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2010/8/29  「愛とそれが向かう先」 マルコによる福音書 12:31;
第二コリントの信徒への手紙 9:19-23

イントロ

 毎日「愛」という言葉目にし、耳にします。「愛という言葉で表現される現象」は傍から観察しますと、まことに多種多様です。最近は性の区別も曖昧になり、巷で言われる愛のコンセプトがよく分からなくなってきました。

 とは言え、愛という言葉が美しい響きを持っているのは事実です。家族や心惹かれる異性を思う時、愛という言葉の美しい旋律が心を豊かな何かで満たしてしまいますでしょう。それが本物である時、その中には「無条件」という言葉が透けて見えるはずです。「愛という言葉で表現される現象」以上のものです。

 というわけで、今朝はややエッセイ的に、「無条件の愛」とそれが向かう先を考えてみたいと思います。

I.                  無条件の愛

第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ福音書12:31)

 マルコ福音書 12:31 は、私達に「無条件の愛の何たるか」を示唆してくれる聖書個所の一つです。その主張は簡潔明瞭、解説の必要は全くありません。
 けれども、言うは易し…です。一見簡単そうに見えるこの教えほど厄介なものはない、と経験上考えています。と言いますのは、人を愛する愛し方というのは、己をどの様に愛するかによって決まってくるからです。もし自分を愛せないのであれば、大変難しい問題を「愛」という言葉に中に孕むことになります。
 キリスト者になったとしても、己の中に潜む汚い部分(罪の性質)が即座に消滅するわけではありません。キリスト者の生涯はある意味、そのような自分と向き合い、キリストの清さと神が始められた聖霊の業により頼む一生なのです。しかしながら、完全主義と言いますか、潔癖で自分に厳しくまじめな人は、時に、そのような神の前に全く不完全な自分の現実に幻滅しがちです。罪に汚れた自分を見てダメ人間だと思い込んでしまうのです。もし、そのようにしか己が身を見ることができないのだとしたら、自己を愛するのはまことに本当に厄介な作業になりますでしょう。

 「自分を愛するように隣人を愛せ」という言葉に込められた意味は深遠です。自分を愛せない人は隣人を真に愛することはできない…。他ならぬ自分を御子キリストの故に愛せない人が、他人をどうして愛し受け入れることができるでしょうか。「自分を愛するように愛せよ」とは、まさに神より無条件の愛で愛されている自己存在を自覚し、頂いた同じ無条件の愛で隣人を愛しなさい、ということなのです。ペトロがイエスに尋ねたように「7回」までという条件付きの愛ではなく、7の70倍、つまり完全の完全、無限の無限という、条件付きではない無条件の愛でです。パウロは言います。「自分が神から愛されていることを知り、それによって生きる人に対しては、この愛はどこまでも溢れ流れていく」。

II.                  無条件の愛の輪郭

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(第二コリントの信徒への手紙9:19-23)

 パウロは偉大な伝道者でした。その偉大さは彼の一貫した姿勢にあります。それは今お読みした箇所に記されているように、他者と同じ所に立ち、何とかして同じ目線で理解しようという姿勢です。寧ろ、他者よりも低い目線に立とうと努力した言った方が良いかもしれません。
 まず20節ではユダヤ人に対する姿勢が語られており、ここに彼のユダヤ人への愛の配慮が見受けられます。パウロ自身は基本的に「私は律法の下にはいない」と完全に言い切れるまでにユダヤ律法の束縛から自由にされていましたが、それでも彼はユダヤ人を救いへと導くために、敢えてユダヤ人の風俗習慣に従い、律法の支配に服している者のように振る舞ったのでした。例えば使徒言行録18:18には、パウロがナジル人の誓願を立てたことが記されています。ナジル人については民数記6:l-2lに記されていますが、ある特別な請願によって神に捧げられ、聖別された人のことであり、その請願期間中は酒を断ち、頭髪を剃らず、死体には触れなかった、とあります。
 ユダヤ教の律法からの自由を主張し続けてきたパウロにもかかわらずこのようなユダヤ律法の誓願を立てたのは、彼がユダヤ人クリスチャンとして自分の民のある種の習慣と秩序に、それらが福音と彼の伝道者としての務めに接触しない限りにおいて従っていた、ということを示すためでした。この請願はパウロの第二次伝道旅行の途中で行われましたが、これから行こうとしているエルサレムのユダヤ人たちの躓きの石にならないための配慮として、また、まだユダヤ教の律法から抜け切れないでいるエルサレム教会のユダヤ人クリスチャンに対する配慮からでした。
 異邦人に対する姿勢は21節で語られています。パウロは異邦人に対してはキリストの中に留まりつつ、彼らの風俗習慣、宗教観、価値観を理解しようと努めました。使徒言行録17章のアレオパゴスにおける説教などはその典型です。彼は異邦人に対してユダヤ人の選民意識を持ちながら接したのではなく、同じになろうとしたのです。当時の一般的ユダヤ教の宗教指導者たちは、ユダヤ人以外の民族を人以下と見なしていました。
 この次の22節に出てくる弱い人々に対しでもまたしかりです。ここで言われている弱い人とはキリスト者共同体の中の弱い人達のことです。直接的にはユダヤ律法から抜け切れていないユダヤ人と、逆にユダヤ人から律法を強要されたり、軽んじられていた異邦人のことでしょう。

 私はパウロの「上から下への同情的哀れみではなく、その人と同じ立場に立つように努める」という姿勢がどういうことなのかを考えさせられ、それが如何に大切であるかを身をもって学ばされたことがありました。カナダはサスカッチュワン州にあるとある小さな先住民居留区でです。

 私が気付かされたのは、もし隣人を心より理解したいと心より願うのであれば、その道をさぐるのであれば、伝道のテクニックはどうあれ、キリストの愛、福音は伝わるということです。隣人を理解できれば配慮もでるでしょう。そして他者理解の感性が増せば、他者との同質性を己の中に発見するでしょう。その思いは言霊となって必ず伝わるはずです。

結び

 「キリストの愛の実践」……言うは易しでしょうか。かもしれません。けれどもキリストの愛で包まれた時、私たちに何が起こったか私たちは体験的に知っています。安んじて神の愛の器として用いて頂こうではありませんか。