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2009/03/08  「荒れ野に顕現する神」――正邪混濁の池の中での悟り―― 
マタイによる福音書 4:1-11?

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

イントロ

パレスチナを旅行された方はご覧になられたでしょうが、イエスが40日間こもったと福音書が伝えるユダの荒れ野は、植物がほとんど生育せず、人の居住にも適さない荒れ果てた凹凸の激しい大地でした。時には、わずかな草木を頼りに、小規模の牧畜が営まれる場合もありましたが(詩編65:12-13参照)、しかし概して、それは恐れを感じさせる広大で荒涼とした地であり、野獣がうろつく場所であり、人の定住を拒絶する厳しい環境でした。[1] エジプトから脱出したイスラエルの民が40年間放浪した荒れ野は、シナイ半島からヨルダン川東岸にかけての地域ですが、彼らの逃避行を見れば、荒野が如何に過酷な場所であったかわかります。神がマナや石清水で養って下さらない限り、人が自力では生き抜くことのできない土地なのです。

I.                   なぜ荒れ野なのか

さて、イエスはバプテスマされ、神の霊を受けた後、その霊に導かれて荒野に向かいました。福音書は「悪魔から誘惑を受けるため」とその理由を記します。「そして[その準備として]四十日間、昼も夜も断食」されたのでした。実は、荒れ野で断食や祈祷を伴う自己修練的隠遁生活を送る者は、新約聖書時代、イエス以外にも少なからずいた、と歴史家(ヨセフス)は報告しています。エッセネ派のクムラン教団はその代表的な例と言えるでしょう。

ところで、なぜ荒れ野なのか…。それは自分の呼吸すら吸い取ってしまうような、荒れた大地に神がおられる、と信じていたからです。世俗化されたサドカイ派が支配するエルサレム神殿にではなく、荒野に神はおられると、神に出会えると。確かに、聖書の神は荒れ野・砂漠の神というイメージをヘブライの人々が持つほど、聖書では荒れ野に特別な意味が与えられていました。旧約聖書だけでも270回登場します(「砂漠」や「荒れ地」を入れればその用例はもっと増えます)。今日でも、コプト教(エジプトのキリスト教)などは、そのようなイメージを継承しています。

イエスご自身も、砂漠に対してそのようなイメージを持っておられたような節があります。静粛が支配し、己と神のみが対峙する聖なる空間・・・。けれども、福音書はそれだけではなく、「悪魔から誘惑を受けるため」にイエスは荒れ野を放浪したと言うのです。そうです、荒野は神と対峙するばかりでなく、サタンとも対峙する空間だったのです。誘惑する側には誘惑する材料、誘惑される側には誘惑される要素がたくさんありました。空腹、孤独、孤高・・・。真空のように何もない空間では、自己の感覚は研ぎ澄まされます。空腹であればその空腹感が、孤独であればその孤独感が、孤高の人であればそのプライド、虚栄心が。荒れ野に入って40日という極限状態にあったイエスは、そのすべての点において神経はむき出しになっていたのです。

II.                   サタンの誘惑 その1

そんなイエスにサタンは突如現れ、誘惑を開始します。目的はひとつ、イエスを自分よりも「やや低い」存在にすること。神の全権を委ねられた救い主を、自分の権力の下に置こうと、言葉巧みに誘惑します。「それくらいならいいか」というレベルで神の子を欺こうとするのです。

:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

食べ物らしいものが何もない荒涼とした荒れ地で、サタンは、「その石をパンに変えてみろ」とイエスを誘惑します。荒れ野には(ユダヤ人が食した種なし)パンそっくりの軽石がいたるところに転がっていました。見た目はパンのような石です。もちろん、イエスはキリスト、神の子ですから、軽石をパンに変える事は出来ました。サタンもそれを知って誘惑しているのです。けれども、イエスはそうはなさらなかった。なぜか・・・。

:4 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」 

イエスが荒れ野で身をもって学んだことは、祈りの中で悟ったことは、命の源泉はどこに、だれにあるのかという真実です。キリスト教会がこのイエスの言葉を証する時、とりわけ解放の神学を生みだした貧困にあえぐ第三世界でこの宣言をなすとき、「人が人間生活を営む上で必要不可欠である水と食物が必要ない、とでも言うのか!」という魂の怒りの言葉を聞きます。実は私も彼らと共に、怒りの声を上げたい。けれども、イエスがここで仰たことの重点は「パン」ではありませんでした。「神の言葉」だったのです。生死の境をさまようほどの空腹の絶頂にあったイエスに「食べ物は必要ないのか?」と問うことは愚かなことです。

主イエスは極限状態の中で、命を命たらしめる、人を人たらしめる、人間存在を存在者たらしめるものは何――言い換えますと、人間存在の本来性はなによって基礎づけられ、何によってそれはなるのか――という究極の真理を、この短い言葉に込めたのでした。「神の言葉(リーマ)によって生きる」――神の口から出る「リーマ」によって。「リーマ」というギリシア語は単に「言葉」という意味の単語ではなく、「語られた言葉」というニュアンスが含有された言葉です。「ことだま」と訳しては語弊がありますが、人格的且つ能動的な言葉なのです。

III.                   サタンの誘惑 その2

サタンの更に二つ誘惑をもってイエスを誘惑します。

:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」 :7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

サタンは聖書の言葉を持ってイエスを誘惑しますが、イエスは聖書の言葉を持って、サタンを論駁します。聖書は使いようによっては悪魔の言葉にもなりうる、ということだけをこのやり取りから学ぶとしたら、「不十分!」と主からお叱りを受けそうですが、けれども、事実です。

