メッセージバックナンバー

2005.3.13 「神の御心によって」
船戸良隆師
 今週は、ローマの信徒への手紙 1章8節から15節までから三つのテーマにつき、御言葉に聞いてまいりたいと思います。

 第一のテーマは、「感謝」ということです。パウロは、1章8節を「まず初めに」という言葉で書き出します。これは、日本語も原文のギリシャ語も同じです。しかし、その次より語順が違います。原文においては、「感謝する」という言葉が出てきます。まず初めに、何をおいても、何にもまして「感謝したい」というのです。

 ある人がこういいました。「朝、目を覚ました時、まず初めに念頭に浮かぶものは何だろうか。それが、生きていること、生かされていることに対する感謝であればなんとすばらしいことではないか。」これはなかなか難しいことです。私たちの場合、「あれは、どうしようか。」などという心配事が頭を駆け巡ります。

 この「感謝」ということで、私が思い出すのは、私が学生時代、九州の筑豊炭鉱で経験したひとつのエピソードです。私が住み込んだ炭住に原口さんという組長さんが居られました。この方の奥さんは、熱心なカトリック教徒でした。私もお目にかかったことがありますが、温厚なすばらしい方でした。その後、しばらくして、この奥様は、二人の幼い子供を残して、お亡くなりになりました。原口さんは大変悲しまれ、見ているのも気の毒なほどでした。ある日、私が炭住の原口さんのお宅を訪ねると、その粗末な炭住の壁に、次のような言葉が張られていました。「満、耕治、朝、目を覚ましたら、今日の命に感謝せよ。母ちゃんが背中に乗って見ている。」私は、思わず、胸がジーンと熱くなりました。

 第二のテーマは、「お互いに励ましあう」ということです。パウロは、11節で、「霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたい」と述べています。しかし、この言葉は、もしかすると誤解されるかもしれません。「与えて、力づけたい」とは、高慢だと受け取られかねません。そこでパウロは、12節の冒頭で、日本語には、訳されていない「トート、デ、エスティン」(さらに適切に言えば、真意はこうなのだ)という言葉を書いて、次のように述べます。「あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励ましあいたいのです。」信仰とは、自分がたくさん持っている、たとえば、霊の賜物を、持っていない人に分け与えるというのではありません。牧師が、偉そうに、自分の持っている知識を信徒に与えるということでもないのです。私たちは、各々、主からいただいた信仰によって、ともに励ましあうのです。私たちは、ともに、福音に預からせていただいているのです。その中に入れられているのです。感謝のほかありません。

 第三に、14節「私は、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。」と述べています。この「責任」という言葉は、「借金」という意味です。他人から借金をした方が、四六時中、その借金に頭を悩ませるように、パウロは、伝道に責任を感じていました。私たち各々も、パウロにならって、まことの借金を返済すべく努力したいと願います。