メッセージバックナンバー

2011/01/01  「堅立在人」(ヒューマニズム)を凌駕する「堅立在主」の真実 
――元旦の福音―― フィリピの信徒への手紙3:20-4:1

3:20 わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。4:1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。

 「主にあって堅く立て。」 混沌とした今日を生きる私たちには閃光のようなパウロの励ましです。しかし、なかなかそうできないのが生身の人間の現実。意気込みと尻込みが交錯する毎日を生きる私たちは、このメッセージをどのように受け取ったら良いのか……。
  そのヒントは「手紙」の性質にあります。手紙は本来双方向的であることは言うまでもありません。手紙の書き手は受け取り手を具体的に意識しながら文字に思いを託します。受け取り手不在では手紙は手紙為り得ません。パウロはこの原理に従って、ピリピの受け取り手を思いながらこの手紙をしたため、「主にあって堅く立て!」と励ましたのでした。
  受け取り手はどのような人たちであったか。「私が愛し、私が慕っている兄弟姉妹たち」「私の喜びであり、冠である愛する者たち」とパウロは最高の賛辞を送っていますけれども、本質は「主にあって堅く立て」と励まされる必要のあった土の器でした。「[キリスト]は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」と励ましの言葉を受ける必要のあった人たちだったのです。
  パウロは、土の器(人間)という有限性の中に普遍的神の力が現わされること識っていました。土の器の限界の中にも神の霊が息づいていることを知っていました。パウロは復活の命のたぎりをピリピの兄弟姉妹たちの中に視認したのです。己が身の限界を痛いほど知らしめられ、その身に主の栄光を現わして頂いたパウロだからこそ、この神の逆説の真理を看取したのでしょう。ピリピの兄弟姉妹たちに対するパウロの喜び、高揚は、この経験と確信に裏付けされたものでした。そのようなパウロが、「堅く立て!」と励ましの言葉を述べます。
  私もパウロやピリピのクリスチャンたちと同じ肉の器ですが、それにもかかわらず、元旦にキリストの福音を声高々に宣言できますのは、パウロと同じように、福音の受け取り手を思い浮かべるからなのです。喜怒哀楽の交錯する生身の人間存在が持つ限界と矛盾に時に呻吟しながらも、キリストに捉えられ、キリストに生かされ、いまだ見ぬ「約束の地」への天路歴程を、それぞれの現場で巡礼するキリストにある兄弟姉妹の存在を知るからなのです。

 私たちはキリスト者共同体です。キリスト教も含めて、宗教の私事化著しい今日的状況下にあって、主にあって堅く立つことのできる真実を、この新しい年も、私たちめじろ台キリストの教会の中で確認することができましたら幸いです。旧年が過ぎ去り、新しい年が明けました。万歳!