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2010/9/12  「パン種の威力」―イースト菌にはご注意を!― マルコによる福音書 8:13-21

:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

イントロ

 「パン種下さい」などとスーパーで尋ねても、殆どの店員さんには通じないでしょう。酵母、或いはイーストの名称の方が遥かに一般的です。私も何度か妻の使いでイーストを買いに行きました。もっとも、名前は知っていても、それが何であるのかは、取扱注意の「パン生地を膨らます粉」くらいの知識しかありませんでした。なぜ取扱注意なのかも知らなかったのです。大辞林を引いて「子嚢菌類の球形または楕円形の単細胞の菌で、ふつう、出芽によって増殖し、アルコール発酵を行い、酒の醸造やパン製造に利用される」と説明されてもチンプンカンプンです。ただ、結婚してからは、パン種という言葉の意味を視覚と感覚から学ばされました。新共同訳の旧約聖書では「酵母」(シェオル)、新約聖書では「パン種」(ズィニ)と訳されているあれです。ややこしい化学反応はともかく、小麦粉を捏ねてイーストを練りこみますと、微量の熱を発生させながら倍以上に膨らむのです。「米国人のくせに『米」ではなくパンか。ジャ『パン』だからか?」などとくだらない洒落を連発する私をよそ眼に、妻はパン生地がきちんとしかるべきサイズに膨らんでいるかどうか、室内の温度に気を払いながら慎重に取り扱います。

 今朝取り扱う福音書のエピソードは、私もびっくりした「パン種」に秘められた威力を中心に展開します。ただ、積極的威力ではなく、昔から過ぎ越しの祭りごとに何度も繰り返し語られてきた警戒すべき威力としてです。

I.                  ひとつのパンとひとりのパン

 何とも珍妙な書き出しです。

:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。

 イエス一行がダルマヌタからガリラヤ湖の向こう岸、ベトサイダへ渡る最中の出来事です。船が出帆してからどれくらい経ったのかは分かりませんが、弟子たちは「パン」(食糧)を持ってくるのを忘れたことに気が付きました。「ああ、パンがない!」 船内にある食べ物はパンひとつだけです。コントのような光景ですが事は結構重大です。16節を読みますとはっきりしますが、弟子たちは自分たちのおっちょこちょいに気付くと、「パンを持っていないということで、互いに議論し始めた」(新改訳。傍点は著者による)のです。つまり、湖上の弟子たちは、つい先日師匠が行った四千人への給食を間近で目撃しておきながらすっかり忘れてしまっていると言うことです。本来は忘れようもありませんから、あの出来事がなかったかのような振る舞い、と言った方が正確でしょうか。しかも、仮にマグダラをダルマヌタと同定してベトサイダまでの距離を測りますと直線距離でたったの13キロです。「たったの」は現代人の素人感覚かもしれませんが、イエス一行は何度も何度も湖のこちら側からあちら側へ、あちら側からこちら側へ頻繁に移動していたことを考えますと、これが遠い航路であったとは思えません。それにも拘わらず「ひとつのパン」(物質的困窮)で慌てふためくのです。「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出ずる凡ての言に由る」と宣言された「おひとりの命のパン」(霊的充満)が傍らにいて下さることにも気付かずに。

II.                  パン種には注意せよ

 ちなみに、お気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが、福音書の文章は15節のイエスの言葉を飛ばして14節と16節を直接繋いで読みますとすっきりします。16節の「これは」と訳されているギリシア語の接続詞 o{ti には英語の because(なぜなら)のような意味もありますが、関係代名詞 that(〜ということで)のような意味もあるのです(新共同訳は前者、新改訳は後者を採用)。このように読みますと15節のイエスの言葉が際立ち、なぜマルコが独立したイエス語録の断片をここに挿入したのかもはっきりします[1]。

