メッセージバックナンバー

2009/06/28  「死によって取り戻す生」 ―マイケル・ジャクソンさん追悼説教― 
マタイによる福音書 16:26

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

日々の新聞に目を通すまでもなく、毎日多くの命が誕生し、多くの命がこの世を去ります。それは生物学的に事実であり、社会学の「現実の社会的公地区」Social Construction of Reality などと言う点からコメントしますならば、誕生を喜んだり、死を悲しむこと自体が、社会的に構築された現実、の一言で終わってしまうでしょう。つまり、リアリティはそこにあたかも天から与えられたようにあるものではなく、人間が経験を通して造り出した「社会的コード」によって造られたものであるということです――社会的契約、社会的コードの共有、言語の共有、文化的文脈の共有などなど。

人間生活の営みのもっとも重要なことである誕生と死を、このように眺めますと、何とも無味乾燥です。このような社会理解には「無常」という言葉すら入り込む余地がありません。喜びも悲しみも、社会的に構築された概念だからです。ある人は問うでしょう。「我々には喜怒哀楽という感情がある」と。けれども、この感情すら社会的に構築されたものなの、と説明されてしまうのです。

さて、皆さんは人間生活に対するこのような眼差しをどう思われますか。私は「認識」というレベルでは、「現実は社会的に構築されたものである」という社会理解に同意します。多くの点で、「現実」は、私たちのマインドが、経験知を社会的に集合して作り上げたからです。

けれども、これだけでは何かかが足りない。現実問題として何かが足りないのです。それがたとえどうして足りないと感じるのかを、社会学的に分析されてもです。

豊臣秀吉はこのような時世の句を残しています。「露と落ち露と消えにし我が身かな。なにわのことも夢のまた夢。」

この一句から感じるさみしさは何なのでしょうか。私たちは秀吉が詠んだ詩の意味を歴史的に、客観的に知っているのに。なぜ、そんなの当たり前ではないか、と言い放てないのでしょうか。なぜ、思わず、『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。』というイエスの言葉を思い出してしまうのでしょうか。

その理由を、私は、人間と言う存在が、「あるもの」以上の存在であるからだと思うのです。「いる」だけでも「ある」だけでもない、「存在する存在」であるからだと思うのです。この「存在」と言う言葉には、一種のア・プリオリが込められています。ア・プリオリというのは哲学者カントの用法で、経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念を表すラテン語です。もう少し詳しく言いますと、カントによれば「時間」と「空間」は、あらゆる経験的認識に先立って認識されている概念で、天与のものです。つまり、この二つが先立っていることが絶対に自明なのではなく、この二つが与えられなければ事物が認識出来ない以上、純粋直観として、何も認識出来ないと、カントは主張するのです。ちなみに、カントが言う空間は、物理空間に先立つ(ア・プリオリな)空間です。

やや理屈っぽいことを言いましたが、現実は社会的に構築されたものにすぎない、と言ってしまっては、人間がモノ化してしまいます。イエスの言葉も意味をなさなくなります。なぜなら、イエスの比喩には「意味」が込められており、その意味は人間存在の意味と直結しているからです。

マタイ16:26 『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。』

希代のエンターテイナー、マイケル・ジャクソンさんが亡くなりました。さみしい最後でした。Conditional な「ファン」としてではなく、unconditional な(自称)友人として、私はマイケル・ジャクソンさんの死を、灰をかぶり、悲しんいます。・・・なぜ悲しむのか。なぜ悲しいのか。ある友人は「好きだからだろう」と言いましたが、それ以上のものによってこの悲しみが引き起こされた、と言わねばなりません。

彼はその人生の中で、とりわけアルバム「スリラー」以降、人格としての価値を否定され、またマスコミが垂れ流すコシップネタでその存在を否定されて続けてきたのです。人々の噂話には、肯定的であれ、否定的であれ(特に否定的な場合がひどいのですが)、そこに彼は存在者として存在していません。噂話をする人たちに取って、マイケル・ジャクソンさんは、彼らを喜ばす道具(モノ)に過ぎなかったのです。皮肉にも、マイケル・ジャクソンさんをめぐる長年にわたる噂話は、リアリティは社会的に構築されたものである、という一つの真理を明確に物語りました。彼の歌には「だれも本当の僕を知りはしない」というフレーズが時折出てきますが、幼児虐待疑惑にしても、攻撃者たち、噂話をする者たちをはじめ、本人と家族、心許せる友以外は、だれも何も知らなかったのです。

主イエスの仰ったことは、確かに真理を突いています。『人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。』秀吉も病に倒れ、それをリアルに意識し、人間の限界を悟ったのでしょうし、敦盛を好んで舞った織田信長もそれを意識しながら自害したのだと思います。マイケル・ジャクソンさんも同じです。ただ、ひとつ違う点は、今まで商品として扱われてきた彼は、或いはゴシップネタの対象物として弄ばれてきた彼は、また10歳の時から普通の生活を経験しことがない故にさまざまな奇怪と思われる言動をなし物議をかもしてきた彼は、死んで、自分の命の犠牲で初めて、己の存在を買い戻したということです。死して初めて、モノではなく人として扱ってもらえた、ということです。この皮肉に、彼の生涯を思い、また残された子供たちのことを思い涙が流れてきました。

彼の死は、人類の中のひとつの死に過ぎません。けれども、マイケルさんの死を通して、イエスの言葉の意味とイエスご自身の十字架に深く思いをはせた次第です。