3:9bわたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。:15aだから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。:20 わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。4:1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。
イントロ
先の大戦における、我が国の敗戦の辛苦と世界の苦しみを覚えるこの週には、殊更「復活」を意識させられます。ですから、今朝はパウロの復活に関する福音に心を向けましょう。
I. 「パウロの未完成」と「グノーシス主義者の完成」
パウロは前節からの文脈で「復活」をテーマとして、論を進めていきます。そして、12節からは、その「復活」を、「完成」「完全」「終末の栄光の到来」「賞を得るための目標」などと言葉を言い換えながら、「復活」とキリスト者の歩みの関係について、パウロ独特の語りで展開してきます。
:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
12節からの新しい段落で、パウロは「既にそれを得たと言うわけではない」、また「既に完全な者になっているわけでもない」、ただ「何とかしてそれを捕らえようと努めている」のだ、と切り出します。具体的には、全段落の最後11節にあります「死人の中からの復活」です。パウロは彼の書簡の至るところで、フィリピのこの個所では、「自分自身はそれをまだ得ていない」「その時はまだ来ていない」ということを殊更に強調するのです。
実は、「不完全さ」を強調するパウロの念頭には、「既に完成に達した」と主張する人たちの存在がありました。「グノーシス主義者」と呼ばれる熱狂派の神秘主義集団です。彼らは自分たちを「完全」に達したと見なして(Iコリ2:6以下)、完全なる真理、神認識(グノーシス)を獲得した(Iコリ8:1以下)と主張しました。この文脈では、神知識の極みに達して霊的に豊かになったが故に、この世で満ち足りて、世の終わりと言うような終末的未来からは何一つ期待する必要がない、という宗教的理解です。
「真の完成」を目指して
このような「完全に達した」と主張するグノーシス主義者たちに対して、パウロは自らの不完全さを更に強調します。自分はまだ目標に達していない、こちらはまだキリストを完全には捉えていない、死人の中からの復活にはまだ到達していない(Iコリ4:8)。自分には「完成」に達した宗教的達人たち誇示しているすべてのことが、まだ欠けている。まだ終末の栄光に到達してはおらず、そこへの途上を前進しつつあるのみである。キリストの死と復活による救いの出来事が開始された「救済の時」と、キリストの再臨によって来るべき「完成の時」と、この二つの時の間に今の自分は生きているのだ、と。
グノーシス主義者が、「神秘的悟りと共に人間が神と一体になり、その神性に抱擁される境地」(この世からの解脱)の類を語り、「神の真理の認識」と「宗教的完成」へ到達すると説いていたのに対し、パウロはあくまで、この世の中に生きる一個の人格の具体的人生の出来事と、世の終わりに来るべき事への展望、について語ります。しかもパウロは、「戦い」こそがそこに至る道のりであると主張するのです。
:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
パウロは他の個所でもしばしば好んで「競技場」というモチーフを使い、キリスト者とされた自分の歩み、キリスト者の歩みを「競技場での競争」になぞらえます(Iコリ2:16; Iコリ9:24; ガラ2:2; 5:7; ロマ9:16; IIテモ4:7)。パウロが「競技場での競争」を引き合いに出す理由は、キリストの十字架と復活によって神を信じる者が与えられる「信仰による義」は、人を悟りすました「信仰の達人」には決して至らせはしない、という主張からです。神が与えたもう恵みは、これを失うことを恐れて後生大切に抱え込むべきものではく、活ける神の御手から常に新たに受け取りなおさねばならない賜物です。パウロはその事実を、彼の生涯を通して身をもって体験したのでした。ですから、パウロのキリスト者としての生き様は、その人生の終わりまで、「信仰の達人」の隠遁宗教生活などとは無縁であり、逆にこの上なく活発な生活たったのです。それは使徒言行録を初めとして、パウロの書簡にも生き生きと描かれています。
