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2010/9/5  「鳴り物なしの福音」 マルコによる福音書 8:1-10

:11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。:12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。


イントロ

 「鳴り物」とは元来、歌舞伎の舞台を賑やかにし、囃し立てる太鼓や笛などの楽器のことです。そして、このような道具が舞台演出用伴奏として使用されることを「鳴り物入り」と言ったのでした。私たちが日常良く耳にする「鳴り物入りで何々」は、このような笛や太鼓のイメージが転じて「大げさに触れまわる」くらいの意味になったものでしょう。
さて、今朝私たちの福音書で描かれている光景は、主の歌舞伎風「鳴り物入りの図」と言っても良いかもしれません。イエスが異邦人の地デカポリスでなした業は即座にヨルダン川の西側の住人たちにも伝わったでしょうし、噂話には大抵尾ひれが付きますから、ダルマヌタ地方[1]の住人達は互いに「大げさに触れまわった」はずです。


I.                  鳴り物なし

 エピソードの初めに登場する人々はまさに、この「鳴り物入り」のイエスに反応し、その鳴り物に噛みついた人々でした。

:11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。

 彼らがどこから来たのかは分かりません。また、彼らが実際にイエスの奇跡行為を目撃したことがあるのかどうかも明示されていません。けれども、異邦人の土地からユダヤ人の土地にイエスが戻るや否やイエスを攻撃したところをみますと、イエスを待ち伏せしていたきらいがあります。マタイ福音書の並行個所ではサドカイ派も揃って登場しますし、「イエスを試そうとして、天からのしるしを求め」というマルコのナレーションから、彼らは囃し立てる人々や騒音は見聞したが、真実を「見ても見ず、聞いても聞かず」の己の状況を披歴しつつ、イエスと言う存在をもはや看過することができず、主を待ち伏せていたのです。これが彼らのあり様でした。

 イスラエルから連綿と続くユダヤの民は神を試みることの大罪を知っていました。神を試みたが故に被った経験も知っていました。イエスのところに来たファリサイ人たちは詩編95編の言葉を諳んじることができたでしょう。

:6 わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。
:7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
:8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。
:9 あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。
:10 四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。

それにもかかわらず、イエスを試みたのです。イエスの中に神を見ることをしなかったからです。「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にして」、イエスの力ある業を敢えて無視したからです。

 「天からのしるしを求める」はその端的な現れでした。聖書の世界の伝統では「天」という言葉でしばしば神を指します。つまり、イエスのところにやってきたファリサイ人たちは神からのしるしをイエスに求めたのでした。40日間荒れ野で断食をされた主を試みたサタンの如く、「お前が神の子なら奇跡を行え、力ある業を行え」と言わんばかりに。彼らが求めていたしるしが具体的にどのようなものであったのかは後述しますが、我々が納得できる仕方で、我々が納得できるしるしを、われわれの目で確認できるものとして見せよ、鳴り物を打ち鳴らせ、とイエスに迫ったのでした。神から与えられる眼、神から与えられる耳、神から与えられるしるし、神から与えられる義を求めることなく、自分が見たい事、自分が聴きたいこと、自分がしるしであると認識できる範囲のしるし、自分で勝ち取る義のみを求めて、イエスに凄むのです。詩編の言葉が渇いた音で響きます。

四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。(詩編95:10)

 福音書ではファリサイ派がやり玉に挙げられていますが、彼らの姿勢は恐らく民衆一般にも当てはまったでしょう。弟子たちですら数行後には「与えられたしるし」があたかも無効であるかのような頓珍漢な議論をし、イエスから「おまえたちには目と耳がないのか、愚か者!」と叱責されています。しるしはイエスの足跡に色濃く残されているのに、それが見えない…。
人間とはかくも頼りないものなのです。であるからそこ、ヘブライ書の著者はあの励ましの言葉を書き送ったのでしょう。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(11:1)。「しるし」(シミ―オン)には「認証」の意味もありました。


II.                  音ならぬ嘆息

 一般民衆のみならず、ファイリサイ人の心の底にも、鳴り物を見たい、鳴り物を聞きたい、という願望が或いはあったのかもしれません。サドカイ派が支配するエルサレム神殿からはお金の音が響くことはあっても、慰めの鐘、励ましの太鼓の音が響くことはありませんでしたから。

