序論
今朝のテキストはイエスが四人の弟子たちを呼び集められた後のストーリーです。短い分量ですが、ユダヤ教の安息日規定に対するイエスの挑戦があり、民衆のイエスの教えに対する驚きがあり、イエスのエクソシズム(悪霊祓い)と悪霊との不思議な会話が出てきます。これだけの内容を込めたストーリーで、マルコはいったい何を伝えようとしているのでしょうか。今朝はその三つを中心に見て参りたいいと思います。そして、来週は、三番目の点の「悪霊憑きの癒し物語」と「病気癒し」に焦点当てて学んで参りましょう。今朝の説教題は、来週の方が良かったかもしれません・・・。
I. イエスの教えに対する人々の驚嘆
イエスは安息日にカファルナウム(ゼブルンとナフタリ地方にある、ガリラヤ瑚西北岸の村)に行き、安息日にユダヤ人会堂(シナゴーグ)で教えられた、と物語は始まります(シン[共に]-アゴー[集まる])。安息日とは金曜日の日没から土曜日の日没までのことです。私たちクリスチャンはよく、日曜日を安息日と呼びますが、聖書の定義に従いますと、日曜は厳密には安息日ではありません。もちろん、安息日に込められた意味は、私たちキリスト者にとっての日曜日(主日)と意味合いにおいてはパラレルなのですが、ここでは、安息日と主日は違う、ということを明確にしておきましょう。[1]
イエスは安息日に会堂で教え始められました。この行為自体は、特にユダヤ教の教師ラビでなくとも、誰もがしたようです。集会では、モーセ五書や預言書の巻物がヴォランティアによって朗読され(頭に布を被り朗読)、時に、該当個所に対する解説乃至はコメントがなされました。ただ、大方は、長老格のユダヤ教徒やラビによって解説がなされたようです。けれども、突如として現れたナザレのイエスは、始めはカファルナウムの人々にとって素性の知れぬ自称ラビに過ぎませんでしたが、イエスは周囲の好奇の眼差しをよそに、会堂で教え始められた、とマルコは報告するのです。このように、イエスの仕事は、旧約聖書の世界の外にはまだ出ず、ユダヤ教とヘブライ文化の中から始まりました。
さて、マルコの記述によりますと、人々はイエスの教えに非常に驚いたとあります。
:22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
私たちには余り馴染みのないユダヤ教世界のヒエラルヒー、神殿宗教の政治、民衆世界の教師、そして教えの権威の出所というバックグラウンドが、この短い一句にありますから、さらっと読んでしまいますと、「権威ある者として」に込められた深い意味を見逃してしまいがちです。ですので、少し立ち止まってこの一句の背景を詳しく見ましょう。すると、自ずと「人々はその教えに非常に驚いた」という驚きの意味が浮かび上がってきます。
福音書には「律法学者」「ファリサイ人」「サドカイ人」「長老」「サンへドリン」という言葉が頻繁に出てきますが、これはユダヤ教及びユダヤ社会の貴族会層、そして、宗教指導集団のことを指します。それぞれの機能は、「律法学者」の場合ですと、職業的神学者、つまり、旧約聖書は人の生活を律するものでありましたから、今日で言うところの法曹のようなでもありました。そして、その凡てではありませんが、彼らの大部分がファリサイ派の宗教的流れに属していた、と言われています。ファリサイ派は、神殿における祭儀よりも、日常生活の中で戒めを守ることを民衆に熱心に奨めた民衆世界の教師でした。実は、旧約聖書と新約聖書の間の中間時代の歴史を紐解きますと、ファリサイ人は元々、ヘレニズムに傾倒し世俗化してしまった時の支配階層(祭司職を独占していた貴族階層)に反対するひとつの信徒運動であったことがわかります。彼らが目指したことは、ユダヤ教の純粋性の復元でした。平たく言いますと、律法に律せられた生活の回復です。いうなれば、16世紀におけるキリスト教における宗教改革時のプロテスタント運動のようなものです。けれども、その後のプロテスタント諸教会の多くの牧師たちが辿ったように、ファリサイ派は、律法についてのより正確な知識を求めれば求めるほど、その神学的営みが煩雑になり、次第に学者集団へと変貌していったのでした。イエスの時代に、彼らが律法学者と呼ばれたゆえんはそこにあります。そして、学者集団とは言いましても、支配階層であるリベラルなサドカイ派への反動として誕生しましたから、神学的には保守的で、イデオロギー的性格が強く、ファリサイ派の宗教的マジメさが、結果として彼らの多くを律法「主義者」にしてしまったのでした。プロテスタント教会だけではありませんが、キリスト教会の保守派の中にしばしば見られる、福音主義という仮面を被った律法主義とパラレルです(福音主義の否定ではありません。誤解のないようにお願いします)。
