それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」 (†底本に節が欠落 異本訳) 聞く耳のある者は聞きなさい。イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」 更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
イントロ
「わたしの言うことを聞いて悟りなさい。」(:14)。英語訳聖書ではだいたい “listen and understand” と訳されているこのフレーズ、日本語訳聖書では日本聖書協会訳でも新改訳でも岩波訳(佐藤研訳)でも、全て「聞いて悟れ」(:14)と訳されています。英語訳聖書でも The Message の “Listen…take this to heart” のような気の利いた訳もありますが、かなり噛み砕かなければギリシア語原文「シニミ」のニュアンスをダイナミックに抽出することはできません。その点、この言葉に限ってですが、日本語は大変便利です。「統合的な理解」、またそこから導き出される「気付き」といったニュアンスが含畜されたシミニを、日本語では「悟り」の一言で表現できます。面白いことに聖書ギリシア語(コイネー)・現代ギリシア語対訳聖書でも、「聞いて、理解に至るために注意を向けよ」と解説を付してコイネーを現代ギリシア語に翻訳していました[1]。もっとも、イエスの言う「悟り」は、自らの修練で切り開く類のものでないことははっきりさせておかねばなりません。16節で念押しされているように「聞く耳」によってのみその世界に開眼し、イエスの福音宣言は心へと届くのです。
16節の「(†底本に節が欠落 異本訳)」の但し書きは無視しようと思ったのですが、めじろ台教会で使用している新共同訳やフランシスコ会訳のように16節を採用せずに15節から17節へスキップしている聖書もありますので、短く触れておきます。実は新共同訳もフランシスコ会訳も新改訳もギリシア語聖書の底本は同じです(United Bible Society Greek New Testament 第三版)。ただ、異読本(大方は西方型写本と呼ばれるものか10世紀以降の新しい小文字写本群)の中には16節の文章を含んだものがあるので(シナイ写本やベザ写本等の古い写本には含まれていない)、聖書本文批評を嫌うTextus Receptus(公認本文)至上主義者(原理主義)で無い限り、16節を採用した翻訳者たちは、前後の文脈や福音書記者の言い回しの特徴や他の写本の読みを注意深く研究しながら、それほど重要視されていない写本にも、かかる箇所に限っては、オリジナルの欠片が保存されている可能性を批評学的見地から考慮、或いは「判断」したのです。
I. 食物規定の破棄
「よく聞いて悟れ」と言われただけあって、主イエスは大変重要な発言をされます。
外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(:15)
「はて、どこが?」と思われるかもしれません。宗教的食物規定に束縛されない私たち(正確には、伝統宗教に束縛されない空間に住む現代日本の私たち)の感覚からすれば、イエスの言われたことはあまりにも自明であり、ピンとこないからです。「ゲテモノ食い」という言葉がありますが、ゲテモノを食べて女性から嫌われることはあっても、「あなたは穢れているわ」と忌諱されたり、なじられることはないでしょう。私もアメリカ留学中友人のひき殺したシマ栗鼠を食べたことがありますが、アマンダ(今の妻)から気持ち悪がられても、関係を断絶されることはありませんでした。
けれども思いだして下さい。7章の冒頭からファリサイ派の律法学者たちはユダヤ教の宗教規定を振りかざしてイエスと弟子たちを攻撃しました。それに対してイエスもイザヤ書の言葉を引用して(:6b-7)ファリサイ派律法学者たちの偽善をこのように指摘したのです。
イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(6b-8)
とはいえ、15節のイエスの発言は、「人の言い伝え」を超えたところにある食物規定へのあからさまな挑戦状として受け取られました。つまりモーセの律法に対する挑戦です。それがどれだけ重要な意味を持っていたか。イエスは9節で「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。」と言われましたが、ペトロがヤッファで見た夢にまつわるエピソード(使徒言行録10章)やモーセ律法の食物規定をめぐるエルサレム会議(同15章)での激しい論争を鑑みますと、律法が定める食物規定は「昔の人々の言い伝え」の一言では一蹴できない大変重要なテーマであったことが窺えます。口の中から入るものはやはり自分の身を汚すと…。イエスはユダヤ人の宗教生活に染みついたこのモーセの食物規定の効力失効を宣言されたのでした。