 イエスの唐突な注意です。

:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。

 マルコ福音書の受け取り手は唐突なイエスの戒めに面食らったでしょう。読み下しますと15節だけ完全に浮いてしまい、弟子たちの何に対してイエスが戒められたのかはっきりしません。パンを忘れたことに対して、とすればイエスの論理はあまりにも飛躍してしましますし、パン種の入り込む余地など無かった既に焼きあがった種なしパン(ユダヤ人の常食はイースト未使用のパン)では論理は完全に破綻です。
それでも、注目すべきキーワードは「パン種」なのです。論理的に成立しようがしなかろうが、マルコはこのエピソードの序幕として「ひとつのパン」を出しました。読者は自ずとパンとパン種の結びつきを連想したはずです。マルコは自らが受け止め、書き溜めたイエス・キリストの福音の中で、とりわけ強調したい点を強調するのです。もとより、ユダヤ人の宗教生活の中でパン種は極めて重要な地位を持っていましたから、イエスの戒めの言葉がどれだけ重要な意味を孕んでいたか旧約聖書に精通していた読み手は直感的に分かったはずですが。何と言っても、パン種の用例は新約聖書には13回(動詞を入れると17回)、旧約聖書では42回も登場するのですから。
モーセ五書から二か所紹介しましょう。

七日の間、家の中に酵母があってはならない。酵母の入ったものを食べる者は、寄留者であれその土地に生まれた者であれ、すべて、イスラエルの共同体から断たれる。(出エジプト記12:19)

主にささげる穀物の献げ物はすべて、酵母を入れて作ってはならない。酵母や蜜のたぐいは一切、燃やして主にささげる物として煙にしてはならないからである。(レビ記2:11)

私たち日本人にとってはたかがイースト菌ですが、ユダヤ・イスラエル民族にとっては命のやり取りがされるほど重要なものでした。その背景には弱小民族が列強王国の中で生き抜くための知恵が見え隠れします。神ヤハウェとの縦の関係に基礎付けられた12部族連合(アンフィクチオーニ)と言う緩やかな横の繋がりが唯一の頼りであった王政以前の古代イスラエルは、有無を言わさず不純物を排除しなければ、連合体を維持することはできなかったのです。そのシンボルのひとつに挙げられたのがイースト菌でした。彼らの崩壊の過程を知っている私たちは、眼には見えなくとも、イーストの粒子が一粒混じり込んだだけで、粉全体が侵される絵を連想できるでしょう。眼に見えない不純物(罪)に侵され崩壊する民族の絵です。

 「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種によく気をつけよ」というイエスの発言の背景には、このようなイースト菌のイメージとイースト菌にまつわる比喩や格言が下敷きとしてありました。
パウロの場合も同様です。彼もまた旧約を背景にしてこのような一文をコリントの教会に書き送ったのでした。

いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。(Iコリントの信徒への手紙5:7-8)

パウロの用法からも分かるように、イースト菌は新約時代にはリアリティを持った罪そのものというよりは、悪影響を表すシンボリックな比喩や格言として色彩の方が強かったでしょうが、そのメタファはむしろファリサイ派によって教条的に強められ、聴く者になお大きなインパクトを与えたはずです。

III.                  パン種の種類

 イエスは具体的にひとつのグループとひとりの人物を名指しして注意を促します。「ファリサイ派」の人々のパン種と「ヘロデ」のパン種です[2]。
ファリサイ派のパン種の何たるかは概ね想像がつくでしょう。イエスが何度も何度も指摘した「血の通わぬ教条主義」です。ルカ福音書12:1では、ファリサイ派のパン種は「偽善」であるとイエスは断言しています。ギリシア人新約聖書学者のトレンベーラスは、聖書ギリシア語・現代ギリシア語対訳新約聖書で、ファイサイ派のパン種を「偽善的(仮面演者の)教えの影響」(イポクリティ ディダスカリアス)と解説していますが[3]、彼らの示す宗教規範(昔の人たちの言い伝え)が自明のものとして民衆のみならず弟子たちの生活にも広く影響を及ぼしていたことを鑑みますと、「仮面演者[4]の教えの影響」(動詞形「イポクリノメ」は「演技する」の意)はギリシア人ならでは痛快な解説です。
他方「ヘロデのパン種」が具体的に何を指すのかは今一つはっきりしません。ある人は世俗的神殿祭司・貴族集団サドカイ派の言い換え(マタイ福音書では「サドカイ派」)、ある人は、多くの写本がヘロデの代わりにヘロデ派の読みを採用していることから王党派のヘロデ派と解釈しています。先ほどのトレンベーラスも「世俗的影響」或いは「名利を追求することの影響」(コズミコティトス[5][=worldliness])と解説していますので、概ね同じ路線で理解していると言えるでしょう。ちなみに、ダルマヌタをマグダラと同定すれば、マグダラはヘロデが建設したティベリアの近くに位置していました。もしかしたら、イエスの譬えは反射的に出てきたのかもしれません。
このヘロデはヘロデ大王の息子のひとり、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスのことです。彼はローマ皇帝ティベリウスの歓心を買うため、ティベリウスの名にちなんだティベリアという都をガリラヤ湖畔に建設しました。彼はローマ皇帝に父親と同じ王の称号を求めたり、ティベリアを建設したりと、己の欲望が強すぎたため失脚してしまい、最終的にはガリアのリヨンに島流しとなるのですが(『ユダヤ戦記』第二巻)、その人生が物語るように極めて野心的政治家でした。ヘロデの野心は、僅かに残っていた宗教心をも凌駕してしまいます。その結果はご存じの通り、バプテスマのヨハネ殺害(マルコ6:27並行)です。
実は、出世の野心はヘロデやヘロデ党、サドカイ派だけの問題ではありませんでした。イエスの弟子たちですら、幾度も「誰が一番偉いか」と競い合い、議論しているのです。 イエスが弟子たちに注意を促したこの二つのパン種は、「教条的敬虔」(偽善)と「この世の楽しみ」(快楽・野心)の混合体[6]――当時のユダヤ世界の縮図――と言って良いと思いますが、弟子たちの「誰が一番偉いか論争」は、このユダヤ世界の縮図を見事に反映しています。

