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2009/11/3 「第四の博士の真珠」 ヨハネによる福音書 
1:4-5, 9, 11-14(降誕日前夜燭火讃美礼拝)

I.                   アルタバル物語[1]

 聖書の中に東の国の博士たち(占星術師)が黄金、乳香、没薬と言う贈り物を携えてベツレヘムの馬小屋にやってくるお話があります。聖書のどこにも三人とは書かれていませんが、いつのまにか贈り物の数に合わせて三人の博士と言われるようになりました。バルタザール、メルキオール、カスパーと言う名前まで伝わっています。
この伝説は更に膨らんで、第四の博士まで登場する物語が生まれました。アルタバルと言う名の医者です。あくまでもおとぎ話ですが、クリスマスの心を色濃く反映していますので、紹介しましょう。

アルタバルは他の博士たち同様、メシヤの輝く星を見た後、その星を追いかけて旅立ちます。医師の職業を捨て、全財産を売り払って購入した高価な真珠を握りしめてです。その真珠は彼が幼子イエスに捧げるはずの贈り物でした。


アルタバルはベツレヘムを目指して旅立ちます。けれども医者ですから、旅の途中、病人を見つけては治療、介護してしまい、その旅路は遅々として進みません。結局、彼がベツレヘムの馬小屋に到着した時は、ヘロデ王の追手から逃れるべく、幼子イエスは母マリア、父ヨセフと共に、エジプトに脱出してしまっていたのでした。幼子に贈り物を渡す事が出来なかったのです。

その日から、アルタバルの新たな旅が始まりました。それはイエスを求める旅でした。けれども、その行く手にはいつも彼を必要とする病人や生活の糧が得られずに困窮している人々がいて、彼のイエス探求の旅路は牛歩状態、遅々として進みません。そうこうしているうちに、瞬く間三十数年が経ってしまったのです。


ある時、「イエスが十字架につけられる」との知らせがアルタバルにもたらされました。すでに年老いていましたが、これを最後の機会と立ち上がり、肌身離さず持っていた真珠を手にカルバリの丘を目指します。ところが、その途中、またもや彼は助けを必要とする一人の女性と出会ってしまうのです。この女性はその身を売らなければならない状況にありました。アルタバルは悩みながらも、肌身離さず持っていたイエスへのギフトであった真珠を彼女のために手放します。


さて、丁度同じ頃イエスは十字架上で息を引き取り、全地は暗くなり大きな地震が起こりました。不幸にもアルタバルは地震で壊れた建物の下敷きになってしまいます。しかしこの時、あの人が現れたのです。朦朧とした意識の中でアルタバルが見たのは、30年間探し続けていたあの幼子イエスでした。


「主よ、私は間に合いませんでした。しかも、あなたに差し上げる物は、もう何もありません。」


涙ながらに詫びるアルタバルを抱きしめて、イエスは優しく語りかけます。


「私は、お前の真珠を確かに受け取った。お前は今まで何度も何度も私に会っていたのだよ。小さな人々を助けた時、いつもいつも…」


その時彼は手ぶらでしたが、手ぶらではありませんでした


II.                   これはヒーロー談に非ず


 さて、私たちはアルタバルのような話を聞きますと、つい善行を多く行ったヒーロー談として捉えがちですが、アルタバルだったら何と言うでしょう。「そうではない、世の中を覆う闇との出会いの連続。それが我が歩みであった」と叫ぶのではないか、と私は思います。


彼が出会ったものは「聖夜」の「光」ではなく、「闇」だったからです。彼は光を追い求めていたのに、行く道行く道で闇に遭遇したのです。人々の苦しみと言う闇です。救われたいという心の呻きです。彼の歩みはその最後まで同じでした。アルタバルが最後に見たものは、「イエスの十字架」だったからです。これ以上の闇はありません。まるでイエスの生涯をなぞっているような歩みではありませんか。


イエスが生まれたところ――それは漆黒の闇に包まれた家畜小屋の中でした。寝かされたところ――それは石作りの冷たい餌台でした。羊飼いが天使たちの声を聴いたところ―――「聖夜」とは決して言い難い、冷たく寂しい夜でした。そして、イエスが殺されたところ――それは残酷な十字架の上だったのです。

けれども、ここに神の逆説があります。ヨハネによる福音書はこのようにその福音を宣言しました。


言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
(ヨハネ1:4-5, 9, 11-14)

イエスは闇の中で生まれたからこそ光り輝いていました。天使は闇夜に現れたからこそ光り輝いていました。羊飼いたちも心淋しく、孤独の中にいたからこそ、その眩しい光をしっかりと己が身に受けて、光り輝いたのでした。イエスは十字架で殺され、神からの断絶と言うこれ以上ない暗黒の絶望の中に葬られたからこそ、死の三日後によみがえられた時、その命の光は全ての闇を吹き飛ばしてしまったのです。

結び

アルタバルはイエスへ捧げるべきものを持っていませんでした。けれども、30年ほど先だって幼子イエスを訪れた他の博士たちの喜びと同じ喜びを、彼も得たのです。なぜなら、何も無い自分の内にイエスの光が注いだ時、他ならぬアルタバル自身がイエスへのギフトであることに気付いたからです。それは彼のありのままの存在、そして、彼が道すがら出会った悲しむ人々の「人生」に他なりませんでした。

メリークリスマス!


[1] お勧めの絵本。Joslin, Mary. The Fourth Wise Man. Illustrated by Richard Johnson. Colorado Springs: David C. Cook, 2007.