ただ、ここで勘違いしないでください。パウロの「行動性」は、自己の力を発揮して業績を打ち立てようとする野心に満ちたものとは異質のものです。自力本願、自力による精神勤勉の姿勢は、ある程度、目的を達成する原動力にはなるでしょう。けれども、パウロはそのような「自力精神勤勉主義」に対しては一貫して否定的なのです。なぜなら、それは「神不要の信仰の達人主義」であり、また「神の名を借りた律法主義」に繋がるからです。そのような己の力だけに頼る生き方は、生涯を通じて、しかも、死をも乗り越えて、張り合いのある生き方の秘訣とは決してなり得ません。
ここで注目すべきは、「活発な行動性」そのものではなく、「信仰による義」――活ける神の御手から常に新たに受け取りなおさねばならない「賜物」です(現在進行形)。この真実に注目しますと事は明瞭なのです。キリスト者が体を前方に伸ばして、神から与えられる「勝利の褒美」を全身で捉えようとする姿勢を保ち続けることができるのは、キリスト者がキリストに捉えられているからに他なりません。
II. 「未完成の完成」を目指して走り続ける
パウロは私たちキリストの先駆けとして信仰者のコースをスタートしました。そして、私たちが使徒言行録と書簡から証言を得ているように、彼は文字通り「わき目もふらずに」全力疾走したのでした。その原動力は「信仰によって義とせれらた真実」、そして前方にある「勝利者への褒美」――「復活」――です。
キリストに捉えられた者たちは、パウロに引き続いて、この信仰のマラソンを走り続けます。聖書に記述されていないところで恐らくパウロもしばしばそうであったように、私たちは弱いですから、常に「わき目もふらず全力疾走」とは行きませんが、けれども行き着く先の分からない無目的な疾走ではなく、確かなゴールを目指しての疾走です。パウロは「後ろにあるものを忘れて前に向かって走る」と言いましたが、私たちはこの信仰者としての人生のマラソンの中で、過去の古い自分に脅かされること無く(つまり「罪」に)、はたまた自分の成し遂げた業績を振り返ることも無く、「彼方に見える復活」だけを見てひたすらに前へ前へとひた走るのです。先程このマラソンのゴールで与えられる褒美は「復活」だと言いましたが、もう少し具体的に言いますと、「神から与えられる天への召し」であり、イエス・キリストを信ずる者たちに与えられる神の完全なご支配の中での「存在の完全なる購い・回復」です。
III. パウロのパラドックス
15節では、こんどはグノーシス流の熱狂家たちの喧伝する「完成に達した」というスローガンを取り上げて、逆説的にキリスト者にも適用します。
「完成」という言葉はマジメな日本人キリスト者にとって誤解を招きやすい実に厄介な言葉です。前半でパウロの論点を見てみましたが、「競技場のレース」などというイメージが出てきますと、やはり、一方で行為義認主義、或いは「ねばならない主義」を連想し、アレルギー反応を起こす人が出てきますでしょうし、他方で、ノロノロレースを走っている自分を発見して自己嫌悪するという逆の大いなる勘違いもでてくるでしょう。けれども、そのような勘違いはさておき、パウロはグノーシス主義者もキリスト者にも釘を刺すように、真の意味で「完成した者たち」とは、神の恵みに帰属し、己を捨てて神に服従しようと、未だに競技のコースを走り続けている「勝利の褒美をまだ獲得していない未完成の者」たちに他ならない、と言うのです。これらの者たちは、自分がまだ目標に達していないことを明確に自覚していて、それゆえにキリストが自分を完全に捉えて天への召しに導きたもうその時まで、キリストを絶えず繰り返して捉えなおさねばならないことを識っているのです。
結び
パウロはフィリピの教会へのキリスト者たちに力強い一言を持って励ましを与えます。
:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
パウロは傲慢な思い出このような言葉を発したのではありません。むしろ自らこのマラソンの途上にある「未完成な者」として、フィリピの仲間たちと共に歩みつつ、共通の目的に向かってお互いの羅針盤を合わせようではないか、と励ましているのです。そして、自分の内に生きたもう、内なる力の源泉であるキリストを仰ぎ見るように、と熱烈に勧めているのです。 |