メッセージバックナンバー

2010/8/1 「食卓の下のパン屑を」 ――「磯のアワビの片想い」の真実――[1]

イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。(ルカによる福音書 7:24-30)

イントロ

 イエスはゲネサレトを離れてティルスに立ち寄ります。物語のパターンとしてはマルコ福音書お決まりの「群衆から隠れるためのイエスの逃避とその失敗」「悪霊付きと登場と悪霊祓い」です。そこでは毎度の如く、イエスが隠れ家を確保しなければならないほど大勢の人が主を追いかけてきたのでした。けれども、このエピソードは一点で異色を放っています。イエスが訪れた土地はユダヤの外、異邦人の地フェニキアの港町ティルスだったのです。イエスの目には、町の背後にそびえ立つレバノンの白い山々が映ったでしょう。

 さて、イエスはなぜ異邦人の地を訪れたのか。福音書の救済史理解は、初めにユダヤ人、次いで異邦人である、と言えばそれまでなのですが、イエスのティルス訪問はユダヤ地方巡回伝道の途中に行われています。厳密な意味での「救いの完成」(十字架と復活)の前に主は異邦人の地を訪れられたのです。福音書はその理由を何も語っていません。けれども、この物語の直前に主がユダヤ教の食物規定を破棄されたこと、また、福音の受け皿であるはずのユダヤ人(とりわけ宗教指導者であるファリサイ派)がイエスの福音を拒絶したことが、イエスのティルス地方訪問の伏線として無言のメッセージを発しています。ユダヤ教の律法とは何の関わりもない人生を歩んでいた異邦の女性が、律法を媒介とすることなくイエスを信じたのです。彼女は異邦人がイエスを信じた最初の実例となりました。

I.                   シリア・フェニキアの女[2]

 さて、イエスはここで一人の女性に遭遇します。しかも、ティルスに到着して息つく暇もなく。ギリシア語原文では、(家に隠れたが)「しかし、すぐに…」(アラ エフシス…)とマルコ特有の急かした書き方がされています。

汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。(:25-26)

 汚れた霊(悪霊)に憑かれた幼い娘を持つシリア・フェニキアの女性でした。ギリシア人と書いてありますが、ヘレニズム文化圏で育った人という意味でしょう。彼女はイエスに出会うなりひれ伏して願います。「娘から悪霊を追い出してください。」 この女性の情報はヘレニズム文化圏のシリア・フェニキア生れであり、娘が悪霊に憑かれているということ以外何の情報も記されていません。これがユダヤ人であれば、ユダヤ宗教世界の穢れの概念や罪と病の関係を糸口にある程度状況を推察することができるのですが、この女性はユダヤ律法とは無縁の異邦人です。イエスについてのメシア的理解はおろかラビ的認識も皆無であると言ってよいでしょう。
  であれば、この女性は何を根拠にイエスのところにやってきたのか…。ここにこのエピソードの唐突感があります。マルコ福音書を読んだ当時のユダヤ人たちも私たちと同じ唐突感を感じたでしょう。ただし、注意深い聖書(タナク:旧約聖書)の読者は、おおよそ同じ地方(マタイ福音書では「ティルスとシドン」)で数百年前に繰り広げられた有名な預言者にまつわる物語を思い出したはずです。メシア来臨に先立ち再び現れると信じられていたエリヤの物語です。

主の言葉がエリヤに臨んだ。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」…その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。…彼は主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」 主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。…。女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」(列王記上17:8-24抜粋)

 マルコが列王記のエピソードを二重写しにしながらフェニキア女性の物語を福音書に編みこんだのかは定かではありません。けれども、ルカ福音書には、イエスが自分の故郷で拒絶された出来事を受けて「エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。」(ルカ4:25-26)という発言が記録されていますから、イエスの心の中には、イスラエルから拒絶されたエリヤと故郷で拒絶された自分を、異邦の女であるにもかかわらずエリヤを信じ受け入れたシドンの女と同じく異邦の女でありながらイエスに「信」を置いたフェニキアの女にそれぞれ重ね合わせている、と見るのも決して的を外してはいないでしょう[3]。

II.                   シリア・フェニキアの女性を試すイエス

 さて、イエスのところに駆け寄ってきたフェニキアの女性の唐突さも去ることながら、この女性の懇願に対するイエスの何とも意地悪な答えも私たちには意外です。

イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(:27-28)

 イエスは何を言わんとしているのでしょうか。なぜイエスはかなり強い口調で「最初は(プロ―トス)子供たち」、「子犬たちはその次」と言われたのでしょうか。まず始めに食事が与えられるべき子供たちとは誰のことを指しているのでしょうか。そしてテーブルからこぼれ落ちるパン屑に与ろうとテーブルの下をうろつく小犬とは誰のことを指しているのでしょうか。犬は侮蔑的意味で使われているのでしょうか。それとも慈しむべき存在として語られているのでしょうか。実は27節は聖書解釈者泣かせで有名な個所です。多様な意見があります。けれども細かなことは脇において、福音を探ってみましょう。

