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2012/02/22  「エデンの園再建への狼煙」 マルコによる福音書 1:12-13

:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。


イントロ

 A型のインフルエンザに感染してしまいました。今私がいる牧師館のダイニングルームから教会礼拝堂に行くには四つの扉をくぐるだけで済むのですが、本日は皆さんの健康セキュリティのため第三と第四の扉をくぐるのを自粛します。また、濃厚接触者であるの私の家族も自宅待機です。牧師館からの遠隔(近隔?)参加をお赦し下さい。

 初の試みですのでうまく口述できるか不安ですが(Skype通信)、本日は主イエスがバプテスマを受けられた後の出来事にマルコ福音書から聴きたく思います。


I.                  第二のアダム

 「それからすぐに…それからすぐに…それからすぐに」と先を急ぐかのような論調のマルコの相変わらずの語りです。イエスがバプテスマを受けられ、それからすぐに「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」のでした。
  それにしても短い記述です。イエスの荒れ野での誘惑といえば、私たちはマタイ、ルカ福音書に記されている三つの誘惑をめぐるサタン、イエスのやり取りを即座に思い浮かべるでしょう。たとえばマタイ福音書:

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ4:1-11)

 マルコ福音書には私たちにとっておなじみのこれらサタンとイエスの問答がすべて欠けているのです。それだけではありません。イエスの断食は言うに及ばず、イエスがサタンに勝利したことも暗示されているだけで、言語化はなされていないのです。共通しているのは天使がイエスに仕えたということだけです。もっとも、マタイ福音書では「サタンが誘惑に失敗してイエスを離れ去った後に天使たちが来てイエスに仕えた」のに対して、マルコ福音書では、継続を表す表現(未完了)を用いて、天使たちが40日間のイエスの荒野での生活をサポートした、と書かれていますので(新共同訳は「その間」という言葉を補い、未完了を表している)、厳密には共通項として挙げることはできないかもしれません。
  この違いはどこから生じたのか、という問いには、マルコは他の福音書記者が持っていたサタン‐イエス問答の資料を持っていなかった、と答えるのが理にかなっているでしょう。しかしこの違いが、誘惑エピソードにおいてイエスに投影されているそれぞれのモチーフを浮き上がらせます。
  たとえば、マタイ福音書とルカ福音書の誘惑エピソードではイエスはサタンの誘惑に対して聖書の言葉で応戦しましたが、主が引用された聖句は申命記と詩編の言葉です。イエスはサタンの誘惑に対して聖書の言葉で立ち向かった……それは間違いありません。けれども、「申命記と言えばモーセの律法」、「詩編といえばイスラエルの祈り」というユダヤ教の伝統的思想を加味するならば、マタイ、ルカ両福音書の誘惑エピソードにおけるイエスは「新しいモーセ・新しい律法」「新しいイスラエル・イスラエルの祈り成就」として意識され、描かれているのです。 他方、マルコ福音書にはマタイ、ルカ福音書には出てこない野獣が登場します。荒れ野にはジャッカル等の獣がいたようですから、ここに野獣が出てきてもさほど不思議はないのですが、野獣の只中にイエスおられた、という言葉をユダヤの宗教思想を紐解きながら遡っていきますと、重要な光景が見えてくるのです。「終末」という光景です。そして「第二のアダム」というモチーフです[1]。
  イザヤは終末時の情景をこのように言いました。

狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。(イザヤ書11:6-7)

メシア到来によって起こる神のご支配は原初の時、すなわちエデンの園の平和の回復である、とイザヤは語るのです。


II.                  第二のエデンの園、荒れ野からの再建

 創世記の第二章には寂しげな光景ですが、アダムが、野獣も含めたあらゆる動物たちに名前を付け、輩を見出そうとするシーンがあります。

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。(創世記2:19)