サタンの巧妙な論理は、聖書に書いてあることを論拠にあなたに言う「私の言葉」に信頼しなさい、でした。聖書の言葉を隠れ蓑に、それを神に強要せよ、とイエスに強いたのです。それは、「聖書(神の言)の偶像化」、「神の召使い化」の罪を犯させよういう罠でした。更には、奇跡による感嘆によって自分が神のメシアであることを宣言したらどうだ、と見えざる神への信頼に基づく信仰を、可視的な証拠に基づく疑似信仰に変質させようとする罠でもありました。

IV.                   サタンの誘惑 その3

もう一つの誘惑

:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。

「世のすべての国々」は当時の世界を考えると、ローマ帝国全域を指すと思われます。新約聖書の時代、「ローマ帝国」は「全世界」と同義語でした。そのような世界(ローマの支配下)で苦しむユダヤに、そのローマの政治権力に迎合したエルサレム神殿権力によって物質的にも霊的にも搾取されていたイスラエルの民衆に、解放をもたらすのはあなただ。神の国を打ち立てるのはあなただ、とイエスを諭すのです。ひとつの条件を付けて。「もし、この世の王である私を拝むなら・・・。」

イエスは高い山の上で何を見せられたのでしょうか・・・。この世の富と権力に支えられたこの世の王国ローマの栄光です。サタンは、同じ富と権力を与え、イエスが目指している人々の解放を、この世の力(軍事力)で達成せよ、と提案するのです。それが何よりも近道だと。 

思い出してください。イエスは精神的極限状態にあります。本来なら、面倒な遠回りはしたくないのです。疲れている時、お金があれば、鈍行電車ではなく新幹線で、電車ではなく飛行機で早く目的を達成したいと思うのです。生身の人間が持つ弱さを抱えながらも天路歴程を歩む人々に同伴するよりも、彼らにキャデラックでも提供して旅路を急がせた方が楽なのです。イエスご自身もわざわざ十字架という肉体的苦しみ、十字架と言う存在否定の苦しみを経験しなくとも、富と力で「救い」を完了できるならば、この世の支配者と言うレベルで良いのであれば万々歳なのです。イエスも生身の人間として、「この盃を我から取り去り給え」と十字架にかけられる前夜に、血の汗を流しながら必死に祈られました。主もできる事なら十字架を回避したかった。

それでも、イエスは再び聖書の言葉をもって、サタンの誘惑を拒絶します。

:10 「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」

これは申命記の言葉(6:13)の引用です。申命記6:13の前後を読みますと、その意図はもっとはっきりします。

あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。(申命記6:10-15)

「礼拝と奉仕は神にのみ!」と言ってしまえばそうですが、イエスは申命記の言葉を引用することによって、神からの賜物と己の富と力で築く権力を峻別します。その礼拝の対象は私たちに恵みを施し、必要を満たして下さる方、私たちがお仕えするのは、この世(コズモス=人々)へ関与して下さる、天の父なのだ、とイエスは弱った体で、力強く宣言するのです。

:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

結び

受難節です。英語ではレント(ゲルマン語[サクソン語に転じる]で「春」の意)ですが、ギリシア語ではパスハです。パスハ(英語ではパッションに派生)という言葉は「こうむる」という動詞の派生語です。イエスがこうむられた「十字架の受難」覚えるのです。誰がための受難か・・・。アーネスト・ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」に引用されているジョン・ダンの詩ではありませんが、「汝そんな愚問を呈するなかれ」です。その十字架の苦しみ、存在否定の受難」はあなたのための受難に他なりません。「人間の本来性回復」(罪の帳消し)のため、「あなたの存在をまるごと」包み込んで、そのまんまの姿で「新しい存在」へと変えてしまうためにこうむられた受難なのです。

イエスはご自分の安全圏から飛び出し、聖と悪が対峙する、不確かな場(荒れ野)に身を置かれました。そこで悪魔の誘惑に遭遇し、神の守りを経験されたのです。より直接的な表現を使うならば、神との出合われたのです。40日間の荒れ野での放浪には、神から選ばれた者として、そのような熾烈なドラマがありました。

受難節に私たちがふと思い出したいのは、我々生の場もまた「荒れ野」であるということです。荒れ野では、何が起こるかわかりません。すべての機能が一瞬にして奪われる「点的時」もあれば、変化をヴィヴィッドに肌に感じることなしに、じわじわと私たちの存在を腐らせていく「線的時」もあります。病、家族崩壊、失業、天災・人災による被害、対人関係のもつれ、虚無感などはそのどちらかに当てはまりますでしょう。

けれども、逆説的ですが、すべての音が、声が、大地の中に吸収されてしまうような荒れ野・砂漠こそ、神との出会いの場、神と一番近い場所でもあります。「いや、イエスにとってはそうだったかもしれないが、私にとってはそうではない。そこにあるのは『神の沈黙』のみだ!」とおっしゃれる方もおられるでしょうか。或いはそうかもしれません。けれども、そうだからこそ、同じ葛藤を持っていた遠藤周作さんが「沈黙」という小説の中で、登場人物の一人、転びバテレン(棄教した宣教師)、フェレイラに語らせた言葉を紹介して、人生と言う荒れ野の道中の求道の励ましに代えたいと思います。

私がその愛[神の愛]を知るためには、今日までにすべてが必要だったのだ。・・・そしてあの人[神]は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。[2]


[1] 新聖書辞典「荒野」の項参照
[2] 『沈黙』(遠藤周作文学全集2、新潮社)325。