.                  茨冠から金冠に

 このような私たちの生の現実を思う時、イザヤの言葉を思い出します。イザヤは叫びました。

わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。(イザヤ書61:10-11)

 「この預言者は気でも狂ったか。」 周囲の人々は思ったでしょう。イザヤが霊に満たされて預言した場所には、イザヤの見たものは何一つなかったからです。何もないどころか、肉の目に映る生の生々しい現場の光景はすべて、イザヤのヴィジョンとは真逆でした。これがイスラエルの民の現実でした。

主によって喜び、楽しむことなどは到底適わず。
魂は神から見放されたのですっかり消沈してしまった。
衣は剥ぎ取られ、主が約束して下さった恵みも取り去られてしまった。
頭に被せられた冠は、宝石の冠どころか、棘が額に食い込む茨冠の冠。
大地は侵略者によって蹂躙され、荒れ野と化してしまった。
すべての民族の中で辱の象徴とされてしまった。

 けれどもイザヤは止めないのです。語り続けるのです。宣言し続けるのです。

シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず/エルサレムのために、わたしは決して黙さない。彼女の正しさが光と輝き出で/彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。諸国の民はあなたの正しさを見/王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。主の口が定めた新しい名をもって/あなたは呼ばれるであろう。あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり/あなたの神の御手の中で王冠となる。(イザヤ書62:1-62-3)

 イザヤは言いました。神がその民を正しいと宣言して下さるまで、神が民を救って下さるまで口を閉ざすまい。主が私たちを再び贖って下さるまで、主が新しい名で呼んでくださるまで黙すまい。イザヤ自身にしても、内心身悶えしていたでしょう。自分の口から発する言葉は、眼前に広がる現実とはまったくそぐわないのですから。けれども、彼は神から預かった言葉を内に秘めることはできなかった。幻を語り続けたのです。


II.                  古い名ではなく新しい名で

 はたしてイザヤの見た幻は現実となったのでしょうか。喜びは回復したでしょうか。神は目を注いで下さったでしょうか。打ちひしがれた魂は蘇ったでしょうか。新しい衣が与えられ、主が約束して下さった恵みは回復したでしょうか。茨冠は金冠に戻ったでしょうか。大地は今一度草花を萌えいでさせたでしょうか。民の恥は除かれたでしょうか……。イエス誕生の晩はどうであったか。

天使たちが離れ…去ったとき、羊飼いたちは、「…主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして…飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。…羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。…羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ2:15-20抜粋)

 本日共にお読みした部分のイザヤ書は、一般的に「第三イザヤ」(56-66章)の名で知られています。特に本日の聖書個所61章62章は紀元前538年に始まった捕囚からの帰還後間もなく執筆されたと思われますから、これが語られたのはルカ福音書が記すイエス誕生の約534年前です。相当な年月を経ていますが、イザヤの与えられた約束の言葉は成就したのでしょうか。答えは、ルカ2:18の「羊飼いの報告を聞いていた皆」の反応を見れば分かるかもしれません。
  彼らは「不思議に思った」のでした。羊飼いの話を、です。天使顕現の非日常性や彼らが天使の託宣によって幼子イエスを探し当てたと言うのですから、当然でしょう。けれども私は、もう一つの点で彼らが不思議に――より正確には訝しく――思ったのではないか、と考えるのです。それは、「現実は何も変わっていない」という変え難い事実に対してです。 確かに、パレスチナは未だ為政者(ローマ帝国)の手の中にありました。宝石が鏤められた冠をかむっていたのはローマ帝国におべっかを使う傀儡政権でした。大地は未だに侵略者の戦車の車輪によって荒らされていました。神の約束はまだ成就していなかったのです。

 しかし、人々はまだ理解していませんでした。この嬰児こそが「民全体に与えられる大きな喜び」であることを。この嬰児こそが「主メシア」であることを。人々はまだ知りませんでした。この嬰児の名を、神が定めた新しい名を。

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカ2:21)

 嬰児は「イエス」と名付けられました。イエス――「神は救い」という意味の名です。


結び

 けだしイザヤは黙しませんでした。彼の言葉はバプテスマのヨハネが後を継いで語り継ぎました。福音書記者がイザヤに与えられた言葉を担い続けました。イザヤの言葉は確かに、イエスと言う名に望みを置く人に正しさが光と輝き出で、救いが松明のように燃え上がり、主の口が定めた新しい名によって私たちが呼ばれるまで、叫び続けました。イザヤは言います。

大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。