未曾有の地震と津波が東北地方太平洋沿岸と中心として、東日本を襲ってから10日が経過し、11日目を迎えました。たったの10日間ですが、ずいぶん長く感じます。関東大震災を経験されているお二方を除いて、私たちにとりましては人生の中で最も大規模で、最も甚大な被害をもたらした自然災害です。この東京でも、立っていられない程の、大きな揺れを感じました。
直後には、未だかつて見たこともない大津波が東北太平洋沿岸地域を広範囲に襲い、町々と人々を呑み込みました。東京に住む私たちは、その光景をテレビのブラウン管を通して見るだけでしたが、自然のあまりの脅威に言葉を失いました。
その後、次から次に目を覆いたくなる映像が飛び込んできました。千葉の石油コンビナートの火災、町全体が空襲にでもあったように炎上する気仙沼、福島原子力発電所の損傷。
石油コンビナートの火災に驚く暇もなく、火の海と化した気仙沼がテレビ画面から迫り、息つく間もなく、福島原発の建屋が吹っ飛ぶ驚愕の映像。そしてなによりも、言葉を失う犠牲者、行方不明者数の報道……。一万人以上の方々が亡くなられた可能性がある、と多くのメディアは報道しています。
何とか難を逃れた被災者の方々も、住む家を失い、愛する家族を失いました。あまりにも被害の規模が大きく、被災者が多いため、私たちは苦しんでいる方々に十分な食料、飲料水、毛布、灯油を届けることができません。大打撃を受けた交通インフラが少しずつ回復しても、支援物資を運ぶためのガソリンすら十分に確保できない状況なのです。
何もかもが大打撃を受け、機能不全に陥ってしまいました。ハイチの大地震時には5000人の医療チームを派遣した「国境なき医師団」も、今回の大地震では被災地の病院がほぼすべて機能不全に陥ったため、たったの50人しかスタッフを派遣できていません。
挙句の果てに、容赦のない寒波が被災地を襲っています。「あたかも詰将棋のようだ…」。産経新聞のコメントです。
先週皆で聴いた哀歌の歌人の嘆きそのものではありませんか。
わたしは/主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者。
闇の中に追い立てられ、光なく歩く。
そのわたしを、御手がさまざまに責め続ける。
わたしの皮膚を打ち、肉を打ち/骨をことごとく砕く。
陣を敷き、包囲して/わたしを疲労と欠乏に陥れ
大昔の死者らと共に/わたしを闇の奥に住まわせる。
柵を巡らして逃げ道をふさぎ/重い鎖でわたしを縛りつける。
助けを求めて叫びをあげても/わたしの訴えはだれにも届かない。
切り石を積んで行く手をふさぎ/道を曲げてわたしを迷わす。
熊のようにわたしを待ち伏せ/獅子のようにひそみ
逃げ惑うわたしを引き裂いて捨てる。
弓に矢をつがえて引き絞り/わたしにねらいを定める。
箙の矢を次々と放ち/わたしの腎臓を射抜く。
民は皆、わたしを嘲笑い/絶え間なく嘲りの歌を浴びせる。
わたしを苦悩に飽かせ、苦汁を飲ませられる。
砂利をかませてわたしの歯を砕き/塵の中にわたしを打ち倒す。
(3:1-15)
私たち東京に住む人間は決して、東北の方々が経験したことを己の体験として理解することはできません。それでも、東京は東京で何万億分の一程度の影響を、灯油、ガソリン不足、穀物不足、停電などで経験しています。病床に伏している方々と高齢者、乳幼児に一番、そのしわ寄せが行っているはずです。宣教師も含めて、多くの外国人が日本を脱出するなか、日本に留まりながらも日本語を全く理解できない外国人も犠牲者の中に含めることができましょう。東京電力のホームページ、八王子市役所の市内アナウンスは日本語のみです。パニックに陥った民衆の見栄ない買いだめが引き起こした物資不足は不必要な苦難を助けの必要な者に強いているのです。あまりにも情けない話です。教会隣の聖徳幼稚園も、給食の食材が確保できなくなったことと、スクールバスを運行するためのガソリンが入手できなくなったために、今年度最後の一週間をほぼ休みとしました。
詩編の詩人は叫びがこだまします。
主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください。
主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ
わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。
主よ、立ち帰り/わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください。…
わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。
苦悩にわたしの目は衰えて行き/わたしを苦しめる者のゆえに/老いてしまいました。
(6:2-8)
私は神の怒りでこの地震が起こった、などという立場には立っていません。ノアの箱舟の出来事のような懲らしめだ、などとも思ってはいません。けれども、今回の震災で、詩編の歌人の気持ちが少しわかるようになりました。「もしや神が憤って懲らしめているのではないか」、という思いに囚われるほど、彼は苦しんでいた。神を探しても彼は神を見いだせず、神に叫び声をあげても彼は神の沈黙しか聞くことができなかったからです。
不安にかられ、絶望の淵に立たされ、彼は叫びます。
主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ
わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。
この叫びは私の叫びでもあります。「主よ、いつまでなのでしょう。」 神を信じるということ、信仰に生きるということは綺麗ごとではありません。私たち信仰者もうめき声を上げるのです。孫の写真を胸に抱きながら波に飲み込まれたご老人と共にうめき声を上げるのです。犠牲となられた方の叫び、ご遺族の呻きと共に、私たちも叫び、呻くのです。「主よ、なぜですか。」
すでに数人の友人から、「神はいるのか」「神は我々を守ってくれるのか」という辛い質問を受けました。彼らに「君が言う神は、君が命令を下せると思っている神であって、神と呼ぶに値しない。神の矮小化であり、自らの神化だ」と正論を言おうと思えば言えなくもありません。けれども、今はそんなことを言っても無意味でしょう。また、自然の運行と神は関係ない、と徹底的に割り切って、理神論を持ち出しても助けにはならないでしょう。或いはその逆に、神義論もどきを持ち出して、自然の運行と神との関わりを擁護しても仕方ないでしょう。我々有限な人間が無限の神を擁護したところで、どうしようもないのです。
「私の魂は嘆き悲しんでいます。主よ、分かりません。教えて下さい、どうしてですか。」
「ひかえよ!」と神から叱れてしまうかもしれませんが、憐れみ深い神に、叫び声をあげてもよいのです。詩編の歌人の多くはそのように呻きました。私たちは、「父よ、憐れみ下さい」と祈ることで、私たちが神の子供であることを告白するのです。その時、私たちの主イエスは、私たちの傍らに立っていて下さるでしょう。
この度の災害を受けて、世界中の人々が私たちのために祈って下さっています。私個人の関係ではありますが、米国の友人たち、お世話になった教会、見知らぬ個人が、今義援金を黙々と集めてくれています。地震と津波の直後に、多くの仲間が心配し、祈ってくれました。そして、今も祈り続けてくれています。
「神はいるのか。」「神は善か。」
クリアーカットな神学理論で論証するつもりはありません。ただ、彼らの祈り、配慮、友情を憶えてもらいたい。彼らの思いがどのような輪郭を描いているのか見てもらいたい。その輪郭は――私は信じて疑わないのですが――憐れみ深い神の輪郭、イエスの涙です。彼らは神の臨在を背中に感じて突き動かされています。父なる神が私たちのただ中におられることを民衆にその身をもって語り聞かせた主イエスによって、神の善を思いながら。
そしてこれも信じて疑いません。国家総動員でこの難局に取り組む我々日本人の存在が、神の輪郭を色濃く描いている、と。我々は今なお、上を向いているではありませんか。
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