イントロ
今年度私たちは、エフェソ書四章前半のパウロの教えを元に、「共に公同礼拝を神に捧げ『聖なる公同の教会』を建て上げて参りましょう」との標語を掲げました。私たちがこの標語を掲げましたのは、歴史の違い、教派の違いこそあれ、キリストの諸教会(The Churches of Christ)がその始めの時から持っていた「公同性」とう性格を自覚したいとの思いからです。公同性を自覚するとは、即ち、頭なるキリストの教会の「普遍性」の理解に繋がります。つまり、私たち「めじろ台キリスト教会」はメンバーの各々が排他的に隔離された集団でもなければ、孤立した単なる単立教会でもないということです。私たちは、確かに「復帰運動」(ストーン・キャンベル運動)の流れの中から出てきた、制度的には独立の単教会であり(それ自体は何の悪いこともありません)、世界に広がる諸教会のひとつでしょう。けれども同時に、普遍的教会the catholic church[1]の一部でもあるのです。
今「公同性」と「普遍性」という二つのキーワードを挙げましたが、この概念は、ローマ教会、聖公会(アングリカン教会)の登場を待つまでもなく、古くはニケア信条[2]や使徒信条に既に、教会の特性として明確に「定義」されていました。この時代教会には様々な教え、とりわけアリウス派というような異端的教えが無視できない勢力を持っていたのがその背景です。いわゆる正統派教会は、教会は分派主義に陥るのではなく、自分たちの信仰を図る物差し「信条」(カノン)に従いつつ、教会の普遍性を維持し、またそれを求めていかなければならないのだ、と主張したのでした。もちろんその背景には、信仰だけではなく、皇帝の権威を利用するといったような政治的打算があったのも事実です。けれども、教会の礎である「正しいキリスト理解」(キリスト論)が脅かされ、教会の「公会性」と「普遍性」が崩れそうになったとき、正統派は命がけで、教会という土の器に委ねられた真理を護ろうとしたのでした。
先ほど触れましたが、彼らが聖霊の導きを祈りながら、思案に思案を重ね練り上げた信仰告白がいくつか残されています。その中のニケヤ信条と使徒信条を見てみましょう。
ニケア信条
わたしたちは、唯一の神・全能の父・天地とすべて見えるものと見えないものの造り主を信じます。また、世々の先に父から生まれた独り子、主イエス・キリストを信じます。主は神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られず、生まれ、父と一体です。すべてのものは主によって造られました。主はわたしたち人類のため、またわたしたちを救うために天から降り、聖霊によっておとめマリヤから肉体を受け、人となり、ポンテオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ、苦しみを受け、死んで葬られ、聖書にあるとおり三日目によみがえり、天に昇り、父の右に座しておられます。また、生きている人と死んだ人とを審くため、栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。また、主なる聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、父と子から出られ、父と子とともに拝みあがめられ、預言者によって語られた主です。また、使徒たちからの唯一の聖なる公同の教会(公会)を信じます。罪の赦しのための唯一の洗礼を信認し、死者のよみがえりと来世の命を待ち望みます
アーメン
Nicene Creed(ニケア信条英訳)
We believe in one God, the Father, the Almighty, maker of heaven and earth, of all that is, seen and unseen.
We believe in one Lord, Jesus Christ, the only Son of God, eternally begotten of the Father, God from God, Light from Light, true God from true God, begotten, not made, of one Being with the Father. Through him all things were made. For us and for our salvation he came down from heaven; by the power of the Holy Spirit he became incarnate from the Virgin Mary, and was made man. For our sake he was crucified under Pontius Pilate; he suffered death and was buried. On the third day he rose again in accordance with the Scriptures; he ascended into heaven and is seated at the right hand of the Father. He will come again in glory to judge the living and the dead, and his kingdom will have no end.
We believe in the Holy Spirit, the Lord, the giver of life, who proceeds from the Father and the Son. With the Father and the Son he is worshiped and glorified. He has spoken through the Prophets.
We believe in one holy catholic and apostolic Church. We acknowledge one baptism for the forgiveness of sins. We look for the resurrection of the dead, and the life of the world to come. Amen.