 イエスは心の中で深く嘆息してこう言われます。

:12b「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」

 これが私であったならば、嘆息するどころかきっと「何くそ」と憤慨し、露払いと太刀持ちを従え、傾いたなりで「しるしがどうした!」と敦盛か邯鄲でも舞ったかもしれません。開き直って、「人生は何事も一炊の夢よ。じたばたするな!」とそれこそ鳴り物入りで啖呵を切ったかもしれません。しかし、イエスは違うのです。鳴り物なしで、静かに、そして深く心の中で嘆息されたのです。「奇跡は神から与えられるものなのに、なぜ人が神に奇跡を要求するのか…。奇跡を願い求める人々に神は福音の名においてずっと答えてきたではないか。」
実はイエスの深い嘆きは、奇跡を願い求める者自体に向けられたのではありません。福音書は初めから一貫して、奇跡発動の意味を明確にしつつ、奇跡を求める者たちのリクエストに主が答え、主が為された治癒行為を大胆に描いてきました。奇跡を行うことによって、人々は神から見捨てられていないこと。それどころから、そのように思い込んでいた人々にこそ神は寄り添って下さっていたことを声高らかに宣言したのでした。
では、イエスは何に嘆かれたのか。それは、奇跡を強要することによって「神を試みた」ファリサイ人の不信仰に対してです。しかも、彼らが求めたしるしは、「今の時代の者たちには…」というくだりが暗示しています通り、終末的しるしでした。今まで見聞した奇跡――つまり、イエスの水上歩行、給食、病人の癒し等の地上的事柄――とは違う直接的な黙示的しるし――天からの声、天からの直接的震撼、天変地異――でした[2](i.e., マルコ13:24:25参照)。
主は畳みかけるように言われます。「(はっきり言っておく)今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」(イー ドスィーセテ イー ゲネア タフティ シミ―オン。原文を直訳しますと「もし今の時代にひとつのしるしが与えられるとすれば…」となりますが、この一文には大変強い語気が込められています。英訳聖書でも日本語訳のように、“no sign will be given to this generation”(NRSV)と大抵訳されていますが、マルコがギリシア語に翻訳して収録したイエスの言葉はもともとアラム語の典型的なヘブライ的誓いの条件節の断定的定型句だったのです。つまり、「もし今の時代にひとつのしるしが与えられるならば…私は呪われてしまえ!」[3]。マルコ福音書にはヘブライ的表現の後半が抜け落ちた形で収録されたのでしょう。つまり、イエスは「この時代にしるしが与えられることなど絶対にありえない」と言いきったのでした。イエスの神的身分を保障するために与えられる終末時のメシア的預言の履行を迫った[4]ファリサイ人たちの傲慢に対するイエスの凄みを感じさせます。
  実際のところはどうだったのでしょうか。百歩引いて、しるしをファイサイ派が求めたものに限定して考えてみましょう。この時代に、はたして天からのしるしはなかったのでしょうか。主は敢えて「 今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」(もし今の時代にひとつのしるしが与えられるとすれば…)と言われたのですが、その真意は何だったのでしょうか…。それは、この時代に天からのしるしがあったのか或いはなかったのかを考察することではっきりします。どうでしょうか……。私たちはひとつの出来事を思い起こすだけでこと足りるではありませんか。「イエス・キリストという出来事」です。神の受肉です。この時代は十分すぎるほど天からのしるしに満ちていました。ベツレヘム夜空には天使たちと天の軍勢の賛美の歌は響きました。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:13-14)。主イエス、そのお方こそ与えられる「ザ・しるし」だったのです。
もっとも、その賛美は鳴り物を伴った派手なものでなかったことは言うまでもありません。音ならぬ音、声ならぬ声を聞いた人々は羊飼い等のわずかな者たちだけであったことを私たちは知っています。けっして鳴り物入りの福音ではなかったのです。神の受肉もまた人知れず静かな場所で、受肉された神の誕生も厩の中で闇夜にひっそりと起こりました。その静けさの中で、神はご自身への信頼(信仰)をお求めになったのです。要はこの鳴り物なしの福音に開眼するかどうか、鳴り物なしで迫る神の呼びかけに応答するのか否かです。

:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

 「鳴り物なし」のイエスに置いて行かれた「鳴り物好き」のファリサイ人の図です。


結び

 敦盛と邯鄲に触れました。双方とも心に迫る悲しく、また楽しいストーリーです。細かな内容をご存知の方は、「しるし」というキーワードで再鑑賞することができるかもしれませんが、知らない方のために紹介しましょう。

『敦盛』(幸若舞)
思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
(ゴシック体は筆者による)


『邯鄲』(能)
「邯鄲」の舞台は中国の蜀という国です。そこに住む盧生という名の青年は、人生に迷いを感じ、羊飛山に住む有名な僧侶に教えを乞おうと思って旅に出ます。

 旅の途中で楚の国の邯鄲の里に着き、一軒の宿屋に泊まります。するとそこの女主人が、かつて仙人を泊めた時にその枕で寝ると夢によって悟りが開けるという不思議な枕をお礼にもらった、と言ってその枕を持ってきます。そして、食事の支度をする間どうぞこの枕を使ってお休み下さい、と女主人に勧められ盧生は一眠りすることにします。
うとうとすると誰かが盧生を起こしに来ます。誰かと思えば楚の国からの使いの者で、楚の国の帝が盧生に位を譲るので迎えに参りましたというのです。驚いた盧生は天に昇る心地で輿に乗って宮殿に赴き、王位につきます。そして、酒宴が続き、自分でも歓喜の舞を舞って栄華を極めた毎日を送りますが、気が付けばあっという間に50年が過ぎていました。
と、突然宿屋の女主人が、粟のご飯が炊けましたよ、と起こしにきます。目を覚ました盧生は、今のはすべてが夢であったのかと、しばらく茫然と立ちすくみます。けれども、人生は何事も「一炊の夢」と悟り、枕に感謝して満ち足りた気持ちで故郷に帰っていきます。[5]

 この二つのストーリーには人生に散りばめられた天のしるしが刻み込まれています。このしるしを探りながら、敦盛の幸若舞や邯鄲の能を鑑賞すると大変興味深いことが起こります。(私の場合ですが)ストーリーの中に散りばめられた人生のしるしに気付いた時、敦盛や邯鄲の歌は喜びの歌となりました。都上りの歌となりました。人生の巡礼の歌となりました。イエスの嘆息に込められた意味を反射する歌となったのです。
しるしに気付くとは、神が共にいて下さることに「ハッと」気付くことに他なりません。その時、人生の巡礼は礼拝になります。しるしを探し求めることから、しるしそのものを生きる存在へと変えられるのです。しるしを生きるとは、己の十字架を背負いながら、主イエスの復活へと向かって生きる生に他なりません。

 先々週、「観光資源としての宗教」と言うドライなテーマで熊野古道を巡りながら「巡礼」?しましたが、それは私にとって礼拝となりました。熊野三山(熊野速玉大社、熊野那智大社、熊野本宮大社、)に詣でたことを礼拝と言っているのではありません。古の人々との共時性を感じながら、イエスの神と共に歩んだ礼拝です。そこには「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」「人生は何事も一炊の夢」とう鳴り物なしのしるし(福音)がこだましていました。


[1] グールドはダルマヌタの位置をマタイ福音書の並行個所15:39を参照しながら、マグダラ近くの小さな村であろうと主張する。とすると、ダルマヌタはガリラヤ湖の西岸、ゲネサレト平野の南部となる。(Ezra P. Gould, The International Critical Commentary: A Critical and Exegetical Commentary on The Gospel of Mark [Edinburg: T. & T. Clark], 144.)
[2] グールド(144)やE.シュヴァイツァー(215)は黙示的しるしと採るが、川島はそこまで読み込む必要はないと主張する(136)。
[3] James A. Brooks, The New American Commentary: Mark (Nashville: Broadman Press, 1991) のLogos Library System 電子版該当箇所(Broadman & Holman Publishers, 2001)
[4] 川島貞雄『マルコによる福音書』教文館、136.
[5] 山本能楽堂オフィシャルブログ「能楽堂の一日」より抜粋引用(http://yaplog.jp/noh-theater/archive/445