メッセージバックナンバー

2011/10/02  「世界人(コスモポリタン)イエス」 ――「世」(コズモス)に込められた福音
―― ヨハネによる福音書3:16

:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 先日友人からこのようなメールを受け取りました。

私は先週、仕事が最悪な週で、「イエスさま、今日も怪我などが起こりませんように、お守りください」と祈っていたにも関わらず、連日怪我続きで、神様に見放されたように思えました。そうしたら、先日入籍した友達が、職場で結婚祝いをしてくれたらしくその時使ったブーケを汗かきかき、暑い中「どうしても、あなたに渡したくて」と持って来てくれました。神様が「忘れてないよ。祈りを聞いているよ」と言ってくれているような気がしました(←単純)」。

 実はこのお話には伏線があります。「教会とは無縁の友人でもブーケを持ってきてくれる人もあれば……」とは言わないまでも、同じメールの中で、通う教会に律法主義色彩が強く、そのような色合いを持つ人々の言動で傷つき悩んでいる友人がいる、というニュアンスの文言がありました。このような相談と言いますか、悩みが時折私のEメール受信箱に舞い込んできます。

 よその教会のことですので、慎重に言葉を選びましたが、イエスの福音を福音としてお伝えしたかったので、以下のような返事を書き送りました。

 イエス様も女性であれば、同じことをしかたもしれません(ブーケを届けたこと)。何しろ友人を大切にする人間好きの方でしたから。持つべきものは人を愛する友です。
  ところで、今から20年ほど前、このような逸話を私の恩師から聞きました。私に新約聖書とギリシア語を手ほどきしてくださった織田昭という方です。この方はギリシア国立アテネ大学で学ばれたのですが、当時師事していた神学部の指導教官シオーティスがピレフスの港に織田さんを連れて行った時ポツリ一言。「織田君、ポリス コズモス!」 人で溢れかえる港を見て発した言葉です。意味は「たいへんな人出だね。」

 この「コズモス」というギリシア語は、ヨハネ3:16の福音宣言の中にある「神は…『世』を愛された」の「世」(世界)の原語です。実は、「コズモス」には「世界・世」の他に、「人々・人間」という意味もあるのです。「世」などと言いますと何とも抽象的な印象を受けますが、ギリシア語が内包する「世」の概念は、具体的「人々」でした。これは現代ギリシア語でも変わりません[1]。 
  ヨハネはギリシア語の概念を借りて、このように宣言したのです。「神は実にそのひとり子を賜ったほどに『人間』『人々』『私たち』を愛された!」 ブーケを持ってきてくれたあなたの友人、なかなかの世界人ですよ。世界の中にちゃんと生身の人間を見ている。人間を「世界」や「教会」や「集会」や「公会」などという言葉で抽象化してしまわないで、ちゃんとあなたという唯一の存在を看て、大切にしている。思えばイエスもそんな方でした(もちろん、それぞれの名称自体に問題があるのではありません)。

 お父さん(父なる神)に負けず劣らず、イエスは実に「世」を愛されました。結婚生活で失敗した人、家族の破れに打ちひしがれている人などは言うに及ばず、遊女、無資格不正税金取り(徴税人)、重い皮膚病患者、出血病の女性などなど…主イエスは彼らを訪ね歩き、手当たり次第一人ひとりに触れられました。レビ記の厳しい禁止事項などなんのその、その一人ひとりに触ったんです。彼らがそんなイエスの温かみに触れ、どうなったか、何を経験したか……。「自己の贖い」「存在の回復」です。

イエスに触れられた人もそれを目撃した人も、イザヤ書の言葉を思い出しながら、神の約束に思いを馳せたでしょう。その幾人かは、イエスが約束のメシアであったことにハッと気付きました。たといおぼろげであったとしても、「福音」に気付いたのです。

その日には、耳の聞こえない者が/書物に書かれている言葉をすら聞き取り/盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる(イザヤ書29:18)。

論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる(イザヤ書1:18)。

 「文字は人を殺すが、霊は人を生かす」(IIコリント3:6)のパウロの言葉は、イエスのぬくもり、イエスを通して看取した神の愛に触れて(触れられて)経験した「存在の回復」あってのことでした。

 私たちは弱さを持っています。神を矮小化してしまうという弱さです。究極的な言い方ですが、私たちは私たちの主観を通してしか神を理解することはできません。神はこの主観に語りかけて下さいました。であればこそ、ですが、私たちは徹底的自己相対化(「自我の向こう側へ」というベクトル)の努力を惜しまず、大きく、高く、深い神の懐に自己を委ねましょう。神の矮小化は「的外れ」なことです。イエスは手のひらサイズの自分だけの神を作り出してしまっていたファイリサイ派の律法学者たちに、「白く塗った墓!」と激しく臨みました。激しすぎるくらい辛辣な言葉で凄んだのです。

 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。…律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。…律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷[2]、いのんど[3]、茴香[4]の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。…ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。(マルコ23:2-28)

 主の厳しい言葉です。ただこの厳しさは深い悲しみの表れでした。この直ぐ後で主イエスはエルサレムのために涙を流されます。律法の中の神の愛、神の恵み、神の憐れみを完全に見失い、律法を人を縛り苦しめる教条化の道具としてしか見ることのできなくなってしまったファリサイ派の的を外したあり方に対して、神殿を民衆搾取の宗教システムに貶めてしまった神殿貴族階級のサドカイ派に対して。

 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」(23:37-39)

 「ファリサイ派の人たち」……福音書では福音書記者の視点で書かれていますので彼らの印象はこのように甚だ悪いのですが、ファリサイと言う言葉に「分離した者」と言う意味があるように、実は彼らは世俗化したユダヤ教の宗教改革運動から出てきた大変真面目な人たちでした。クソが付くほど真面目だったのです。ただ、その真面目さが裏目に出て、イエスの時代には木だけしか見えなくなってしまっていたのです。森が見えなくなってしまっていたのです。律法の文字だけしか見ず、その行間にある霊、父なる神の心が見えなくなってしまっていたのです。

 今一度思い起こしましょう。律法の中の神の心、預言書の約束が何であったか。

神は、独り子イエスを「神の救い」としてお与えになったほどに、「コズモス」(私たち一人ひとり)を愛された。イエスをキリストと信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

 うだるような暑さが続いた夏は過ぎ去り、もうすっかり秋です。めじろ台キリストの教会隣の空き地のススキの中から秋の音色が聞こえます。律法主義とは無縁な天然自然の虫の鳴き声がこだましていています。秋が到来しました。収穫の秋、感謝の秋、そしていつしか旅立つ天国へ思いをはせる秋です。

 主の平和がありますように。


[1] Stavropoulos の字引にも第二義として紹介されています。Stavropoulos, D. N. Oxford English-Greek Learner’s Dictionary (Oxford: Oxford University Press), 1988.
[2] シソ科はっか族の多年草。
[3] セリ科の植物。学名:Anethum graveolens、別名:ディル(花期:春から夏)。
茴香に草姿が似ていて、それより小さいので姫茴香とも呼ばれる。果実は清涼な香り、舌にピリッとくる刺激のある味がある。
[4] セリ科の植物。学名:Foeniculum vulgare、別名:フェンネル(花期:夏)
葉は細かく分かれて糸状。果実は香りが強く、薬用・香味料として使われる。消化を助け、口臭を消す薬効がある。