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2005.03.20 「苦難と栄光の主」 廣田恵司兄
聖書 ダニエル 9:24〜27   (交読聖書 詩篇 13:1〜6)
 ダニエル書9章2節。 ダニエルは手にした文書にエレミアの預言があるのに目を留めます。エレミアは、エルサレムの荒廃が70年間であることを知ります(エレ5:12,29:10)。天の神は、懲らしめとして、反抗の民イスラエルを70年間の国外追放の刑に処されたわけです。ダニエルは、エレミアの預言を通して、神の意図を悟ります。
 そこで、断食し、荒布をまとい、灰を被って深く罪を悔い改め、神に嘆願します。4節からです。少し読んでみましょう。7節まで。
 4節から19節までが、ダニエル自身とイスラエルの罪の告白、そしてダニエルの取り成しの祈りです。そこへ、天使ガブリエルが来ます。神の御告げを伝えるためです(21節)。
 23節。ガブリエルが現れたのは、ダニエルの祈りに天の神が聞かれ、御告げをガブリエルに託したからでした。そして、それは心血を注いで祈り続けたダニエルへの神の答えです。
 果たして、天の神はダニエルの願いどおりにしてくださるというのでしょうか。

 その答えはこれから学ぼうとするテキストにあります。24節に注目しましょう。
 イスラエルの民と聖都エルサレムには、70週が定められている。ダニエルは祈りの中で、都が荒れ果て、イスラエルの民は惨めな捕囚の身の上であることを訴えました。この悲惨な状態を何時終わらせてもらえるのかを、神にお伺いしていました。御使ガブリエルの御告げは、ダニエルの願いをはるかに超える壮大な未来予告でした。
 70週がイスラエルとエルサレムに定められている。この70週の定めから始まり、その後で逆らいは終わり、罪は封じられ(つまり贖罪の献げ物を終わらせ)、不義は償われ、終わりのない正義(つまり終わりなき義なる方の時代)が到来し、幻と預言は封じられ、至聖なる方(コーデッシ コダシーム聖なる事が極まれる方)に油が注がれる。

 ガブリエルの報せは、先行きイスラエルのあり方を一変させる重要な未来予告でした。項目を整理して見ましょう。全部で7点あります。

 1.イスラエルとエルサレムに70週が定められている。
 2.それが過ぎると、逆らいは終わる。
 3.罪は封じられる。
 4.不義は償われる。
 5.永遠の正義が到来する。
 6.幻と預言は封じられる(完成する)。
 7.いとも聖なる方に油が注がれる。

 24節で、天使ガブリエルは、ダニエルに伝えます。7の70の週がイスラエルと聖なる都エルサレムに定められている。また咎を終わらせる。罪を終わらせる。悪と和解する。永遠の義をもたらす。まぼろしや預言を封じる。いとも聖なる者に油を注ぐ。
 この7点がイスラエル民族のこれから先、7の70の週に達成される。

 神への反抗の罪に70年の捕囚の刑がイスラエルに科された。その刑期が終えて祖国に帰還する。そして、イスラエルに今度は70週が定められている、というのです。週には年の意味もあります。だから70週は490年という期間を指していると取ることも可能でしょう。期間として490年が定められている、と捉えたほうがぼくたちには理解がしやすいですが、聖書は、あくまで週を基本にしています。
 捕囚は終わり、イスラエルは釈放され、エルサレムと神殿再建の勅令が発布される。誰から?ダニエルの仕えたペルシャ王のキュロスからです。これが70週の基点、出発点となります(エズ1:1)。

 24節では、まずイスラエルとエルサレムに70週が定められていることを伝えています。その70週が経過するとどうなるのか。 25節から27節までに、残りの6項目がどうなるかを記しています。
 25節には、エルサレム復興と再建の勅令が、出されたことが記されています。25節26節は、24節の個々の項目についての補足説明になっています。24節で天の神により「70週が定められている」事を受けて、その期間に起こる事柄についての解説です。
 まず、70週という期間は三つに区分されています。7週、62週、それに(27節)1週です。

 25節。「この事態を知り、目覚めなさい」で始まることから、24節を受けていることがわかります。「エルサレム復興と再建についての御言葉が出されてから、油注がれた君の到来まで7週あり、62週ある。」 ここにある「御言葉」ですが、ヘブル語の聖書ではダバールとあります。ダバールは言葉と言う意味です。英語の欽定訳聖書ではcommandmentと訳しています。めじろ台キリストの教会で使っている共同訳聖書の翻訳者たちが、この命令を出された方は天の神であるとして、「御言葉」としたのでしょう。