ちなみに、ファリサイ派の伝統は、名のある師に就いて律法を学ぶと言うものでした。使徒言行録に出てくる「パウロが著名な律法学者ガマリエルの門下生となって律法を学んだ云々」という話はその典型です。通常律法学者は、門下生として学んだ自分の師匠の権威を、いわば「学位記」のように引っさげて、律法解釈者としての仕事に従事しました。パウロの場合は、クリスチャンになった後、そのような看板を空しいものとして捨ててしまいましたが、彼が律法学者たちに自分の主張を聞いてもらおうとする時には、偉大な師匠ガマリエルを引き合いに出しています。ガマリエルの膝元で学んだと言われれば、人々はパウロの主張に一応耳を傾けざるを得ませんでした。
けれども、ファリサイ人の権威の究極的な出所は律法だけです。文字のみなのです。彼らはこれを正しく解釈する権威を主張し得たに過ぎなかったのです。パウロは書簡の中で「しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。」(ローマ7:6)と言い、「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」(IIコリント3:6)と主張しました。つまり、律法学者には「霊」が欠如している、とパウロは言ったのです。ここに明らかにイエスと律法学者・ファリサイ派との相違が見られます。イエスの権威は「神の霊」にその源がありました。イエスは肉においては、大工の倅(せがれ)として生まれましたが、霊においては神の子であり、神の子イエスは律法の管理人ではなく、律法そのもの、その完成者だったのです。そして、その律法は、新しい布袋に入れられた絞りたてのワインの如く新鮮で、「罪の赦し」「神と人との和解」「人間存在、尊厳の回復」という神と人との間の新しい契約の宣言でした。聖書はそれを福音(エヴァンゲリオン)と言います。聴衆が、イエスの「福音宣言」を聴いて驚いた理由はここにあります。人の権威ではなく、神の霊の権威において語ったからです。
後で詳しく述べますが、その見える形として、悪霊憑きの悪霊祓いがありました。端折った言い方ですので御幣があるかもしれませんが、現代風に言えば、精神分裂病患者の癒しです。
もっとも、今日と同じように、当時においても、信仰の眼でもって見なければ、単なる「凄い話」で終わっていたでしょう。イエスの神性と、この出来事が福音として理解されるためには、信仰の眼、慧眼が必要でした。どれだけの人たちが「神の権威」をイエスの中に見ることができたかは疑問ですが・・・。
話が前後してしまいましたが、参考までに福音書に登場する、「サドカイ派」「長老」「サンへドリン」についても手短に触れておきましょう。
サドカイ派は神殿の祭司グループ、つまりユダヤ社会の貴族階級です。性格は打算的で、政治的には保守的、常に体制派でした。また、彼らの神学は、モーセ五書だけしか認めていませんでしたから、復活についての教えを聖書的とは見なしませんでした。サドカイ派のひとりがイエスに復活の議論を吹っかけたのはそれ故です。パウロも使徒言行録で、サドカイ派の復活否定を引き合いに出して、ファリサイ派を取り込もうとしました。
「サンへドリン」とはエルサレムにある最高法院のことで、71人のメンバーから構成されており、その中には「大祭司」「祭司」「律法学者」「長老」(信徒代表)が含まれていたとあります。
II. 安息日規定に対するイエスのチャレンジ
次の点は、イエスが挑んだ安息日既定に対するチャレンジです。話の材料は悪霊憑きの男に対するイエスのエクソシズムですが、マルコがこのエピソードに込めたひとつの主張は、イエスは「安息日の主」である、ということです。
話の内容が余りにも強烈ですので、興味はどうしても悪霊祓いに向きがちなのですが、先ほどから申し上げていますように、ここには「律法主義」対「イエス」という構図があることをご確認ください。なぜなら、イエスがエクソシズムを行った時は安息日だったからです。創世記には安息日に関するこまごまとした規定はありませんが、出エジプト記には「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(出エジプト20:10)との記述がありま
す。
安息日は上記の聖書個所のほかに、神が祝福し聖別された神への礼拝の日として規定されたことが、その重要性を増しましたが、安息日は本来、皆に等しく休息を与えなければならないと言う実践的な理由から発展したものと思われます。けれども、時代を下ったイエスの時代には、「安息日」だけが一人歩きし、ユダヤ教のラビたちによって、実に複雑怪奇な規定が作られてしまいました。タルムードなどにこまごまと書かれています。たとえば、安息日には1キロ以上歩いてはいけないとか、慈善行為すらしてはいけないとか、落穂を摘んではいけない等の決め事です。それら凡てが労働と見なされました(イエスの皮肉、マタイ12:9-12; ルカ13:10-17)。当然、この悪霊憑きの悪霊祓いも、律法学者にとっては違反行為でした。