II. 口から入るものは厠へ、口から出るものは心へ
けれども口から入るものだけを語るだけではイエスが提示した問題を解くことができません。事実「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」というイエスの言葉を理解できずにイエスの弟子たちは戸惑いながら(寧ろ狼狽しながら)、イエスに尋ねるのです(:17)。するとイエスは言われます。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」(:18-19)
皆さんはこの状況を思い浮かべることができますでしょうか。「清い・清くない(穢れ)」という宗教感覚を徹底的に叩き込まれたユダヤ育ちの青年たちの困惑した顔は容易に想像できますが、イエスはどのような顔をされていたでしょうか。主は弟子たちに「お前たちは物分かりが悪い」とかなりきつい言葉を浴びせていますから、顔を真っ赤にして弟子たちの無理解に怒っておられたでしょうか。それとも弟子たちの愚鈍さに呆れておられたでしょうか。或いは、半分弟子たちをからかいながらニコニコされていたでしょうか…。
私はこのシーンにイエスのユーモアを見ます。半分呆れながらも弟子たちをからかう主の笑顔が見えます。実は想像だけでこのように言っているのではありません。新改訳、フランシスコ会訳は丁寧に直訳してくれているのですが、ことこの個所に関してはギリシア語原文が読めますと思わず吹き出してしまうのです。単語をひとつ直訳して18節、19節を並べ替えてみましょう。こうなります。「すべて外から人の体に入るものはなぜ人を汚すことができないか。それは人の「心」の中に入るのではなく、「腹」の中に入り、そして厠に出されるからである。」 フランシスコ会訳は「かわやに落ちるだけ」、岩波訳(佐藤研訳)に至っては「便所へと出ていく」です。「出る」(エクポレヴォメ)を「流れ出す」と訳しても良いかもしれません。時代時代のイエスのイメージの変化はヤロスラフ・ペリカンの『イエス像2000年』(Jesus Through the Centuries)という本に詳しいですが、一世紀を生きたナザレのイエスはユーモアの人ですね。イエスの時代のファリサイ・ユダヤ宗教世界のTheキーワードと言っても過言ではない「清める」(カサリゾー)と言う言葉を使いながらトイレの話をされて、「白く塗った墓」(律法主義)にあてこすりを言うのです。そんなナザレのイエスが嘗て中世ヨーロッパの教会により十字軍の司令官に祭り上げられた時、主は何を思われたでしょうか。或いは、今日でも、律法という名を持たないのだけの血の通わない律法主義の元締めにされている時があります。主は何を思われるでしょうか。
主イエスはこのようなユーモラスな例えを使いながら(そしてマルコはギリシア語で語呂合わせをしながら)、重要な事を言われたのです。昔の人の言い伝えを大切にするユダヤ教、はたまた旧約のヘブライ宗教が何と言おうと、食べ物は(食道から)「腹」(キリア)(outward man)に入ることはできても、(気道から)「心」(カルディア)(inner man)に入ることはできないのだ、と。主イエスは声高々に宣言します。食べ物などで人は宗教的に汚れはしない、たとえそれが厠に落ちるものであったとしても! 食物規定にピリピリしていた当時のパレスチナにあってはイエスのこの発言は革命的宣言でした(サマリヤの女のエピソードのヨハネの解説句[ヨハネ4:9]を思い出して下さい)。主は明らかに十字架を見ていたでしょう。
結びに代えて
口から入る物ばかりに一生懸命になっていたファリサイ派の律法学者たちには、口から出るものについてじっくり考える余裕はなかったようです。人の体を生かす食物のことには詳しくとも、人の心を活かす霊の糧に対する理解は、「おまえたちは災いだ」とイエスに言わせたほど、お粗末なものに成り下がってしまっていたのです。まさに「食うてもその味を知らず」[2]。そこには「『日々の糧を与え給え』と祈れ」と教えられた主の祈りも、ヘブライの先祖が嘗てエジプトの荒野で神から与えられたマナの記憶もありません。あるのは、ユダヤ教の「宗教規定の習熟で獲得した屁理屈」(:11-13参照)と人を活かす「神の恵みの忘却」だけです。その神の恩寵の忘却の帰結をイエスはこのように総括しました。考えうる限りの厳しい言葉です。