 エデンの園を追放される前の世界は危険のない世界でした。神と自然な関係でいることのできる世界でした。他ならぬ神が野獣をアダムのところに連れてきたのです。アダムは親しく獣たちに名前を付け、友好的に支配しました。けれども、失楽園と共に世界は一変してしまったのです。楽園は消失し、アダムの放逐と共に人間たちと野獣との戦いが始まりました。荒れ野との戦いが始まりました。聖書が描く人の歴史は、この戦いの歴史です。糧を得るために茨とあざみを生え出でさせる土と戦い、身を守るために獣と戦い、過酷な世界を生き抜くために人間同士が戦い、人間が自分に運命づけられた宿命に抗うために神とも戦いました。聖書は楽園追放後のこのような生々しい人間存在のありようを決して隠しません。
  そのような人間の戦いの歴史の中に一人の男が現れました。イエスです。父なる神は彼に霊を注ぎ、「私の心に適う者、義人だ」宣言されました。神はイエスに、神の支配が隅々にまで行き届く楽園(神の国)再建を託したのです。しかも、荒れ野からその働きを始めよ、と、神が与えた霊はイエスを荒れ野に放り込んだのでした。バプテスマの時にイエスに降った霊が、圧倒的力でイエスを荒れ野へと追いやったのです。私たちの新共同訳聖書は「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」と訳していますが、もともとのギリシア語「エクバロー」は「放り投げ」と訳しても良い程、強い意味の言葉です[2]。
かくしてイエスはアダムと同じように神の任務を受け――アダムの任務はエデンの園の管理でしたが、イエスの任務は荒れ野の支配です――直ちに試みに遭いました。40日間です。古代イスラエルの40年に及ぶ荒野放浪の悩みを象徴する数字ですが、イエスの遭われたサタンの攻撃は40年を40日に凝縮したものと言っても過言ではありません。なぜなら、他の福音書とは違い、マルコ福音書ではイエスの荒れ野入場の初めから、サタンはイエスを日々試み続けた(未完了)からです。瑞々しいエデンの園ならぬ刺々しい荒れ野で、主は毎日サタンの攻撃を受けのです。そこは野獣の住まう地でした。生命を寄せ付けない場所でした。人の絶望が凝縮された地でした。人が神から放擲された地でした。神の恵みから断絶された地でした。サタンが支配する地でした。父なる神は神の国再建の第一歩にこのような場所を選ばれたのです!
  本日の聖書箇所は父なる神の計画――つまり人の救い――が可能となるのか否かに関わる重要な箇所です。マルコ福音書では三行のみ、ずいぶんさらっと書いていますが、この行間には私たちの運命を左右する重大な出来事が潜んでいるのです。それは、第二のアダム、イエスは、最初のアダムとは違いサタンの試みに打ち勝ったという事実です。イエスを誘惑し、神から切り離そうとするサタンに勝利したという真実です。他の福音書のように具体的に明記されていませんが、天使が最後までイエスを補佐していた、という文言から主の勝利を読み取ることができます。イエスは私たちに人間存在回復への道を開かれました。私たちが神から義を頂いて生きる道を開いてくださったのです。けだし、楽園への扉が私たちに再び開かれました。それ故、イエスが荒れ野から再び人々の中に戻られた時、開口一番発した言葉はこれでした。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。


結び

 マルコは本日の箇所で終末の時が来ていることを宣言しました。この時代のユダヤ宗教思想における終末観によれば、終わりの時代には天使が人間に仕え、獣も人間に危害を加えることがなくなると考えられていましたが、福音書が描く終末の現実はそんな甘いものではありません[3]。天使が毎日イエスに仕えなければならかった程、イエスとサタンとの間で激しい戦いが繰り広げられたのです。どのような戦いか。天使が毎日仕えなければならない程の攻防……などと言いますとアニメチックなイメージを描きたくなりますが、私たちの正味の人間生活を思い起こせばそのような空想は消し飛びます。人間存在を神から切り離し、私たちを根底から破滅へと向かわせるサタンの攻撃、人の救いに情熱を燃やし、人間存在を根底から回復しようとするイエスの反撃、の一言で十分でしょう。このイエスは私たち、またアダムと同じ完全な人性を持った生身の人間、ひとりの人でもあったのです。
  神の国は到来しました。しかし、マルコの書き方ではそれが「近づいた」のであって、神の御心が天で遂行されるような完全な神の支配がこの世の隅々に及んだわけではありません。聖霊とサタンの激しい攻防は今なお続いています。それがまだ実現していないからこそ、主イエスが父なる神にこう祈れと教えてくださった祈りの中に「[神の]みこころの天になるごく、地にもなさせたまえ」という文言があるのです。私たちの生活の現場である荒れ野は神的力と悪魔的力が拮抗し、花火を散らす生々しい空間です。もっとも、イエスの中に神の国の到来を見る者には、イエスにおいて神の霊が働いていることを信じる者には、荒れ野は信仰告白の場に姿を変える可能性も秘めているのですが。信仰告白をエデンの園回復の萌芽を言い換えても良いかもしれません[4]。


