目を開けると、そこは灰色半透明のゆがんだ空でした。目が痛い、鼻が痛い、息ができない。聞こえるのは「ゴボゴボ」という鈍い音だけ。全身は恐怖心で硬直していました。成すすべなしです。
その時、突然大きなものが体に触れたかと思うと、ものすごい力で引き上げられました。
「ザッバーン!」
「あ、まぶしい」
開かない目を無理にこじ開けると太陽がキラキラ輝いていました。すると、横から大きな声で、
「どうだ、怖かったか? お前は怖がりだな。」
父の声。硬直している私の体を、ニコニコしながら大きな両腕でしっかりと支えてくれました。場所は海岸からだいぶ離れた九十九里浜の沖合、黒潮と親潮のぶつかる波の荒い海のまっただなかです。
子供の印象ですから、本当はたいしたことはなかったのかもしれません。けれども、海水浴に行くたびに、無理やり沖に連れていかれ放り投げられるものですから、子供の私には恐怖の演習でした。他方、愛媛の田舎育ちの父は泳ぎが得意でしたので、私のびびりなど意に関せず。
このような粗行には恨めしさを憶えましたが、全身水没の状態から、父の腕で水の上に引き上げられ、父の両腕の中で得た安心と温もりは決して忘れません。粗行なのに父の温もりに安堵し、父の愛情を感じるとは、理屈的にはまったくおかしな話なのですが…。
けれども、このようなまったくおかしな感覚、感情を、古代オリエントを生きたある民族も経験しました。 古代イスラエル・ユダヤです。彼らが父なる神から受けた粗行は、過ぎた「おいた」に対する罰とは言え、筆舌に尽くしがたいものでした。旧約聖書を読めばよーく分かります。
それでもなお、彼らはその粗行を通して、父がどれほど彼らを愛しているかを学ばされたのです。父は忍耐をもって彼らに迫り、彼らの手をとり足をとり、その深くほとばしる愛を苦難の中で体験させたのです。九十九里の荒波の中で、私の父が決して手を離さなかったように。
預言者ホセアは、父なる神のイスラエルへの思いをこのように告げました。父のお言葉です。
:1 まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。:2 わたしが彼らを呼び出したのに/彼らはわたしから去って行き/バアルに犠牲をささげ/偶像に香をたいた。:3 エフライムの腕を支えて/歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを/彼らは知らなかった。:4 わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き/彼らの顎から軛を取り去り/身をかがめて食べさせた。… :8 ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。…わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。(ホセア書11章)
幾度となく「帰って来い!」と子供たちを呼び寄せる父のこのふかーい愛を理解するのに、イスラエルは随分と時間を要しました。数千年間を要したのです。 しかし、彼らはついにある男の中に、父の愛を五感で感じだしました。ナザレのイエスです。イエスの笑いに、ジョークに、皮肉に、義憤からほとばしる激しい行動に、彼らは何かを感じだしたのです。時には大声で笑いながら、時には大粒の涙を流しながら、出身階級による差別や病による蔑視が当然視されていた社会にあって、だれかれ分け隔てなく、その肌に直接触れ、「罪人たち」と食卓を共にしたイエスの姿に。
イエスと出会った人々は皆、父そして母の愛を必要としている人たちでした。迷子の老若男女だったのです。だからこそ、イエスと出会った人々は、彼の中に主を観、世紀を通じて差し伸べられてきた父のぶっとい愛の両腕に飛び込んだ時、「罪の赦し」を識り、「新しい存在」へと生まれ変わったのです。生きながらにして死んでいた彼らの存在が、生き返ったのです。しかも「聖霊」(イエスの息吹)を頂いて、新しい存在として新生の体験をしたのです。
彼らのその後の生涯がどのようなものであったか、全ては分かりません。けれども、今私たちの心に刻みつけられている主イエスへの信仰が、世代から世代へ、世紀から世紀へ、ある場所から別の場所へと、土の器を通して伝達されてきた真実を思い起こします時、彼らは多くの無名の聖徒らと共に、キリストに生かされ、キリストでこの世の生を生き抜いたと思うのです。神の恩寵の中で、多くの失敗を繰り返しながら。
イエスと出会い、古い自分に死に、神の命(イエスの復活の命)を受けて、素材はそのまま、新しい存在へと徐々に徐々に創りかえられていったある男はこのような言葉を残しました。その生を神に向かって生き抜いたパウロの福音宣言です。
「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマの信徒への手紙6:4)
この天のお父様は、平賀さんの心のドアをもノックして下さり、今、この新しい命の場に平賀さんを導いて下さいました。主に栄光、ハレルヤ、感謝です。 私たちも天の父と初めて出会った時、バプテスマの時を思いだしますね。
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