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2009/02/22  「故郷での孤独」――第三の拒絶―― マルコによる福音書 6:1-6

:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。

イントロ

「イエスはそこ[ヤイロや長血の女性を癒した場所]を去って故郷[ナザレ]にお帰りになった」という導入で始まる六章は、三章と同じように人々からの拒絶をもってはじまります。けれども、三章はエルサレムから下ってきた職業宗教人(律法学者)による拒絶であったのに対し、六章では同郷人による拒絶をイエスは経験されるのです。遠巻きに眺めていた宗教人からの拒絶も愉快なものではありませんが、身近な存在である同郷の人々からの拒絶は、精神的に相当堪えたことでしょう。

I.                   母会堂で語るイエス

このエピソードで弟子たちが果たす役割は皆無です。ですから、なぜ福音書記者はわざわざ「[ちなみに]弟子たちも従った」と但し書きしているのか不明ですが、会堂で語るイエスの言葉を聴いて民衆が驚いた背景には、イエスの語る神の言葉の内実を裏付けるような形で、大工[1]の倅が、いつの間にか――それもあっという間に――「ラビ」(ユダヤ教の教師)になってしまった、ということがあるでしょう。少なくとも、何の権威によって民衆を教え、ラビとしての活動をなすのか(つまり、どの先生の下の元で専門的な宗教教育[律法学]を受けたのか)が不明な中、ついこの前まで大工仕事で身を立てていた男が、弟子たちを引き連れてさっそうと現れ、いきなり会堂で権威あるもののように語り出したのです。福音書の報告では、治癒活動も少なからずされたきらいがあります。

6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。

マルコはここでイエスが語られた内容を記してはいません。しかしながら、ルカによる福音書には、恐らくこの場でイエスが語ったであろう内容が記されています(マルコがその情報を入手していたかは不明です)。

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。・・・」 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、4:29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。(ルカによる福音書4:16-28)

II.                   同郷人の無理解

さて、エルサレムの神殿職業宗教人ならいざ知らず、同郷の人々がイエスを全く理解しなかったという出来事に、福音書記者は何を見ているのでしょうか。何を私たちに語ろうとしているのでしょうか。

それは、「神の啓示に対する盲目」です。彼らはイエスの行う奇跡を見聞きして、あたかもマジックを見るかのように驚きはしましたが、その向こう側を見ようとはしませんでした。驚いただけで終わってしまったのです。イエスが語られたことが福音であった、という霊の驚きや感動はなく、そこに立っている男が預言者以上の「あの方」(メシア)であったという真実への開眼もなかったのです。彼らはアッと驚き、唖然としただけでした。イエスを幼い時から知り、身近に眺めてきたにもかかわらず・・・。

6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。

もっとも、マルコの語りでは、幼い時から身近に眺めてきたからこそ、同郷の人々はイエスの中にある命を見る事が出来なかった、つまずいたことが暗示されています。私もナザレの村に身を置きますならば、村人の困惑に大いに同情いたします。 たしかに、イエスは大工の倅だったのです。そして、たしかに、聖母などという神々しいお母上様ならぬ泥臭いナザレのおばちゃんマリアを母に持ち、四人の男の兄弟[2] と数はわかりませんが姉妹たちのれっきとした長男でした。少しは凡人よりも賢かったかもしれませんが、普通の青年だったのです。[3] 

この青年イエスは、恐らく、安息日ごとに、村人たちとユダヤ人会堂(シナゴーグ)に集い、神を礼拝していたことでしょう。少なくとも、村人たちがひっくりかえるような言動はそれまでなかったのです。ところが、ある日を境に突然「メシア」になってしまった! 人々が「驚き戸惑った」のも無理はありません。小さな村で始まった大変スキャンダラスな出来事でした。ちなみに、「つまずく」をギリシア語で「スカンダリゾ」と言います。英語のスキャンダルの語源です。

6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。

III.                   同郷人の無理解へのイエスの悲しみ

 この言葉を聞いてどう思われるでしょうか。母会堂という言い方が適切かどうかわかりませんが、市民生活と宗教生活が一体であった当時のユダヤ社会において、イエスが拒絶されたのは村人としてだけではなく、言わば母教会のような、宗教共同体の一員としてでもありました。本来一番理解していてほしい家族や同郷人が自分を理解してくれない、福音を受け取ることが出来ない、神がはじめられた新しい霊の業(命のたぎり)を自分の中に発見してくれない・・・。イエスの悲しみは、神の子としてのそれ、であったでしょうが、社会的にはマリアとヨセフの子としてこの世に生まれ、村人たちと共に育ったイエスの悲しみは、人としての悲しみ、でもあったはずです。それは家族や親せき、友人たちや会社の同僚、隣近所の人々から「キリストで(in)生きることを」理解されない私たちの悲しみと相通じるものがあります。イエスもまた愛する者から理解されず、それどころかその愛する者によって、十字架への道へと、結果的に、押し出されてしまいました! 私たちは、イエスは私たちの病を負ってくださった、私たちの悲しみを担ってくださった、と感謝をもって告白いたしますが、イエスが負って下さった重荷には、我々の罪の問題だけではなく、このような対人関係における私たちの生活の痛みも含まれているのです。

結びにかえて

6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。

 五節の報告は注目に値します。医者を求める者以外は、助けたくとも助ける事が出来ない。ルカによる福音書の並行個所はそのように私たちに暗示しています。「自由意思論」対「予定論」などと神学議論を始めますとややこしくなりますが、少なくとも福音書は、「医者を必要としない人々」には何もできない、と端的に語るのです。

もっとも、聖霊が降臨したペンテコステ以降の時代を生きる私たちは、それでも聖霊は閉ざされた人の心を開いて下さる、霊の眼を開いて下さる、と信じていますし、そのように祈ることを奨励されています。仮に、イエスのように、人々の不信仰に驚いたとしても。


[1] ここで大工と訳されているギリシア語は「石で仕事をする建設手工業者」を指すことかもしれない(NTDマルコ、166)。二世紀の教会教父ユスティノスは、イエスは木の鋤や軛を使っていたと伝えている。
[2] 従姉妹という説もあるが、論理的にそのように考えることは難しい(NTDマルコ、167参照)。
[3] 父ヨセフについて言及されていないところを見ると、定説通り既に他界していたのかもしれません。