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2008/03/30 「春の到来」―命のいぶきの宗教的原体験― 
ルカによる福音書24:13-35 吉良賢一郎

:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」:19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」

復活節の第二週目の日曜日を迎えました。今年度最後の主日です。新しい年度の開始を待ちきれないかのように、草花はますます地面から顔を出し、その一本一本が、一輪一輪が、この朝、私たちと共に復活の命を謳歌しています。春のいぶきの中で、古代人たちの霊の感動は決して原始的なものではない、とつくづく思わされるのです。私たち現代人も、毎年春に起こる「復活の命」のたぎりを、古代人たちの感動共に、ビリビリ感じているでしょう。とりわけ、私たちキリスト者には、春のいぶきは、イエスの復活を心の中に呼び起こさずにはおれません。それはさながら、エマオへの道のりを歩いていた二人の弟子たちが経験しことに似ています。「私たちの心は燃えていたではないか!」 冒頭にあげましたルカによる福音書24:13からの下りです。

もっとも、皆が皆このような春の神秘に感じ、命の再生に感動するわけではありません。ある人には「当たり前の自然現象」にすぎないでしょうし、ある人には、優鬱な新年度の開始を告げる悩ましい「繰り返しのサイン」にすぎないかもしれません。確かに、近代以降の自然科学者でなくとも、今まで地球の歴史の中で幾度も春が繰り返されてきたことを私たちは知っています。ですから、「なにもわざわざ『春が来たー』と大げさに騒ぐな」「『復活だー』などと大げさなことを言うな」と言われれば、それはそうなのです。たしかに春は毎年繰り返されています。 けれども、私たちは敢えてこう言いたい。「なんだかわからないが感動で心がうずく!」「命のいぶきのようなものに触れて心動かされる!」「自我を超えた存在の原体験のようなものを感じる!」と。 この感動は極めて宗教的です。

皆が皆春に感動するわけではないと申しましたが、キリスト教以前のイースターの起源を語るまでもなく、キリスト者であるなしに関わらず、実は世の多くの人が、なんだかんだ言いながら、春のいぶきを感じ、心動かされているのではないでしょうか。感動しない人の方が、本当のところは、少ないでしょう。自覚するしないに関わらず、春の日差しの中で、私たちは「宗教的体験」をしているのではないかと思うのです。それは言わば、物事を規定するS(主)=P(述語)の図式から解放された宗教の原体験、とでも言えるものです。

宗教的原体験――禅の概念を借用するならば「『無』の境地」(心身脱落、脱落心身)、天然自然(無為自然)の体験です。文学的表現をしますならば、春が奏でる詩(うた)、そこに広がる牧歌的風景を、ありのままでその身に受けるということです。この「ありまのまま」の体験は、人の理屈を吹き飛ばします。人を更なる存在の深淵へと指向させるのです。 大空のもと、春の草原の中でたたずむ人は、命の波動に圧倒されてしまう、不思議な魔力に魅了されてしまう、と言えば少しは解って頂けるでしょうか。

エマオへの道のりを歩いていた二人の弟子たちですが、彼らが経験したことは、まさにS(主語:そのもの)=P(述語:我々の知っている観念)から、S=Sへの体験でした。[1]

始め彼らは、旅程で出会った見知らぬ旅人に十字架という出来事、イエスと言うお方を一生懸命説明したのです。

この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。:20それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。:21 しかし私たちは、この方こそイス
ラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。

イエス様にイエス様のことを一生懸命説明した。珍妙な光景です。けれども、ルカ伝は、この珍妙な弟子たちの話を黙って聞くイエスの姿を私たちに語ります。黙って最後まで二人の話を聞くイエスの優しさがにじみでている微笑ましい光景です。

けれども、やはりこの絵は珍妙なのです。何が珍妙か。それはイエスの弟子たちがイエスにイエスというお方を語り聞かせることだけにあるのではありません。それだけではなく、二人がP(彼らの頭の中で解釈されたイエス――力ある預言者)を語るばかりで、S(ありのままのイエス)そのものには全く開眼していないその様が、珍妙なのです。当然のことながら、彼らはP(Sについて)しか語れず、Sを理解することができませんでした。

そのような彼らにイエスは優しいまなざしで、鋭い一言を突き付けます。

「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」

主のこの言葉は、私たちの耳にも痛い一言です。そして、一世紀から今日までのキリストの全諸教会が心して聴かなければならないイエスの言葉なのです。

主イエスは聖書全体からご自分のことを今一度解き明かされました。

イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

けれども、弟子たちが共に歩かれている方が主イエスであると悟ったのは、イエスからの説明を受けている時はありません。イエスがパンを裂かれた瞬間に、イエスと言う出来事、キリストという「事」に眼が開かれたのです。「これはあなた方のために裂かれるからだだ」と言われたお方(S)を、そのもの(S)として経験した時にです。ここから私たちは(目に見える)「事実」が信仰を生み出すのではなく(天来の)「真実」が信仰を生み出すこと、「言」(の集合)が智解を生み出すのではなく「事」(神的ドラマ)の実存的体験が智解を生み出すことを学ばされます。

彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。

その時、イエスと再会した時既に、彼らの心の中に沸き起こっていた「復活の命のたぎり」に気づいたのでした。

「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」 

福音書は、「イエスが霊の眼を開いてくださったので」彼らはキリストという出来事に開眼し、復活の命に気づいた、と語ります。この後、同じことが他の弟子たちにも起こりました。そして、使徒言行録は、この霊を受け
た弟子たちが、イエスと言う出来事に開眼し、復活の命に燃え、イエスの証人となっていくさまを克明に描きます。

復活のイエスと出会った弟子たちはガリラヤにいました。牧歌的景色の広がる田舎町です。近くには鳥のさえずりの聞こえるガリラヤ湖がありました。この時、今まで当たり前のようにそこにあったガリラヤ湖は、彼らにとってもはやまったく違ったものになっていたでしょう。それまで当たり前のようにあった自然や当たり前のようにやってきた春は、神からの真実の賜物となったのです。そして、その中で生きている己の命が必然ではないことにも気がついたはずです。命は自ら生きているのではなく、生かされている、という・uオ然自然(天があらしめることによって自らが存在する)の真実に開眼し、文字通りの神授の余命に慧眼をもって気づいたはずです。それが彼らをキリストの使徒として押し出し、キリストの福音の使者としての使命に生きる人生にいざないました。復活の命のありのままの体験、宗教的生の原体験が、彼らを世界へと押し出したのです。 

春に感動し、復活の命に感動し、庭でメジロがさえずっています。私たちめじろ台教会も今一度、詩心をもって、メジロの賛美に合わせて、今年も春を経験させてくださった神に心からの感謝を捧げたいものです。聖霊はこれらもきっと、命の日の限り、私たちを導いて下さいます。



[1] S=Pの関係は、SがPに包摂・解消され、結果的に、PがSを優越してしまう、とう主格逆転の本末転倒である。日常世界の現象で言えば、無意識のうちに社会通念としてのPが個々の存在であるSを優越するようになる、ということ。