ニケア信条のギリシア語原文
使徒信条
わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。また、その独り子、主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によって宿り、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみに降り、三日目に死人のうちからよみがえり、天に昇られました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこから主は、生きている人と死んだ人とを審くためにこられます。 また、聖霊を信じます。聖なる公同の教会(公会)、聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を信じます。アーメン
The Apostles’ Creed(使徒信条英訳)
I believe in God, the Father almighty, creator of heaven and earth.
I believe in Jesus Christ, his only Son, our Lord. He was conceived by the power of the Holy Spirit and born of the Virgin Mary. He suffered under Pontius Pilate, was crucified, died, and was buried. He descended to the dead. On the third day he rose again. He ascended into heaven, and is seated at the right hand of the Father. He will come again to judge the living and the dead.
I believe in the Holy Spirit, the holy catholic Church, the communion of saints, the forgiveness of sins, the resurrection of the body, and the life everlasting. Amen.
今見ました二つの信仰告白では教会を「聖なる公同の教会」と訳しておりますが、英訳ではone holy catholic and apostolic Church(ニケア信条)ですとか Holy catholic Church(使徒信条)となっております。「おやおや、カトリック教会か?」と思われるかもしれませんが、カトリックという言葉は元々「公同」或いは「普遍的」という意味の言葉ですから、意味するところは、我々はアリウスやその他特定の地域や分派に限定されたキリスト教会ではなく、人類のすべてに開かれ、共有された、キリストの普遍的教会なのだ、という主張です。ですから、私たちがカトリック教会を呼ぶとき、正式にはローマの大主教(教皇)の権威に限定された普遍的教会という意味で、ローマ・カトリック教会と呼んでいるわけです。ちなみに、日本のアングリカン教会は文字通りの普遍的教会を打ち出し、the holy catholic Churchを「聖公会」と直訳しています。
さて、按手礼と就任式が明けての初めての主日ですから、今年度の標語に皆で思い寄せる良い機会かと思います。今朝はエフェソの信徒への手紙の四章から、キリスト教会が世紀を通じて「聖なる公同の教会」と呼び習わしてきたキリストの体である「教会」の特質、とりわけ、それが「ひとつ」であるのだ、ということを学んで参りましょう。
I. 御霊の一致を守り続ける
:1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、:2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、:3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。:4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。
エフェソ書は、フィリピ、コロサイ、フィレモンの各書と同様に、パウロが獄中から書いた書簡です。獄中で自分の最期を意識した彼は、もう一度あの思い出の教会の人々に伝えたいというメッセージを込めてひとつひとつていねいに書き送りましたが、エフェソ教会はパウロにとって特別な教会だったようです。それは、「私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ…」という文面からも明らかです。
エフェソ教会では、パウロの愛弟子テモテが奉仕していました。教会は、繊細で未熟な面もある若いテモテを受け入れ、共に一心に主に仕えていたのです。信仰と愛から生まれる温かさを持つ教会でした。獄中のパウロにもたらされる諸教会の情報は、いつも良いものばかりではありませんでしたが、エフェソ教会はパウロの心を躍らせる信仰と愛のあふれる教会だったことがエフェソ書からはうかがえます。
パウロはそのようなエフェソの教会に、「神から招かれた者」の持つべき態度(信仰に基づく倫理的規範)を提示します。(1)高ぶるな(2)柔和であれ(3)寛容の心を持て(4)愛を持って互いに忍耐せよ(5)平和の絆で結ばれよ(6)そして、霊による一致を保て。これらの態度はフィリピ書2:1-8に描かれているキリストの精神をそのまま反映しています。
そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