 イエスが言われた言葉は恐らく当時一般に流布していた諺です。意味するところは「人が最も必要としている糧を、あらぬところに放蕩するなかれ」と言ったところでしょう。イエスの文脈では「子供たち」をユダヤ人(或いは弟子たち)、子犬を「異邦人」にかけているのは明白です[4]。犬に関しては、ユダヤ社会では原則的に古代から一貫して否定的ニュアンスで使われていますから、読者はこれを読み「イエスはん、厳しいな」と思ったでしょう。例えば、出エジプト記22:30「あなたたちは、わたしに属する聖なる者とならねばならない。野外でかみ殺された肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えるべきである。」 詩編22:21「わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。」

 確かに、旧約聖書の犬の用例のほとんどは侮蔑的なものです。それを逆説的に解釈し、「癒しを勝ち取るために、この女性が[犬]のように己を低くする準備ができているかどうかをイエスは見ようとしたのかもしれない」と言う人もいます[5]。けれどもどうでしょう。イエスは険しい顔をしてこの女性の姿勢を試したのでしょうか…。わたしにはどうもそのようなイエスの顔は見えません。むしろ、リラックスして、ニコニコしながら、けれどもじっとこの女性を注視して優しく語りかける主の顔が私には見えるのです。「大方のユダヤ人たちは異邦人をこのように侮蔑的に見ているのだけれど、僕が言う子犬の意味は分かってくれるよね…。小犬は愛おしい飼い犬でもあるのだよ。」と[6]。

 するとフェニキアの女性はイエスの意をしっかり得た上で、「ラビ」(先生)ではなく「主よ」と応答します。「しかし、あなたは、食卓の下の小犬(飼い犬)も大切にして下さるのを私は存じております。ですから、子供のパン屑は恵んで頂きたいのです。キリエ・エレイソン、主よ、お憐れみ下さい。」

 主イエスはこの告白を聞いて大変喜ばれました。どれほど喜ばれたか、次の言葉から分かります。そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」(:29) 「それほどいうのなら、よろしい」…口誤訳では「その言葉でじゅうぶん」、岩波訳では女性の機知へのイエスの脱帽を表現して「そう言われてはかなわない」と意訳しています。ギリシア語原文では「ティア トゥートン トン ロゴン イパゲ」 、直訳しますと「その言葉の故に、引き下がりなさい」です。「もう行ってええよ。安心して行きよし」というイエスの優しい言葉です(今日礼拝に参加されているミリアム・アタベリーさんへ敬意を表して南紀田辺弁で)。目をつむるとイエスの笑顔がまぶたに浮かびますね。

結び

 物語の結末は毎度のように簡潔です。「女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」(:30) フェニキアの女性がイエスに「信」を置いたことを観て、イエスの遠隔治療が行われたのです。ただし強調点は「遠隔治療」ではありません。マルコは、どのようにして悪霊が出て行ったのか、にはまったく興味を示していないのです。強調点は「テーブル」と「テーブル下」の短くて長い距離です。イスラエルと異邦人の分厚い隔ての壁です。マルコは、フェニキア女性の娘が癒されたことで、この短いようでとてつもなく長い距離がゼロとなり、両者を隔てていた厚い壁が突き破られた、と暗示するのです。

 それはユダヤ教の食物規定を始めとする「律法遵守」によってもたらされたのではありません。アブラハムと同じように「主を信頼する」ことでもたらされた(神からの)「義」なのです。イエスにおいて神の恵みと憐みを信じ、期待し、約束の言葉のみを貪欲に追い求めたことによって、神は「パン屑」を与えられたのです。始めは信頼、けれども途中で条件を出すやり方ではなく、始めも信頼ならば終わりも信頼の「方法」によって。

福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマの信徒への手紙1:17)

 イエスの神の国運動がまだユダヤ人に限定されていたことを考慮しますと、フェニキア女性への奉仕は文字通り「パン屑」という名の特別な配慮だったのでしょう。けれども、ティルスで一瞬垣間見えた異邦人への一筋の福音の光は、後の聖霊降臨後、閃光となって、パウロを始めとするイエスの弟子たちによって世界中にもたらされることになります。その眩い光は、今朝めじろ台キリストの教会の中にも光り輝いているのが覗えますか。


[1] 「磯のアワビの片想い」。アワビの貝殻は一枚だけに見える事から、片思いの事を意味する諺です。けれども、アワビは巻き貝なので元々一枚の貝なのです。
[2] カルタゴのリビア・フェニキアと区別して、ローマのシリア属州フェニキアはシリア・フェニキアと呼ばれた。
[3] 「マルコがエリヤの物語を重ね合わせていると読むべき」とコールは強く主張する。更にコールはフェニキアの女も寡婦と考える。R. Alan Cole, Tyndale New Testament Commentaries Mark. ivp ERRDMANS, 188.
[4] 佐藤研はこの読みに異を唱える。『岩波訳新約聖書I』マルコによる福音書の該当箇所注(35頁注6)参照。
[5] R. Alan Cole, Tyndale New Testament Commentaries Mark. ivp ERRDMANS, 189.
[6] 例えば、Ezra P. Gould, The International Critical Commentary: A Critical and Exegetical Commentary on The Gospel of Mark (Edinburg: T. & T. Clark), 136.