[1] もちろん、お断りしておかなければならないのだが、荒れ野を神不在の場所の象徴と理解し、「イエスが野獣と隣り合っていたのは平和的共存などではなく、イエスが危険な場所にいたことを言っている。天使がイエスにお仕えしたのは、主を守るためだ」と野獣を消極的意味に採る人も多くいる。はっきりと断言はしていないが、新共同訳、新改訳、フランシスコ会訳の訳し方は一様に野獣・天使が対立的(…だが…であった)で、獣に積極的響きは感じられない。けれども、今朝は野獣と天使を並列的記述(…であり…であった)と採り、積極的意味に解して話を進めることとした。マルコ福音書のキーワードの一つが終末であることを考えれば、結論には大差は生じないのではあるが。
なお、Ezra P. Gould, William L. Lane, R. Alan Cole, 織田昭等の注解者は、野獣を荒れ野が持つ宗教的メタファーの否定的側面の延長線上に置いて理解するので、この箇所から獣の積極的理解は出てこない。Laneは逆に、荒れ野が善い地に変えられる時の情景をうたったイザヤ書35:6とエゼキエル34:23-28を挙げて自説の論証を試みている。ちなみに、岩波訳マルコ福音書(佐藤研訳)は「これは…『御使いたち』への言及と対立する内容ではなく、むしろ並列関係にある」と明示しながら獣と天使を並列的に訳しているが、解釈を挟まず、あるいは解釈を反映させずに直訳している手持ちの日本語訳聖書は文語訳、ハリストス正教会訳、田川建三訳。Eugene Petersonの個人訳The Messageは “Wild animals were his companions” と本説教と同じ立場で半ば意訳しているが、主な英語訳もNIVを除いてほとんど解釈を挟まない並列スタイル。ギリシア語本文の流れからすれば、この箇所は解釈抜きに並列するのが一番賢明なのかもしれない。なお、本セクションの野獣を積極的意味に解釈する注解者はE. シュヴァイツァーや川島貞雄など。
[2] 口語訳や新改訳第三版、フランシスコ会訳のように「追いやった」と訳した方がマルコ福音書の響きには合うかもしれない(マタイ、ルカは a[gw とよりソフトな表現)。
[3] 詩編や旧約聖書偽典として知られる『十二族長の遺訓』の「ナフタリ」には、終末の時、天使がメシアや義人を守り、野獣は彼らに害を加えることができない、とも記されている。
●主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり/獅子の子と大蛇を踏んで行く。(詩編91:11-13)
●悪魔はお前たちから逃げ、野獣はお前たちを恐れ、主はお前たちを愛し、天使はお前たちとともにいる(十二族長の遺訓・ナフタリ8:4[『旧約偽典3』(笈川博一・土岐健治訳、教文館)1975])。
[4] 上智大学の神学者、雨宮慧氏が印象深いコメントを記しているので、紹介しよう。
「誘惑」と「試練」は聖書では同じ言葉[吉良による補記:ピラズモス]で表します。誘惑と言えば「心を迷わせて、悪い方に誘い込むこと」ですが、試練と言えば「信仰を試して人を鍛えること」を指します。サタンは主イエスを誘惑しましたが、イエスはそれを試練に変え、私たちに歩むべき道を示してくださいました(雨宮慧『主日の聖書解説〈B年〉』[教友社:2008]45)。