水曜日から受難節に入りました。「キリストの教会」では、教会暦に即して教会生活を送るという習慣がありませんが、少なくとも、アドベントからクリスマスにかけての季節と、灰の水曜日からイースター(復活祭)へと続く受難節に関しては、私たちも無関心ではなく、それぞれがそれぞれも思いを持って、既に召された聖徒たちと共に、この季節に込められた「世紀を貫く信仰の記憶」を共有しています。
受難節は四旬節とも呼ばれています。それは受難節の開始日である灰の水曜日から復活日前日までの日数が40日だからです。西方の教会暦を採用する教会では、一応「春分の日の次の満月の後の最初の日曜日」を便宜的にイエスの復活日(イースター)にしていますので、それに先立つ40日プラス、その間にある日曜日の日数が受難節の期間です(その満月の日が日曜日の場合は翌日曜日がイースターとなる)。もっとも、「満月の日」というのは天文学的な意味での満月の日ではなくmetonic cycleという周期に基づいたものであるということを、誤解のないよう付け加えておきます。
ちなみに、受難節には、伝統的に、食事の節制と祝宴の自粛がおこなわれ、神への祈り、自分自身に対する断食等の節制、更には他人に対する慈善の三つがその中心的精神として据えられています。平たく言うならば、娯楽の自粛や慈善活動への積極的参与です。もっとも、日曜日は主の復活を記念する日ですから、この40日に主の日は含まれず、節制の習慣も適用されません。
さて、なぜ「40」なのでしょうか。ご存じの通り、40と言う数字は旧約聖書の中で特別な準備期間を示す数字として扱われています。たとえばモーセは民を率いて40年間荒れ野をさまよいました。ヨナはニネヴェの人々に40日以内に改心しなければ街が滅びると預言しました。イエスは公生活を前に40日間荒れ野で過ごし、断食されました。受難節・四旬節の40日間はそのような伝統に従い、キリスト者にとってはイエスに倣うという大変意味のある準備期間となったのです。
けれども本当のところは・・・というお話をしなければなりません。実は、古代教会における受難節の期間は、バプテスマ志願者の準備期間だったのです。準備の中には断食による祈りも確かにありましたが、聖書をよくよく学ぶ期間であり、何よりも霊による新生をまじかに控えた喜びの期間でした。また、既にバプテスマされ、クリスチャンになった者にも、受難節は、その水の中に沈められた瞬間(別の形式でバプテスマされた人はそのバプテスマの時)を思い起こし、救われた喜びを思い起こすのに最適の期間でした。ある人の言葉を借りるならば、spiritual refreshmentの時です。[1] 悔い改めに終始するのではなく、このような罪人を贖って下さる、贖って下さった神に感謝と賛美のいけにえをお捧げする歓喜の期間なのです。痛みを伴う悔い改めが、「癒し」へと導かれる象徴的期間と言っても良いかもしれません。
使徒パウロは第二コリント書でこのように言います。
「神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。・・・わたしたちはその方によって神の義(神からの義)を得ることができたのです。・・・今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」[2]
さきほど、受難節は「灰の水曜日」で始まると申しました。伝統としての灰の水曜日がどのようなものであるかは、先週の週報の中で紹介しておりますが、その中心テーマは「おまえは塵から取られたのだから塵に返る」という、神がアダムに言われた創世記の言葉に収斂します。旧約聖書に数多く出てくる「灰の中に座る」「灰をかぶる」という嘆きの行為も、出発点は土の器としての人間存在の限界から発生しました。これらの行為すべてが、悔い改め、罪の告白に結びつけられているのです。別の言葉で言い換えるならば、“memento mori”(死を覚えよ)です。
「灰に帰る」と聞きますと、火葬が一般的である今日の日本では大変リアリティをもった言葉として響きます。灰は、人間の無力さ、むなしさ、悲しみ、やりきれなさの可視的現実だからです。荼毘に付された後、灰の中に人の体の位置通りに横たわる骨を見て、多くの方がそれを感じてこられたでしょう。
けれどもです。それはバプテスマという場(コト)での救いの成就と相関関係にある出来事なのです。「汚れたのち、キレイになる。」 詩的センスゼロの響きですが、この逆説こそ十字架の出来事の神髄であり、これこそ神の救いの業、キリストの福音の真骨頂に他なりません。
受難節に入りました。灰をかぶり、福音を喜びましょう。伝統的に、受難節には控えられる言葉ですが、あえて宣言いたします。「ハレルヤ!」
[1] Black, Viki K., Welcome to the Church Year: An Introduction to the Seasons of the Episcopal Church (New York: Morehouse Publishing, 2004), 52.
[2] 傍線とカッコ内と言葉は筆者の補い。「神の義」の《の》(ek)を属格《の》ではなく、奪格《から》と解釈しました。
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