キリストが私たちを召してくださったのは、私たちがキリストの十字架の歩みに参与し、復活の望みに生きるためです。そのように召しだされた(エクカロー)他ならぬキリスト者たちが、「教会」(エクリシア)を形成するのです。そこにおけるキーワードは「一致」です。より具体的には「平和のきずなで結ばれた霊による一致」であるとパウロは言います。
ただ、一言で平和のきずなで結ばれた霊の一致、と言われても、どのような一致なのだ、思われる方も多いでしょう。実はこの「平和」のギリシア語「エルゴン」が、ヘブライ語の「シャローム」からの訳語であることに着目しますと、この短い一句に込められた深遠な意味を読み取ることができます。 ヘブライ語のシャロームという言葉は元来、「原型回復の平和」というニュアンスが含蓄されています。シャロームは昔も今もユダヤ人の間で交わされる挨拶ですが、その平和の源泉は神です。人はまずその神との縦の関係における「原型回復の平和」(perfect peace)を頂いて、それから初めて人同士の横の繋がりにおける「平和」を保つことができるのです。ここでパウロが言わんとしていることは、そのような「原型回復の平和」を頂いた者たちが平和を保ち得るのだ、という一言に尽きます。それだけではありません。キリスト者になったときに賜物(ギフト)として頂いた「聖霊」(キリストの心そのもの)を共有して、キリスト者の間に「一致」を保つことができるのだと、ともパウロは言うのです。もちろん彼は、それを「努めなさい」と勧めるのですが、パウロが持っている確信は、キリストによってそれは「できる」ということです。4節でパウロは「霊による一致」を「体は一つ、霊は一つ」と言い換えています。つまり、教会の全体性(oneness)を指しているのでしょう。そのように理解しますと、神からの「平和」は公同の教会の全体性を支えるバインダー、ギフトとして与えられた「霊」は全体の調和を保つハーモナイザーに他なりません。ここにこの世を旅する巡礼者集団としてのキリスト教会の「一致」の基礎があり、この巡礼者集団は一つの「人間存在の完全なる回復」という希望に招かれ、そこに邁進して進むのです。
II. 公同の教会の普遍性
:5 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ
パウロは前節で「体は一つ」「霊は一つ」と、教会の全体性について言及しましたが、「一つ」という言葉の使用は、教会の普遍性も当然念頭に置いています。パウロ更に、ここで教会の普遍性(公会性)について論を進めていきます。
「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」。日本語訳だけでも印象的な三項形式の文ですが、ギリシア語原文では、同じ「一つ」でも男性名詞、女性名詞、中性名詞によって数詞が使い分けられていて、もっと印象的です。「イス キリオス、ミア ピスティス、エン ヴァプティズマ」。これは当時流布していた古い信仰告白文でした[3]。 この告白に関する詳説は無用でしょうが、キリスト教徒にとっては自明なこの古い信仰告白をパウロがここでわざわざ引用する背景には、教会内部にある種深刻な問題を引き起こしかねない「多様性」が存在していた、と見るのが自然でありましょう。たとえば、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャン、金持ちクリスチャンと貧乏人クリスチャン、社会的に偉大なクリスチャンと社会的に取るに足りないクリスチャンの共存です。実際コリント教会では、これらの人種、経済、社会の階層間に大きな軋轢が生じ、主の食卓を守れない状況が起こりました。けれども、エフェソ教会では、この時点においては、すべてのグループが共生していたようで、パウロはその一致をサポートすべく、キリスト者にとっては自明である真理を、古い信仰告白の引用を持って、彼らに公同の教会の基の再確認を促しているのです。もしこの交わりの中において主がただおひとりであるのなら、そのお方への信仰も一つであるはず。なれば当然、その同じ方の名によるバプテスマも一つである。コリントの教会には、「『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っていた」(Iコリント1:12)という記述がありますが、パウロはここで明確に、何人かのリーダーたちのそれぞれのグループへの加入でもなければ、(状況はそうであっても)様々なキャラクターを持った諸教会の多元性の中への投入ではない、唯一の主がその中心である一つの信仰と一つのバプテスマを力説します(注意:これは排他的一元主義でもありません)。バプテスマによってキリストの体の枝となる出来事全体を、短い文の中に表現しました。それはとりもなおさず、我々キリスト者が「唯一の聖なる公同且つ普遍的教会」に属している事実を指し示していることに他ならないのです。
極めつけは、「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(4:6)の一言でありましょう。「イス セオス ケ パティール パンドン、オ エピ パンドン、ケ ディア パンドン ケ エン パスィン」。 これもまた古い信仰告白を反映したセリフです。申命記6:4に「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」という荘厳な一句があります。これをクリスチャンたちは、頭なるキリストの神とキリストの体なる教会との関係においてキリスト論的に再解釈し、上記の信仰告白文を生み出したのでしょう。この節の後半部分に、「上」「通して」「内」という三つの前置詞を用いて、神はどこにでもおられる(遍在)ということを賛美しています。神の遍在をこのように表現されますと、日本人はつい「神の内在」に重きを置いてしまいがちですが、聖書の神は基本的に「超越神」です。内在もしますが、重点はそのご支配の偏在性なのです。