人から出て来るものこそ、人を汚す。…人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。(:20b-23)。
気真面目なファリサイ派への言葉としては、後半は「そこまで言わなくても…」と思わなくもありませんが、口から入るものばかりに目が行っていた彼らへの、イエスのちょっとしたショック療法でしょう。
ちなみに、21節から23節の人間の心から出てくる悪い思いのリストは、パウロがローマ書やガラテヤ書、コロサイ書やテモテ書で列挙するものと基本的に同じです。もともとはヘレニズム化したユダヤ教を批判する預言者お決まりのカタログであったと思われますので、ユダヤ教の世俗化を批判した真面目なファリサイ派には何とも気の毒です。けれども、モーセの律法と違って「思いにおける罪」と「行いにおける罪」が分けられずに同じグランドで語られているとろに、イエスの、そして古代教会の罪理解が明示されているのでしょう[3]。
ファリサイ派の律法主義は、近代帝国主義時代に北米先住民諸族への宣教熱に燃えて、聖書を携えて彼らの中に入って行ったものの、結果として、鉄砲が聖書に変わっただけの伝道の名における宗教的ジェノサイドを行った多くの教会と同質と言えるかもしれません。ファリサイ派の律法学者たちは気真面目に一生懸命、一方的にお説教をしました。己の口から出るものが人を励ます福音なのか、或いは人を殺す律法主義、血の通わない宗教イデオロギーなのか熟考することもなく。イエスの時代の宗教熱心なファリサイ派の語る言葉は残念ながら、相手の状況などお構いなしであったという点において、福音ではなく鉄砲玉に過ぎなかったのです。
私たちもファリサイ派が抱えていた問題を己のこととして真剣に考えていく必要があることを最後に確認しておきましょう。人はいとも簡単に、自分でも気付かないうちに、教条主義に陥ることがあるのですから。「人を汚すものは口から入って、厠に出ていくものではないよ。そうではなく、人から出て来るものこそ、人を汚すのだ」という主のお言葉を銘記したく思います。[4]
預言者の余言(以下は説教ではカットしました)
せっかくの機会ですから、先住民の話をもう少し続けましょう。現在も進行形の社会問題ですから。敢えて先住民の例えを出しましたのは、北米先住民族の中で働く誠実なアングロサクソン系の働き人たちを卑しめるのが目的ではなく、計約二年間カナダのサスカッチュワン州北部にある小さなクリー族居留区滞在時に目撃、経験した数々のコテコテの宗教イデオロギーに理論武装された原理主義、伝道至上主義、民俗学・宗教社会学・宗教人類学・先住民の文化や宗教的世界観・北米先住民悲史を無視した一方的「宣教」の傷跡とイエスの名によって流された先住民の涙が、ユダヤ社会で「ダメ」「失格者」「穢れている」と烙印を押された人々とダブったからです。村では毎日子供たちはさまよい、毎年のように、命を断つ者たちが何人も出ます(先住民族の自殺者数[時差率ではない]は北米の諸民族の中でダントツの一位です)。このことを話し出すと終わりませんので、いつか機会があればお証させて頂きたく思います。[5]
[1] トレンベーラ 『 新約聖書ギリシア語・現代ギリシア語対訳聖書』(ギリシア語書籍, 1997), 166.
[2] 「すばらしい料理や、おいしい果物などを口にしても、他のことを考えたり、仕事をしたりしていると、味が全然わからないことがある。何をするにしてもそこに気持ちがなくうわの空でやっていては目的を達せられない」ことを意味する諺。
[3] E. シュヴァイツァー『NTDマルコ』202-203、R. Alan Cole, Tyndale New Testament CommentariesMark. ivp ERRDMANS, 187参照。
[4] もっとも、この「人間の心から出てくる悪い思い」のリストの角度を少し変えますとイエスの福音が透けて見えることも指摘しておかねばなりません。「肩肘張って『思い』と『行い』を分けてどうする。福音に捉えられ聖霊を与えられた人は、からし種が成長するがごとく、それぞれのペースで『思い』と『行い』を総動員して生きる求道の悦楽道が与えられている」と。悦楽道ではありませんか? それでは越落道としましょう。
[5] 一部は大阪聖書学院機関紙『たねまき』(1998年)の短文拙稿をご覧下さい。
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