 ところで、ヘブル語など古代言語は一つの言葉に実に広い意味を持っているようです。これを現代語に置き換えようとしますと、どうしても限られた意味しか伝わらず具合が悪い場合が間々あります。この命令を出した当事者はペルシャのキュロス王ですから、「御言葉」の代わりに「勅令」としてもよかったかと思います。

 「油注がれた君の到来」 「油注がれた君」をヘブル語聖書はmashiyach nagiydとしています。マシャークは王とか祭司などが、その任に着くとき受ける油注ぎの儀式のことです。「君」と訳されたナギードは指揮官、支配者、総督、行政官、指導者、高貴な人などの意味があるそうです。マシッヤク・ナギードは、油注がれて、つまり天の神の御心を受けて、罪人を救う役目を負ってこの世に来られた神の子イエス・キリストをあらわしています。「油注がれた君」とは、イエス・キリストの地上での役割を表わす呼び名です。マシァークはメシアですね。

 「7週と62週」 7週は、次の行「危機のうちに広場と掘は再建される」ための期間です。「広場」は大通りの意味もあり、道の両側にものを並べて商いする市場ともなります。「堀」は、壁とも取ることができる。エルサレムの城壁。キュロスの勅令を受けて、エズラやネヘミアたちが、帰還してエルサレムや神殿の再建に励み、完成させます。この復興事業は、王のお墨付きがあるにも拘らず、反対者の妨害があって、中断したりして、大変な難事業になります。その辺の事情はエズラ記に詳しく記されています。

 62週は旧約聖書と新約聖書の中間の期間。沈黙の期間などと言われることがあります。しかしダニエルは11章や12章で、その期間に起こる、地中海周辺のギリシャ、ローマ、シリア、エジプトの激しい覇権争いを克明に預言しています。この詳細な預言の記述は一部始終を把握することが難しいところでもあります。アレクサンダー大王、プトレマイオス、マカベウスのユダ、アンテオコス・エピファネス、アントニュウスとクレオパトラ、ヘロデなどなど、多彩な人物が匿名で登場します。

 26節。この節には二つの非常に重要な事が預言されています。一つはイスラエルの民がメシアを死に渡すこと。もう一つはこのような酷いイスラエルの悪事に対して下される神の裁きです。
「62週」。最初の7週とこの62週をあわせると、69週になります。これで70週のうち69週が経過することになります。キュロスの勅令が出されてから、69週経過して、メシアが到来する。旧約の時代が新約の時代に入れ替わる。画期的な歴史転換の時期が到来します。

 「油注がれた者は不当に断たれる」。メシアは不当な死を迎えます。英語欽定訳聖書や去年インターネットで出された英訳聖書などでは、「メシアは断たれるが、彼自身のためではない」と訳されています。文語訳聖書でも同じ訳になっています。キリストの死は本人に起因するものではないことを表わしています。イスラエルの罪を贖うために人となられた神の子が、救おうとしているイスラエルの手によって不当な死に遭うわけです。ですから、「不当に断たれ」と表現した共同訳聖書は御子の死のあり方を表わした訳語となっています。

 「次に来る指導者」。この「指導者」は25節にある「油注がれた君」の君と同じナギードです。でも、言葉は同じでも、別人を指しています。25節のほうはイエス・キリストであり、26節のほうは対照的な人物です。この人物の率いる民によって、都エルサレムと聖所は荒らされます。「指導者」は誰なのでしょうか。

 現在の私たちには既に歴史となっているので、歴史の光りに照らして見ることができます。指導者はローマ軍の指揮官テトスです。テトス率いるローマ軍は、エルサレムと神殿を徹底的に破壊しました。ヘロデ大王が威信をかけ、40年の歳月をかけて再建した壮麗な神殿でした。イスラエルの誇りであり、拠り所でした。 マタイの福音書24:2節に、エルサレムの破壊について、主イエスの預言を記しるしています。主イエスは、神殿の石積みの一つの石も崩されずに、他の石の上に残ることはないと、悲しみながら預言されています。

 主イエスの預言は、40年後に現実となりました。

 「洪水」 エルサレムは丘の上にあります。乾いた土地柄です。洪水とは縁がありません。洪水は水による破壊です。強い破壊力をもっています。洪水や戦いは荒廃が避けられないことの預言です。

