メッセージバックナンバー

2009/07/19  「『救われるためのリスト』からの解放  マルコによる福音書 5:1-18(抜粋)



イントロ


  墓場のイメージは総じて、今日、墓地や霊園という言葉が表現しているように、きちっと整備され、整えられたメモリアルパークのそれではないか、といくつかの霊園や墓地を見学しながら考えました。まさに「園」と呼ぶにふさわしい、鎮魂と記念のまごころに包まれた場所です。墓ではありませんが、先週の土曜日、靖国神社でもそれを感じました。
  けれども、今朝の聖書箇所に出てくる「墓場」は、現代日本、とりわけ都心部ではすっかりその姿を消してしまったおどろおどろの空間、この世とあの世の境界、霊のさ迷う場所です。
聖書におけるイスラエルの世界では、墓場には、穢れと呪いの凝縮、恐れを引き起こす、最低の場所、という位置が与えられていました。墓場のメタファです。マルコ5章はその事実を見事に描いています。「汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」「この人は墓場を住まいとしており」云々。イエスご自身もこのような言葉を残しています。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。」(マタイ 23:27)。イエスもまたユダヤ社会で墓場がもつメタファの中を生きおり、その事実をよく分かっていたのです。

I.                   ゲラサ


  物語は、ゲラサという土地で起こります。「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」(5:1)。ゲラサがどこに位置していたかのかについては諸説ありますが、大まかには、時の為政者、ローマ皇帝の支配する「デカポリス」(「10の町」の意)という、異教の地(非ユダヤ世界)でと言うことができます。ことはこのような場所で起こりました。
奇跡物語に込められた「福音」を一言で表現するならば、「悪霊からの解放」(存在の回復)に尽きますが、注目すべきは、それが異教の地でなされたということなのです。宗教人類学者は、ゲラサの土地神対治癒神イエスの対決、といった構図をこのような物語に見ますので、神話研究としての結論は意外と単純です。けれども、「福音」という視点から見ますと、「イエスの勝利」に沸き立つ前に、イエスが異教の地に出向いて行ったという事実に私たちは注目させられるのです。当時エルサレムの正統派ラビたちはわざわざ泥臭く汚れた異教の土地に出向くことなどいたしません。なぜなら、異教徒は初めから「祝福の外」にいる人たちだからです。けれどもイエスは違いました。自ら湖を渡り、人間が作り出したレッテル(メタファ)を打ち砕きながら、「墓場の悪霊に疲れた男」に会いに行くのです。


II.                   ゲラサの悪霊憑き


5:2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。:3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。:4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。:5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。


  ホラー映画のような描写です。悪霊憑き、墓場の住人が、異常な怪力で鎖足かせを粉砕する…。マルコが列挙したこの男の特徴は、正統派ユダヤ人にとってもっとも汚れたものであり、神と正反対の世界に属するものです。つまり悪魔の世界、死の世界に属するものです。「汚れた霊に取りつかれている人」という表現は直訳しますと「悪霊の中にいる人」です。この男は、墓場という死の領域で、悪霊どもの只中で暮らしている人のです。何度も言いますが、墓場は、当時のユダヤ社会の通念では、皆が目を背ける汚らわしい、絶望の世界なのです。その中に生きる人は、生きながらにして、人間の存在を死に至らしめる病に冒された状況にあります。「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」…。孤独の叫びです。家族からも見捨てられていたかも知れません。コミュニティーからは完全に拒絶されていました。村八分どころか、村十部、完全な拒絶です。治療手段が「鎖」や「足枷」のみ、という事実がそれを如実に物語っています。
そのような彼に、イエスは近づいていきます。ユダヤ教の禁を犯して、人間が作り出したレッテル、メタファを砕きながら、この男に手を伸ばすのです。

神は孤独な人に身を寄せる家を与え/捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる(詩編68:7)。ダビデの残した詩です。

たとえ、お前たちの罪がどす黒くても/雪のように白くなることができる。たとえ、まっかかであっても/羊の毛のようになることができるイザヤ書1:18。預言者イザヤに神が託された言葉です。

 イエスは今ここで、その神の御約束を実践するのです。「汚れた霊、この人から出て行け」(5:8)。すると、霊はこの人から出て行き、悪霊憑きだった男は服を着、正気になりました。 墓場の男は解放されたのです。 何から解放されたか…。悪霊からでしょうか。 確かにそうです。けれども、彼の人生の経験をよくよく考えますならば、彼が解き放たれ、自由にされたのは、レッテル、メタファからでした。人間が作り出した「救われるためのリスト」からの解放だったのです。イエスと言う神の国の義、神が一方的に与えて下さる神からの義を頂いて、この人の存在の回復が起こりました。
イエスによって罪からの「解放」、レッテルからの解放を経験した者は、イエスの弟子となり、その背中を追って歩み出します。厳密にはイエスが真横に同伴して下るのですが。

 「イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。」(5:18)。

結び

それが私たちをイエスの弟子へとなるようにいざない、押し出すのです。バプテスマ(洗礼)という「罪の洗い流し」「罪の赦し」の経験を通して。