けれども、イエスの頭にあったことは(それを後にはっきり主張しますが)、マルコ2:27-28の一言に尽きます。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
V. 治癒神イエス
イエスが会堂に入られると悪霊憑きの男がいました。現代の精神科医がこの男を見れば、或いは、いや確実に、精神疾患による狂乱、と診断するでしょう。けれども、当時のパレスチナでは、たとえそれが分裂病や癲癇(てんかん)等の病気であったとしも、一般的に、すべて汚れた霊によるものとされてきました。そして、その背後には「病は神の欲し給わないことであり、神に敵対するものであるという」思想がありましたから、ユダヤ社会ではとりわけ、悪霊憑きは、斯かる人かその家族の罪のためだと思われていたのです。それは、精神疾患や癲癇、肢体不自由者にも言えることでした。ヨハネ9:2で、イエスの弟子たちは盲人を見て、このように質問しています。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 イエスの弟子たちですら、このように平然と、さも自明であるかのごとく、病気を罪の結果として捉え、現代を生きる私たちからすれば呆れてしまうような質問を、イエスに浴びせるのです。けれどもそれは、悪霊憑きや病は「罪の故」という一種の「信仰」が聖職者集団と民衆世界に蔓延していたが故です。そのような肢体不自由や悪霊憑きのために「罪人」という差別のレッテルを貼られた者たちはたまったものではありません。彼らは人々の「蔑視」の眼差しを背負って生きなければならなかったのです。らい病患者などは谷などに捨てられ、生きながらにして「死者」とされてしまいました。この問題は来週、中心題材として取り扱います。
さて、そこにイエスが現われ、律法学者たちが造り上げた「安息日行動規定」を完全に無視して、会堂にいた悪霊憑きの男を癒しました。すると、この悪霊は不思議なことを言います。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(1:24)(「我々」とは力の大きさか、分裂症か?)
悪霊はイエスの名前を呼びます。物の本によりますと、悪魔を祓う人に攻撃された悪霊が、相手の名を呼ぶことによって相手を制止しようとすることは、キリスト教以外の宗教やユダヤ教の物語にも出てくる主題、であるそうです。相手の名前を知れば、これを制する力を得ることができると言うことが古代では信じられていたのでしょう。
けれども、イエスの場合は、汚れた霊が主を制するどころか、戦いに敗れ、「黙れ。この人から出て行け」とのイエスの一喝の前に、「その人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行く」羽目になりました。イエスの癒し、社会差別への勝利です。ここで明らかにされたことは、イエスが神の霊に捉えられたカリスマの人(霊の賜物を賦与された人)と見られていたこと、また、このカリスマの人イエスにおいて、イスラエルの中に神の霊が生き生きと働いていた嘗ての救いの時が、枯渇した長い期間の後に再び甦った、ということです。
まとめ
マルコ福音書の前半で、このようなイエスの神的力の発動が示されたと言う事実は、福音書記者の意図を知る上で、きわめて重要なことであることは言うまでもありません。私は個人的に、遠藤周作が描いた「何もできない無力なイエスの『力』」という逆説に大いに惹かれますが、福音書をストレートに読みますと、そこに描かれているイエスは、力強い「治癒神」と言うほかありません。しかも、主が癒したものは病そのものというよりは、病の名によって負わされた「罪人」という差別原理のレッテルです。その力強い神の霊をまとった権威に人々は驚嘆し、職業宗教人が造り上げた安息日行動規定などという安っぽいものは吹き飛んでしまったのです。
[1] ちなみに、キリスト教会の中でも、いわゆる「安息日」を重んじる教派があります。日本語では「安息日教会」などと教会史のテキストでは呼び習わされていますが、英語ではセヴンスデー・アドヴェンティスト・チャーチ(通称SDA)です。彼らは私たちが日曜礼拝と呼ぶものを、土曜日に守っています。蛇足ですが、SDAは良くも悪くも大変ユニークな歴史的背景と特徴を持っておりますので、興味のある方は、キリスト新聞社のキリスト教年鑑やインターネットなどで調べられると良いでしょう。私は彼らの健康通信講座を高校生のときに受けました。内容はほとんど覚えていませんが…。 |