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2012/01/15  「受け取り合っての福音」――福音が福音になる時―― マタイによる福音書1:1

イントロ

 マルコ福音書の冒頭には「イエス・キリストの福音の始め」という宣言が記されています。イエスが宣言された福音が、イエスによって始まった神の国の業がどのようなものであったのか、どのように展開していったのかしかと読み取ってくれ、という福音書記者マルコの提言です。つまり、イエスが人々の所を駆け巡り、救いを必要とする一人ひとりのもとに自らおもむき、存在への勇気を失っていた人たちに、もういちどこの世を生きる勇気、自分を受け入れる勇気、実存的存在者となる勇気を与え、その存在を回復した出来事に目を向けよ、と言うのです。しかも、それが一過性のものではなく、十字架と復活の出来事によって、いわば、決して消えない永遠の約束として、それぞれの体に存在回復の刻印を刻みつけられた、という真実へのいざないです。
「今から私が語るイエスと言う福音の出来事は、その福音に触れる者すべてに存在の回復を生起させずにはおらない!」 マルコの力強い福音宣言です。

 この「福音」という言葉は、ギリシア語「エヴァンゲリオン」の訳語です。「良きおとずれ」(良いお知らせ)という意味の言葉ですが、「良い」と「メッセージ」という二部から成り立っています。古典ギリシア語を勉強した方なら、「ウアンゲリオン」という発音で覚えておられるかもしれません。実は日本語聖書で伝統的に「福音書」というタイトルが冠されている書物は、ギリシア語原典では「ト エヴァンゲリオン カタ…」、英語ではThe Gospel According to…)と記されており、書物という意味はありません。ですから、マルコによる福音書であれば、「マルコによる福音」(マルコが伝える福音)という意味なのです。

 今日は「福音」という言葉と「受取手」の関係を中心に、エヴァンゲリオンと呼ばれる福音について考えてみたいと思います。もっとも、今朝は福音の内容を逐一確認する作業はいたしません。来週に予定している、主イエスのバプテスマに繋げたい、と思ってはいるのですが、冒頭申し上げましたイエスの活動とイエスの十字架と復活、という中心点だけを念頭において頂ければと思います。


I.                  重要な問い

 古代から現代まで、イエスとは一体「誰か」「何か」という議論が教会の内外でなされてきました。ひと昔前ほど盛んではありませんが、イエスを巡る議論は今日でもなお健在です。一言でまとめますと「イエスとはどなた」「イエスと言うあの現象はなんだったのか」ということになるのですが、具体的には(教義学の)「キリスト論」や(歴史学の)史的イエス論などです。福音を語ったあのイエスをどのように理解したらよいのか、あの人を誰だと言ったら良いのか、という問い。そこには、当然、主イエスがお語りになったメッセージへの検討も含まれます。イエスが語った福音は何であったのか……。古代から今日まで、教会の内外でこのお方とこのお方が語った福音について様々な議論が展開されてきました。教会の外では評論家的に、と言って良いと思いますが、教会の中では自分たちの信仰の対象を問う、大変重要な主体的事柄だったのです。

 さて、今朝、この問いの最前線に置かれている私たちは、ひとつの決定的告白を求められています。この福音の証言を前に、「君たちにとってイエスは誰か」という問いに対して、教会共同体として、キリスト者個人として、キリストと出会った者として、ひとつの告白が求められているのです。私たちはどのように答えるのでしょうか・・・・・・。それは言わずもがな、ですね。「イエスはキリストである」という一言です。イエスは救い主であるという告白です。(「イエス・キリスト」という呼び方は、古代教会では信仰告白でした。ギリシア語の「である」とでも訳せる動詞[エスティン]を省略した形です。)


II.                  福音が福音となる時

 ただ、もう少し具体的な問いを発してみましょう。私たちが「イエスの福音」という時、そこに何がイメージされているのでしょうか。マルコ福音書の冒頭にある「神の子イエス・キリストの福音の初め」という一句に、私たちはどのような絵を思い描いているのでしょうか。ヨハネ福音書3:16の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という福音宣言にどのような語りかけを聴きとるのでしょうか。

 今日は聖書の具体的個所をあまり挙げずに奨めをしていますが、実はこの問いを考えるにあたり、ひとつの提言を念頭においています。その提言とは、「福音とは」といった説明ではなく、「福音はいつ、どんなときに福音になるのか」という福音のコトそのものに関してです。ここで私が考えていることは、聖書も福音も、それ自体では「である」とはならないのだと、いうことです。本棚に陳列されているだけでは、福音書とタイトルが付いているだけでは、金文字が刻み込まれているだけでは、『聖書』は聖書にも福音にもならないのだということです。聖書も福音書も、受取り手、読み手がいて初めて神の言葉、慰めの福音になります。正味の人間の心に受容されて初めて神の言葉になるのです。イエスもイエスに出会う人たちがいて初めてキリストになりました。神も人を創造初めて神となったのです。出会いがあり、受容が生じます。


結び

 アメ横などでボリュームいっぱいにしてスピーカーから、神の裁きを熱心に説くモノトーンのメッセージを流す、無感情な人たちが立っています。車のスピーカーからも迷惑を顧みずに(一応)聖書のメッセージを流します。そこにはしかし、福音の媒介者としての魂はありません、人格がありません、受取手もいません。なぜなら、この迷惑な人たちは、受取手を人格を持った生身の存在として見ていないからです。聖書という名の大砲を「救われていない民」に向けているだけです。私は、彼らの意図に反して、無人格者のカラ伝道の悲哀をそこに見ます。
  もっとも、受取手不在の伝道は、戸別訪問で小冊子を熱心に持ってきてくれる人たちの中にも、ハレルヤを連呼して上ばかり見て、足元の世界がまったく見えない人たちの中かにもいます。ですから、私はもう一度襟を正して、ヨハネ福音書3章16節を精読しなければならないのです。「神は独り子イエスを、私たちの主として、私たち(コズモス)の只中に送って下さった!」