:1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。:2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。:3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。:4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。…:13 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。:15 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。:16 ものの見えない案内人…:23b あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。…:27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。…:29 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。:30そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。:31 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。
イントロ
「クリスチャン・センチュリー」という神学的にはいわゆる自由主義神学陣営に属する米国のキリスト教雑誌があります。先月号で宗教巡礼について特集が組まれていました。巡礼と言いましてもキリスト教やユダヤ教の巡礼に限定されたものでしたが。
宗教巡礼と聞いてみなさんはどのようなものを想像されるでしょうか。四国の88か所を巡るお遍路のようなものでしょうか。熊野古道を歩く聖地巡礼のようなものでしょうか。あるいは、富士講のような霊山としての富士山登山でしょうか。けだし日本には数多くの「巡礼路」があります。大枠で捉えるならば、正月の初詣も一種の巡礼と言えるでしょう。もちろん、その中には商業目的や娯楽が目的の巡礼ごっこが多いのは事実です。
けれども、巡礼に参与する人は不思議とそこにある宗教空間にいざなわれ、「ごっこ」だったはずのハイキングや散歩が、一種の「ホンモノ」の巡礼に昇華することが多々あるのです。
さて、人はなぜ巡礼するのでしょうか。何故わざわざ起伏の激しいけもの道を歩くのでしょうか。何故高山病になりながらも富士の頂上でお鉢周りをするのでしょうか。ある四国のお遍路のHPには「弘法大師とともに大願成就!」とあり、巡礼者の対象として、心を癒したい人、自分を見つめ直したい人、これからの生き方を考えたい人、人生に挫折した人、仕事に行き詰まった人、病気に打ち勝ちたい人、悟りを開きたい人、今までの人生に懺悔したい人、いろいろな供養をしたい人、心を清めたい人、生きる喜びを見出したい人、今の苦しみを取り除きたい人、88の煩悩を消し去り
たい人、生きる目標を見出したい人、水子供養をしたい人、先祖供養をしたい人、ストレス解消をしたい人、いろいろな祈願をしたい人、を挙げていました。[1]
「人はなぜ巡礼するのか」と問われるならば、私は、ある四国のお遍路のHPが実に見事に列挙した、上記の人生の局面がすべての人に等しく当てはまるからである、と答えます。ハイキングのつもりで、登山のつもりで、観光のつもりで足を運んだ聖地(と言われるところ)や巡礼路で、多くの人が真の巡礼者になってしまう理由はここにあると思うのです。そして縦の線で考えるならば、自分の限界を噛みしめながら一歩一歩足跡を残していった無数の先達たちの人生の呻き、命への感謝、限界超えへの願望のこだまが、斯かる人を、正味の生の「場」と「道」の深淵に押し出してしまうのだと思うのです。そこにいざなわれた人は、知らぬ間に、自らもまた己の足で、一歩一歩真実の人生を表現することになります。
I.. 巡礼のパッケージ化I.
けれども、社会のデジタル化が進み、ボタン操作一つで大量の情報を入手できる今日、また、人間の苦難にまるでコンピューター化した神様のように瞬時にして「インスタント処方箋」を与えるカリスマ宗教的エンターテイナーが跋扈(ばっこ)する昨今、巡礼にもある種の変化が起こっているように感じられます。その変化とは、「巡礼のパッケージ化」です。巡礼を動的且つ線的「旅程」と捉えないで、固定化された点的「処方箋」――パッケージ――として捉えるということです。斯かる人たちは、自分の足で聖地を訪れたり、巡礼路を巡り歩くことはいたしません。コンピューターの画面上で指で巡礼ごっこをするか、プロの代理人を立て、この世であれ、あの世であれ、身代わりとして行ってきてもらうのです。そして、指の巡礼者と巡礼依頼人たちは自ら労せずして、デジタル回線と代理人によってもたらされた「万能薬」の処方箋パッケージをいとも簡単に手に入れるのです。
その時彼らの精神は満たされるでしょう。けれども、自らの足で人生のあぜ道を歩くという体験のない彼らには、まことの巡礼者が獲得する「悟り」(「分からない」という悟りも含めて)を獲得することは決してできません。
ジョン・バニヤンの作品に「天路歴程」(Pilgrims Progress)という物語があります。主人公のクリスチャンがさまざまな艱難に遭いながら天国への信仰の歩み(巡礼)をなすというお話です。バニヤンはこの物語を通して、キリスト者の巡礼の姿を描いているわけですが、翻って今日のキリスト教界の事情を観察しますとき、バニヤン的なキリスト者の在り方は往々にして避けられるか否定される傾向を感じてなりません。その代りに、信仰のデジタル化、インスタント化、聖書の文字化(物語の喪失)、あるいは聖書のロマンチックな改竄(物語のでっち上げ)、聖霊の感情化(精神の高揚)、キリストのフィギア化(ミニチュア化)、神の対象化(モノ化)、礼拝からの神的ドラマの喪失(礼拝のプログラム化)といった深刻なパッケージ病が、ジワリジワリと熱狂的な教会とクリスチャンを蝕んでいるように思うのです。