V. それぞれの賜物
ここだけで一つの説教でできてしまうほどややこしいので本日は以下は抜かします。
:8そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。:9「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。:10この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。
:7 しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています…:11 そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。:12 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。:14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
公同の教会を形成するキリスト者たちには、それぞれの分(キリストからの賜物)に応じて恵みが与えられているとパウロは言います。そして、その恵みの賜物を彼はここで、「使徒」「預言者」「福音宣教者」「牧者」「教師」といった職務に与えられ、12節以降で、「救いの賜物」は彼らを通して、すべてのキリスト者に、分与されると結論付けます。
それにしてもここで興味深いのは、ここに出てきたいくつかの職責です。「使徒」は語源から言えば単なる先立つメッセンジャーに過ぎませんが、ここではキリストの十二弟子を指しているのでしょう。次に「預言者」です。旧約聖書の預言者とは働きもおもむきも異なり、新約聖書における彼らの具体的職責はいまいちはっきりしませんが、少なくとも「預言者」なる人々が新約聖書でも少なからず出てきて、目立ってはいます。たとえば、若い教会を建て上げる働きに加わったり(2:20; 3:5)、未来を預言したりしています(特別な状況に神からの必要な言葉を告げる)(使徒11:28; 21:9, 11)。ちなみに、ヴェインヤードのようなペンテコステ派教会には、文字通り「預言者」なる人たちがいて、積極的な預言活動をしています。「伝道者」はほとんど聖書には出てきませんが、フィリポ(使徒21:8)やテモテ(IIテモテ4:5)が伝道者として紹介されています。彼らは主に、使徒の元で働く伝道者であり宣教する者でもありました。「牧者」(牧師)「教師」につきましては、その働きに大差はありません。教会における「群れの配慮者」の働きをなしました。牧者と教師の働きに関しましては、使徒言行録に出てくる「長老」や「監督者」(使徒20:28)も名称が違うだけで、その働きは同じです。一世紀の教会においては、それぞれの職を位階に従って階層化するようなことはまだ起こっていませんでした。また「監督」(Bishop)「司祭」(Priest)「デアコニア」(Deacon)といったような三職位による使徒継承という、ローマ教会やアングリカン教会、東方正教会の考えもまだ形成されていません。つまり、教会の組織化はまだ全然起こっていなかったのです。
個所は違いますが、ローマ書にもパウロは同様のことを、もっと平易な表現で記しています。
12:6 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、12:7 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、12:8 勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。
結び
ニケア信条、使徒信条の中で告白されている「聖なる公同の教会」をキーワードに、キリストの体なる聖徒たちの交わり、共同体とは如何なるものなのかを学びました。この個所はまたまだ語り足りない、大変奥深い個所です。けれども今朝の短い時間の中で、私たちが学んだ「教会」の公会性、普遍性、特質、交わりの一致、特質、(原始教会の)働き手の種類と職責、公会としての聖徒たちの一致を手掛かりに、更なる学びを続けていければと思います。
最後に、今学んできたことの究極的目的を、最後の12節から14節の朗読を持って閉じたいと思います。
:12 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。:14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
[1] 小文字の“c”でcatholicと書く場合、ローマ・カトリック教会を指すのではなく、すべてのキリスト教教派、教団、伝統を包括する普遍的教会を指す)
[2] 初代の信条のように教育や洗礼の時の公の信仰告白にも使われましたが、正しい教えの試験のためにも使われました。
紀元319年、アレクサンドリアの教会の指導者であるアリウスは、「イエスは神ではなく造られた存在であり、半分神で半分人間だ」と教え始めました。この教えは、コンスタンチヌス皇帝が干渉しなければならないまでに、教会の中で議論され、広がっていったのでした。皇帝はニケヤに教会の指導者たちの会議を召集し、紆余曲折はあったものの、最終的に会議はアリウスに反対し、のちに教会が受け入れたひとつの信条に同意しました。それが今日ニケヤ信条と呼ばれるものです。「造られず生まれ、父と一体である」という一句が、アリウスの教えと戦い、正しい信仰を確保するために、特にニケヤ信条に取り入れられたのでした。
[3] Iコリント8:6の「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」やフィリピ2:11の「イエス・キリストは主である」もまた然り。
|