 27節。ここは第70週目についてです。最後の一週間に起こる事柄と、その先の将来に続く事の預言です。
27節は「彼は」で始まっています。一見、前の節の「次に来る指導者」を受けているようにも見えます。果たしてそうでしょうか。ローマのテトスだとすると、彼はイスラエルと何の契約も結んではいません。また聖書は「君」なるものが、将来イスラエルと契約を結ぶことを何も記してはいません。
 「彼」とは、イエス・キリストです。多くの者と同盟を固める。「同盟」と訳された言葉はベリート。契約の意味もあります。英語訳ではcovenantが当てられています。契約です。
 一週の間、主イエスは多くの者と契約を結ぶことになります。主イエスはマタ26:28で、「これは私の血による契約である」と言われました。最後の晩餐の席上でのことです。流された血によってキリストが契約を固められたのです。その記念として、めじろ台キリストの教会では主の日ごとに主の食卓にあずかっています。

 生贄と献げ物を廃止する(終わらせる)。
 「半週で生贄と献げ物を廃止する」。半週は3年半。主イエスが宣教されたのはおよそ三年半でした。その終わりに十字架に着かれました。主の十字架は、罪のためのなだめの供え物です。旧約のイスラエルが神殿で捧げた動物の犠牲は罪の赦しを願ってのことでした。動物の犠牲で象徴することにより、やがて来る贖罪の完成されるときまで続けられるべき宗教行事でした。イエスの血によって贖罪が完成されれば、当然それ以後の生贄は必要がなくなります。廃止されることになります。

 27節の後半の部分に憎むべきものと破滅が述べられています。主の宮の屋上に憎むべきものが座す。神殿が汚される。歴史はそれを実証しました。主イエスの予告とも合致します。
マタ24:15にあります。「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が聖なる場所に立つのを見たら―読者は悟れ―・・・・」。 

 主イエスが引用された70人訳ギリシャ語聖書(セプチュアジント)によりますと、27節を次のように訳しています。ぎこちない私訳ですがお聞きください。

 「そして一週で多くの者と契約を結び、そしてその週の半ばに、わたしの犠牲と飲み物の献げ物は廃止され、そして神殿の上には荒らす憎むべきものが、そして終わりのときには、荒廃に終止符が打たれる」。

 70人訳ギリシャ語聖書は、旧約と新約の中間の沈黙の期間に完成しました。翻訳者たちの、ヘブル語聖書と、そこに込められた神の意図への洞察力を感じさせる力作です。主イエスをはじめ、新約聖書の著者たちがもっぱら引用したのは、この70人訳ギリシャ語聖書でした。
 70人訳の「荒らす憎むべきもの」、それは忌まわしい事態の到来です。エルサレムと聖所は破壊されてしまいます。住民は多くが死に、生き残ったものは遠くへ連れ去られます。終わりの日までイスラエルは戻らない。

 ルカ21章20を開いてください。24節まで。
 主イエスが預言された「異邦人の時代」は今も続いています。終わりの日まで続くことになります。

 ダニエル9章の神への願いは、ダニエルの期待したことを遥かに超える、壮大な神の計画の啓示でした。ダニエルはエレミアに触発されて、捕囚の民の帰還を神に願ったのでした。破壊されたエルサレムや神殿の再建を願ったのでした。その願いは確かに叶えられることになります。しかし、その先が大変です。激動する世界帝国の変遷、覇権を巡る争いは延々と続けられ、終わることを知らないかのようです。イスラエル人や聖地はその戦争に巻き込まれ、折角再建されたエルサレムや神殿はまた破壊されてしまいます。
 ダニエルは祖国帰還がイスラエル復興の足掛かりとなり、神殿礼拝のユダヤ独特の礼拝形式が復活することを夢見たわけですが、神はそれを終わらせてしまう。メシアの到来が彼等の期待とは異なり、二度と再びかつてのイスラエル王国は戻らない。
 メシアの到来は神殿礼拝を終わらせてしまう。これはダニエルといえどもまったく理解できない展開となります。

 500年先に起こる大事件。それはイスラエルがモーセ以来、曲がりなりにも続けてきた律法のもとでの神とのかかわり。それがイエス・キリストによって、新しい契約の段階へと進んでいく。

 主イエスは死から復活されました。主の復活を記念する復活祭は一週間後に迫っています。おりしも主イエスはこの週の半ばに、人の罪のなだめの供え物として、十字架に着かれました。イエス・キリストの死は、直接的には、弟子の裏切りによります。またイスラエルの神への背きによります。しかし、血を流すことなしには、罪の赦しはありえないのです。
 主イエスは死んで葬られ、黄泉に下り、三日目に蘇えられました。天に昇り、神の右に座して、今も私たちのために、父なる神にとりなしの労を取っていられます。
 イエス・キリストの苦難と栄光を、受難週を過ごすに当たり、心に刻みたいと思います。