II. パッケージ化された巡礼からの脱却
今朝の聖書箇所はイエスがファリサイ派と律法主義者たちを苛烈に叱責する場面です。私たちは、実は、この箇所から、宗教的達人になりきれない平平凡凡の罪びとたちに福音のメッセージが届けられたのだ!という主イエスが熱く語った「よきおとずれ」(エヴァンゲリオン=グッドニュース)を逆説的に知ることができるのですが、ここでイエスがファリサイ派と律法学者たちに飲み込ませようとしていることは、宗教を、宗教の真理を、信仰者の天路歴程を、パッケージ化するな!、ということです。巡礼のパッケージ化は、デジタル化した現代社会の問題であるだけではなく、古代のアナログ時代にもあったのです。
特に29節から31節に注目して下さい。イエスは言います。
:29 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。
:30 そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の 血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。:31 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。
預言者たちを代理巡礼者と見立てて聖人化し――彼らの「徳」(メリット)をパッケージ化し――彼らを担ぎ上げるファリサイ派や律法学者たちは、己の足で人生の巡礼をしていないではないか!、とイエスは厳しく指摘するのです。その結果が、神が与えて下さる義と慈悲の欠如であり、外側は立派だが有頂天外、中身は空っぽという現実です。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。(:27-28)
マタイによる福音書の23章だけを抜き出して読みます、鼓膜が破れそうになります。それはイエスの言葉の苛烈さだけにあるのではありません。
非難の対象となっている宗教的達人の在り方と、その影響の深刻な波及が他人事とは思えないからです。 達人の域には程遠い者はありますが、私もまた無意識のうちにキリスト教を、信仰者の歩み(巡礼)を、パッケージ化して達人面している時があるかもしれませんし、あたかも達人のように振る舞っている時があるかもしれません。少なくとも福音の壮大なドラマ、公同礼拝の本質を見失い、森ではなく木をばかりみて、経験の伴わない似非キリスト教の似非知識人の疑似巡礼者、或いは、宗教的熱心に浮かれた根なし草のルンペン(巡礼者に非ず)になり下がっている自分を時折
発見するのです。13節がグサリと胸に突き刺ささります。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」 15節では伝道者としての存在の在り方が問われるのです。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。」 そして、福音のパッケージ化に忙しい心眼の盲人め、というイエスの声が聞こえてくるのです。
ただ、一言フォローしたいのは、私はともかくとしても、ファリサイ派と律法学者たちは、実は、真面目を絵に描いた人たちであったということです。彼らは本来、世俗化したユダヤ教内の宗教改革者たちでした。 けれども、その信仰の熱心さのゆえに、信仰のダイナミズムを失い、(キリスト教会誕生後の)ユウカリスト(聖餐)を中心とした礼拝の壮大なドラマが見えなくなってしまっていたのです。一生懸命木を見るばかりで、森の中を自ら歩き、その世界をじかに体験し、そこに満ち満ちた霊の息吹を吸うことをやめてしまったのです。それが巡礼のパッケージ化という悲劇の始まりでした。イエスはその点を鋭く指摘したのでした。
結び
今朝は信仰のパッケージ化について共に考えました。正味の人生の巡礼は数学のようには割り切れません。一歩一歩自分の足で踏みしめながら、矛盾を体験していくしかないのです。人生のパズルを組み立てていくしかないのです――もっとも、真実は、イエスが私たちを背負ってくださり、神が私たちをその翼に乗せてくれているのですが…。
山上の説教でイエスはこう言いました。牧歌的な空気の中でです。
心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。(マタイによる福音書5:3-12)[2]
パッケージ化された巡礼は、人を一時の興奮や自己満足に駆り立てることはあっても、その歩みを旅と化し、永続させることはできません。パッケージ化されたインスタント巡礼者から聞かされる宗教的駄弁りが退屈極まりないのは至極当然です。私たちが聴きたいのは信仰のドラマであり、一本道での連続した正味の実存的宗教体験(神的ドラマ)なのです。
耳を澄まして下さい。イエスの声が聞こえてきませんか。「私は『道』であり、真理であり、命である。」 神は私たちを真実の巡礼へといざなっています。
[1] 上記に加えて、病気治癒祈願、家内安全祈願、安産祈願、交通安全祈願、学業向上祈願、五穀豊穣祈願、商売繁盛祈願、厄除け祈願、無病息災祈願、子宝祈願、身体健全祈願、良縁成就祈願、が列挙されています。http://www.junpai.co.jp/ohenrotoha/index.html 参照
[2] 昔大阪聖書学院で書いたあるレポートの中で「山上の垂訓」と書くべきところを、ワープロの変換ミスで「山上の睡訓」と書いてしまいました。戻ってきたレポートのその個所には朱色のペンで担当教師の「イエスの福音は人を眠らせるような退屈なものではない」との一言が。現学院長、中野卿代先生の書生さんのような文字でした。蛇足の昔話です。 |