結びに代えて ――悟らない弟子たちのおさらい――

:17b イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。:20「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

 話しは再び「パン」に戻ります。弟子たちは最後の最後まで盲目でした。何度も主の実地訓練を受けているのですが、なかなか信仰の世界に開眼しません。彼らは幾度もイエスの力ある業を目撃したはずなのに、未だ主に「信」を置ききれていなのです。彼らの目にはたった一つのパンしか映っていませんでした。そのパンはパン以上でもパン以下でもない、何の変哲もないただのパンです。
ファリサイ派はイエスにしるしを求めました――イエスへの盲目です。ユダヤの民衆はイエスに奇跡と革命を求めました――イエスへの盲目です。イエスの弟子たちはイエスに十分なパンを求めました――イエスへの盲目です。異邦人であるフェニキアの女性はイエスに食卓の下に落ちるパン屑を求めました――イエスへの信頼です。
私であれば「どあほう!」とさじを投げたくなりますが、主イエスは忍耐強く、ひとつのパンしか見えない弟子たちに給食の出来事を思い起こさせるのです。もちろん、証拠を披歴して相手を屈服させる、というやり方ではありません。それではイエスへの信仰・信頼にはならないでしょう。そうではなく、あの時群衆に何が起こったのか、彼らは何を経験したのかを、今一度想起させるのです。イエスと共にいる時、イエスが共にいて下さる時、一切の思い患いは不要であるということを。イエスと言うパンひとつで十分であるという真実を。背後には聖霊のダイナミズムがあったことを。その威力イースト菌の如し、です。
エドゥアルド・シュヴァイツァーのコメントで奨励を閉じましょう。
「信仰とは、人間が自分の言葉や概念の中にとらえることのできぬ方、ただ出会うことしかできぬ方に身をゆだねることなのだ。」[7] 


[1] ルカ福音書12:1では別の文脈でこの断片資料が組み込まれていることに注目したい。 マルコの15節挿入の意図は「パンとパン種の結び付きを考えて」と考えるのが自然であろう(川島貞雄『マルコによる福音書』[教文館]、138-139)。
[2] 元来アラム語では「パン種」ではなく「言葉」であると理解する釈義家(NegoitaとDaniel)もいる(『ギリシア語新約聖書釈義事典II』[教文館]、143)。トレンベーラス『聖書ギリシア語・現代ギリシア語対訳新約聖書』170(ギリシア語書籍)、170.
[3] トレンベーラス『聖書ギリシア語・現代ギリシア語対訳新約聖書』170(ギリシア語書籍)、170.
[4] 織田昭『ギリシア語小辞典』(教文館)該当箇所参照。
[5] トレンベーラス『聖書ギリシア語・現代ギリシア語対訳新約聖書』170(ギリシア語書籍)、170.
[6] アドフル・シュラッター『マルコによる福音書』(新疆出版社)、87。
[7] E. シュヴァイツァー『NTDマルコ』、219。